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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第78話 壊れかけの硝子、完璧な微笑み

 海面が真昼の光を全部反射して、眩しく輝いていた。

 海沿いの遊歩道。

 二人の間に落ちた沈黙を、潮風だけが吹き抜けていく。


 ――君の語る思い出には、熱がない。

 俺の投げかけたその決定的な言葉のあと、天道はしばらく黙っていた。

 図星だったのか、次の一手を組み立てているのか、どちらとも取れる沈黙だった。


 少女の前髪が揺れて、一瞬だけ表情が隠れた。

 風が止んだとき——かすかに揺らいでいた微笑みは、もう完璧なものに元に戻っていた。


 戻ったんじゃない。

 戻したのだ。

 さっき裾の中へ逃げた指先を見ているから、その違いがわかった。


 その少女が、前を向いたまま静かに一歩を踏み出す。

 サンダルの底が砂を噛む小さな音がした。


「……駅まで、お送りしますね」


 声は穏やかだった。

 少女はもう返事を待っていなかった。

 当たり前のように前を向いたまま、少し先を歩き出している。


「ああ」


 半歩先を行く背中を見ながら、遊歩道を駅の方向へ歩く。

 七月の真昼の空気は湿っていて、館内の涼しさに慣れた肌にまとわりつく。

 潮の匂いが少しずつ薄くなっていった。


 歩きながら、少女が一度だけ手元へ視線を落とした。

 指先が二度ほど画面を叩く。

 朝の言葉どおり、迎えを呼んだのだと分かった。


 会話はなかった。

 けれど重くもなかった。

 俺のほうにはもう迷いがなかったし、少女のほうは——何を考えているのか、横顔からは読めなかった。

 どこかで車のクラクションが短く鳴って、それきり途切れた。


 少女は一度も振り返らなかった。

 歩幅は小さかった。

 こちらが追いつかないように、半歩分の距離を正確に保っている。


 しばらくして、少女がぽつりと言った。


「……あの方々、どの方も、なかなか手強そうですね」


「そうか?」


「そうです。——あんなに必死に走ってこられるくらいですから。私、あのとき目の前で見ていましたけれど、一花さまとおっしゃった方の走り方には、ちょっと感心してしまいました」


