第77話 温度の欠如、白い遊歩道
クラゲの光だけが、通路の空気を薄く震わせていた。
誰の息づかいも、聞こえない。
水槽の中でミズクラゲの傘が一度膨らんで、青白い光がゆっくりと拡がって、また萎んでいく。
その明滅だけが、止まった四人の輪郭を淡くなぞっていた。
少女は数歩先で穏やかに微笑んでいた。
俺が来るのを最初からわかっていたような顔だった。
「——ちょっと、行ってくる」
一花さんの腕をそっと外した。
指先が離れるとき、一花さんの手が一瞬だけ追いかけて——止まった。
「はいはい。早く戻ってきなよね、馬鹿誠。あんまり時間かけると、承知しないから」
声はいつもより低めだったけれど、いつもの軽さはちゃんと残っていた。
肩をすくめて、わざとらしく腕を組み直す。
「大丈夫だ」
「センパイ、こっちで待ってますからねー」
篠崎が敬礼のポーズで、口だけは跳ねるように送り出してくれた。
「戻ってきたら、選りすぐりのドリンクご馳走しますから、覚悟してくださいよ」
「なんの覚悟だよ」
「三桜先輩お墨付きの一本ですから」
「なおさら怖いんだが」
二葉さんは何も言わなかった。
俺と目が合うと、ほんのわずかにうなずいて、それだけだった。
カーディガンの裾を、指先が浅くつまんでいる。
その視線が、言葉より雄弁に背中を押していた。
三桜さんはパフェを胸に抱えたまま、こくりと小さくうなずいた。
目が少し赤かった。
俺は受け取ったままだったパフェのカップを、そっと三桜さんに戻した。
三桜さんの指が、カップを受けるついでに俺の指に一瞬だけ触れて、それからそっと離れる。
視線は上げなかった。
少女は数歩先で待っていた。
微笑みは崩れていない。
けれど瞳の奥に、俺と四人のやり取りを見つめる淡い影が落ちていた。
四人の気配が背中から離れていく。
足音が一つずつ遠くなっていった。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん行けなくなる。
◇
水族館を出ると、七月の日差しが遊歩道に白く落ちていた。
海沿いの遊歩道に、真昼の光が短い影を落としている。
潮の匂いが濃かった。
風は湿っていて、館内の涼しさに慣れた肌にまとわりつく。
振り返れば水族館の青い看板が、真上の太陽を弾いてまぶしかった。
少女は半歩先を歩いていた。
水色のワンピースの裾が海風に煽られてかすかに揺れる。
しばらくどちらも口を開かなかった。
館内ではずっと少女のペースだった。
改札前の出迎えから始まって、熱帯魚も大水槽も深海も、全部を滑らかに組み立ててきた。
その少女が今は——ただ黙って、前を歩いている。
半歩先。
その距離が縮まりも開きもしない。
測ったように正確な間隔だった。
遊歩道の手すりが日光の熱を溜めて、白く光っていた。
少女の横顔にも、真昼の白い光がまっすぐに落ちている。
潮風が前髪を揺らした。
その横顔はきれいだった。
大水槽の前で見た横顔と同じくらい——整っていて、遠い。
「——あの方々、必死でしたね」
少女が前を向いたまま言った。
声は穏やかだった。
穏やかなのに、その底に張り詰めたものが一瞬だけ透けた。
「でも——あの方々より、私のほうが【リオン】さまのことを知っています」
足を止めて、振り返る。
真昼の光を背にした顔は逆光で読みにくかった。
けれど声には、今日初めて聞く確かな力が乗っていた。
「覚えていますか。——あの夜のこと」
声のトーンが少しだけ変わった。
遊歩道を歩く家族連れの笑い声が、遠くを通り過ぎていく。
潮騒だけが、二人の間を低く埋めていた。
「……あの夜?」
「テスト前の深夜のチャットです。——【リオン】さまがルナに、初めて弱音を見せた夜」
心臓が跳ねた。
覚えている。
忘れようがなかった。
高一の冬——テスト前の、深夜の話だ。
勉強に煮詰まっていた。
頭が変に冴えていて、それでいて何も進まなかった。
参考書は開いたまま、指の下でずっと同じ行を睨んでいた気がする。
真夜中の部屋がいつもより広く感じられた夜だった。
画面の前に座って、ぼんやりと通知を眺めていた。
深夜二時。
ルナからメッセージが来た。
——『起きてる?』
返事に何を打ったか正確には覚えていない。
けれど最初は大丈夫と打って消して、ちょっとしんどいかも、と打ち直したことだけは覚えている。
大丈夫と打ったほうが楽だった。
それでもそうしなかったのは——『ルナ』という二文字の向こう側に、彼女自身が待っている気がしたからだった。
大丈夫と打っておけば、ルナは安心して画面を閉じただろう。
あの夜、画面が暗くなることだけが——怖かった。
ルナの返事は遅かった。