「あれは、感心するようなものじゃないと思うぞ」


「そうでしょうか。……ずいぶん、大事にされていらっしゃるんですね。【リオン】さまは」


「……大事にされてるのはむしろ、俺のほうかもしれない」


 自分でも意外なくらい素直な言葉が、口から出ていた。

 少女の背中が、ほんの一瞬だけ止まった。

 それからまた、同じ歩幅で歩き出す。


「……そうやってお答えになるのが、【リオン】さまなんですね」


「……悪い意味で言ってるのか?」


「いいえ、いい意味です。——そういう方だから、私は、今日ここに来たんです」


「……そうか。それなら、よかった」


「……お会いできて、良かったです。本当に」


 声にはもう、責めるような響きはなかった。

 ただ、静かに何かを確かめるような声だった。


 商店街の裏道を抜けると、駅前のロータリーが見えてきた。

 真昼の日差しがロータリーの白いタイルを焼いていた。

 改札の奥だけが、暗く沈んで見えた。

 タクシー乗り場の屋根が影を作って、そこにまばらな人影が立っている。

 その先の日向に、朝と同じ黒塗りの車が停まっていた。


「——今日は、ありがとう」


 立ち止まって言った。

 少女が半歩先で足を止め、ゆっくりと振り返る。


「水族館も、話してくれたことも。ちゃんと聞けてよかった。——あの夜の言葉を、そこまで抱え続けていてくれたことも」


 嘘じゃなかった。

 あの深夜のチャットの言葉を一字の狂いもなく覚えている少女の異様さ。

 それでも——その熱量だけは、嘘じゃないと思った。

 七十秒かけて打った不揃いな言葉を丸ごと覚えていられるのは、あの夜を本当に大事に思っていなければできないことだ。


 少女がまつげを伏せた。


「……もったいないお言葉です」


 少女の微笑みが少しだけ深くなった。

 穏やかな声のまま、けれどさっきまでの滑らかさとはどこかが違う。

 声の形は同じなのに、力の入りどころが変わっている。


「今日いただいたお言葉、大切にいたします。……私、これからも【リオン】さまの——」


「でも——俺には今、ちゃんと向き合いたい人たちがいるんだ」


 少女の瞳がかすかに揺れた。

 微笑みはまだ保たれていた。

 けれどまぶたの奥で何かが軋む音が聞こえた気がした。


「……そう、ですか」


 同じ言葉だった。

 遊歩道で聞いたあの相槌と同じ穏やかな響き。

 けれど今度は、声の底が深かった。


「今日ここに立てたのも。今日ここでお話ができたのも。——ずっと、【リオン】さまのことを考えていたからです」


 声のトーンが少しだけ低くなった。

 真昼の光の中で、少女の白い顔に淡い影が落ちる。


「それだけは、信じてくださいますか?」


 答えに詰まった。

 この少女の言葉のどこまでが本当で、どこからが装いなのか、俺には測れない。

 けれど今、少女の声の底にあるものは——装いではなかった。

 装ってこの声は出せない。


「……信じる。そこは、信じるよ」


 答えは、迷わずに出た。

 少女の睫毛が、かすかに震えた。


「——君が俺のことを、ずっと考えていてくれた。それは、ちゃんと伝わってる」


「……」


「それが、どこから来たものだとしても。今日の君が俺のためにいてくれたことは、嘘じゃない」


 少女の唇が、何かを言いかけて閉じた。

 微笑みの形が、また一段だけ揺れた。


「……ずるいことを、おっしゃるんですね。【リオン】さま」


「そうか?」


「そうです。——そんな言葉を最後にいただいたら、諦められなくなります」


「そこは、諦めてもらえると助かるんだけどな」


「……ふふ」


 今日初めて、装いのない笑い声を聞いた気がした。

 微笑みの端が、また少しだけ引きつった。

 けれど声だけは、まだ穏やかだった。


 少女の手がゆっくり持ち上がった。

 白い指が、俺の袖に触れる。


 つかんでいるというよりは、ただ引っかかっているだけだった。

 風が吹いたら外れてしまいそうな、かすかな力。

 指先が冷たかった。

 七月の真昼だというのに、体温が届いていない。


「——【リオン】さま」


 声が変わっていた。

 完璧に整えられた響きの奥から、まったく別の声が漏れ出している。

 今日一日聞いてきた穏やかさではなかった。

 もっと薄くて、もっと細い——壊れかけの硝子みたいに危うい声だった。


「お願い……私を、信じてください」


 穏やかな微笑みの下に——酷く疲れた少女の顔があった。

 目の奥が暗くて、深くて、底が見えない。

 その目が俺を見ていた。

 膝をついて手を伸ばすみたいに——すがるように。


「私は——ずっと、近くで見ていたんです。ずっと……」


 ——近くで。

 見覚えのない少女が、ずっと近くで。

 その言葉が胸に小さな棘を残した。

 意味を掴もうとするのに、指の間を水のようにすり抜けていく。


「私だけを見てください……【リオン】さま」


 最後の言葉はほとんど囁きだった。

 完璧なルナの記憶を語るあの声ではなかった。

 誰かにすがる、不器用で切実な少女の声だった。


 ——胸が、ちくりと痛んだ。

 この少女がどういう存在なのかはわからない。

 けれど今この瞬間——仮面でも完璧でもない、生身の声が聞こえた。


 答えは——出す前に、少女の指が袖から離れた。

 自分で外した。

 触れていたことを恥じるように、白い指が拳の中に収まり、裾の奥へ消える。


 一拍。


 次の瞬間、微笑みが戻っていた。

 完璧に整えられた、今日何度も見た微笑み。

 けれど目の端だけが、まだわずかに赤かった。


「……今日のところは、引いてあげます」


 声も穏やかさを取り戻していた。

 さっきの祈るような声を聞いたあとでは——その穏やかさが、かえって薄い膜一枚を隔てているように見えた。


「でも——諦めるなんて、一言も言っていませんから」


 少女は一歩退いた。

 真昼の光がロータリーの白いタイルに反射して、横顔を眩しく縁取っている。

 目の端の赤みは、もう見えなくなっていた。


「——天道」


 名前を呼んだ。

 少女の肩が、ほんの少しだけ持ち上がる。


「気をつけて、帰れよ」


 声にどれだけの何かが乗ってしまったのか、自分ではわからなかった。

 ただそれだけは、伝えておきたかった。


「……はい」


 声は静かだった。


「お気をつけて。【リオン】さまも」


 小さくお辞儀をして、背を向けた。

 水色のワンピースが、日向に停まった車のほうへ歩いていく。

 振り返らなかった。

 少女が近づくと、黒服の運転手が車を降りてドアを引いた。

 その数歩を、少女は歩幅ひとつ変えずに歩いた。


 さっきの声が嘘だったみたいに、どこにも揺れた跡が見えない。


 胸がまだ痛んでいた。

 あの目だった。

 崩れかけた仮面の下に見えた、疲れ切った目。

 あの少女は——何を背負っているんだろう。


 けれど追いかけはしなかった。

 答えは、もう出ている。


 ドアが閉まった。

 濃いフィルムの向こうは、もう何も見えない。

 車は滑るように車道へ出て、白い光の中へ紛れていった。


 白いタイルの上に一人立ったまま、真昼の駅前を見渡した。

 海のほうに、水族館がある。

 四人が、まだあそこで待ってくれている。


 ——戻ろう。


 足が勝手に動いた。

 来た道の方向へ、体が向く。

 商店街の裏道の入り口で、一度だけ振り返った。

 車が停まっていた場所には、真昼の日差しだけが落ちていた。


  ◇


 濃いフィルムの内側で、街の光が滲んで流れていた。


 後部座席で、少女は膝の上に手を置いていた。

 その手が、細かく震えている。

 止めようとすると、余計にひどくなった。

 指を組んで、強く握り込んだ。


 窓に映った自分の顔は、まだ笑みの形を保っていた。

 ——大丈夫。

 今日は、うまくやれた。

 うまくやれたはずだ。


 だって、間違えたところなんて一つもなかった。

 一字も、違えなかった。


 喉の奥が熱くなって、慌てて窓の外へ目を逸らした。

 流れていく街並みの、どこにも掴まるものがない。


「……次は」


 声が掠れた。

 次は、もっと上手にやろう。

 もっと正確に、もっと完璧に思い出してみせる。

 そうすれば、きっと——。


 その先を考えようとすると、頭の中が白くなった。

 考えなくていい。

 思い出せることなら、まだいくらでもある。


 車は、静かに街を離れていった。


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