一分くらい何も来なかった。
打ちかけて消している気配が画面越しに伝わってきた。
入力中の表示が点いて消えて、また点いた。
やっと来た言葉は——
——『うまく言えないけど いるよ ここにいるよ』
すぐ後にもう一行。
——『言葉 下手でごめん でも画面閉じないで もう少しだけ 一緒にいさせて』
句読点がひとつもなかった。
いつもの丁寧なルナじゃなかった。
送信までに七十秒くらいかかっていた。
打つのを迷った気配が、行間からじかに伝わってきた。
その二行が、深夜二時のもやもやには、やたら効いた。
その夜はそれで参考書を閉じて、電気を消して眠れた。
次の日の教室で、なんとなく足取りが軽かったのを覚えている。
「——あの夜、ルナはこう言いました」
少女の声が遊歩道に滑らかに響いた。
「『うまく言えないけど、いるよ。ここにいるよ。言葉、下手でごめん。でも画面閉じないで。もう少しだけ、一緒にいさせて』」
一字も違わなかった。
声は穏やかで、淀みなく流れていった。
七十秒の間がなかった。
句読点を打つ余裕もないほど、指が焦った跡がなかった。
打ちかけては消し、消してはまた打ち直したあの文字の不揃いさがなかった。
あの夜のルナは、自分の言葉に自信なんかなかった。
だから七十秒も止まった。
黙っていることのほうが少し怖くて、そのまま送りつけたんだと思う。
その不揃いさが——言葉の巧さなんかより、ずっと近くにあった。
「——一字一句、間違いありませんよね」
答えを求める声ではなかった。
正解を差し出して、うなずきを待っている声だった。
真昼の光が少女の横顔を白く染めている。
微笑みは穏やかだった。
これだった。
改札前で覚えた嬉しさの低い音。
腕を絡めたときの向こう側が薄い手触り。
大水槽の前で正確すぎた好みの言い当て。
深海エリアで返ったうなずきの足りない感覚。
カフェオレの缶を差し出す指先の整いすぎた所作。
今日一日ずっと溜まってきたものが——ここで像を結んだ。
この少女は俺とルナの言葉を全部知っている。
一字も間違えない。
一つも取りこぼさない。
けれど——その言葉の奥にあった熱を、何ひとつ知らない。
ルナが打鍵を迷って何十秒も黙った、あの間。
打ちかけては消して、また打ち直した、あの慎重さ。
言葉にならないものを、それでも文字に変えようとした、あの手つき。
全部——抜け落ちている。
完璧な言葉の再現だった。
けれど温度のない再現だった。
——なんで、二人きりの会話まで知っているんだ。
その疑問が一瞬だけ頭をよぎった。
ルナと俺のプライベートチャットだ。
パーティの誰にも見せていない。
それを一字の狂いもなく暗唱できるのは——普通じゃない。
答えは出なかった。
真昼の潮風が頬を撫でて、考えが攫われていく。
けれどもう一つの答えは——出ていた。
言葉を全部知っている。
記憶を全部持っている。
好みも、癖も、あの夜の弱音さえも。
それでも——たとえこの少女が本当にルナだったとしても。
俺の好きになったルナの温度は、こんなに冷たくなかった。
画面越しでも、文字だけでも、ルナの言葉にはいつも体温があった。
完璧なんかじゃなかった。
だから——届いた。
少女は微笑んでいた。
真昼の光の中で微笑みの端がかすかに硬くなっている。
完璧な微笑みを保とうとしているのに——端だけが、言うことを聞いていなかった。
「——天道」
名前を呼んだ。
少女の肩がわずかに揺れた。
「言葉は、合ってる。そこは、全部合ってる。よくそこまで正確に覚えてるなと思うくらいに」
少女の口元が、ほんの少しだけほどけた。
正解を認められた、という顔だった。
「でも——俺の知ってるルナは、そんなふうにすらすら言わなかった」
ほどけかけたものが、止まった。
「もっと迷ってた。もっと時間をかけてた。……あの二行を打つのに、泣きそうなくらい必死になってたんだ」
少女の唇が、半分開いたまま動かなかった。
計算の外から答えを差し出されて、処理が追いついていないみたいだった。
「君の語る思い出には——俺の知ってるあいつの熱が、ない」
言い終えた後の遊歩道がやけに広かった。
潮騒だけが、沈黙を埋め残していた。
少女の微笑みが——一瞬だけ崩れかけた。
指先が行き場を失ったように握られ、すぐに裾の中に消えた。
次の瞬間にはもう穏やかな顔に戻っている。
けれど戻るまでの一瞬が——これまでで、一番長かった。
「……そう、ですか」
声が掠れていた。
ほんの少しだけ。
穏やかに保とうとした声の、最後のひと文字だけが揺れた。
俺は小さく息を呑んで、彼女の次の反応を待った。
だが——天道はそれきり、口を閉ざした。




