第8話 焦げた卵焼きと、花柄の絆創膏
教室に二葉さんの冷気を置き去りにしたまま、俺は三桜さんに腕を引かれて廊下を走っていた。
「ちょっ、三桜さん、廊下は走っちゃダメだって」
「ごめんね誠くん! でも、早く行かないと一花お姉ちゃんたちに見つかっちゃうから!」
振り返った三桜さんの笑顔が、さっきまでの二葉さんの静かな圧とは正反対の、太陽みたいな明るさで俺を引っ張っていく。
小さな手が、俺のブレザーの袖をぎゅっと握りしめている。
その指先には、可愛らしい花柄の絆創膏がいくつも貼られていて、妙に胸にひっかかった。
二葉さんからの無言の圧、そして今度は三桜さんからの全力疾走。
タイプは正反対なのに、どっちも俺に拒否権がないのは、いったいなぜなんだろう。
行き着いた先は、校舎の裏手にある緑豊かな中庭だった。
大きな欅の木陰のベンチは、昼休みでもあまり人が来ない穴場だ。
「よしっ、ここなら大丈夫! さ、誠くん、座って座って!」
「ああ、わかったから、引っ張るなよ」
「ね、ね、ここね、私が見つけたお気に入りの場所なの! お昼休みでも、ぜんぜん人来ないんだよっ」
「確かに、穴場だな」
「でしょっ? ……誠くんと、二人で来たかったの」
三桜さんは俺をベンチに座らせると、自分もすとんと隣に腰を下ろした。
――すとん、というか、ぴったり、というか。
二葉さんみたいに、机の下でこっそり密着してくるのとはまるで違う。
三桜さんは警戒心ゼロの小動物みたいに、最初から俺の隣にぴたりと収まっていた。
肩も腕もすっかりくっついて、華奢な体の柔らかさと体温が、制服越しにじんわりと伝わってくる。
少し緩めの着こなしからのぞく無防備な隙間と、春の風に揺れるふわふわの毛先が、俺の目のやり場を確実に奪っていく。
「あのさ、三桜さん。一花さんや二葉さんと、一緒に食べなくてよかったのか」
「うん! 今日は、絶対に、誠くんと二人きりで食べたかったから。だってね……」
三桜さんは大事そうに抱えていた大きなお弁当箱を膝に置いて、照れくさそうに上目遣いで俺を見た。
「誠くんのために、朝、すっごく早起きして……いーっぱい作ってきたんだよっ」
「マジか。そんなに朝早くから?」
「そうだよ! じゃじゃーんっ!」
ぱかっ、と。
可愛い効果音がつきそうな勢いで、お弁当箱のフタが開けられる。
中には、色鮮やかなおかずが所狭しと並んでいた。
……ただ、よく見ると。
少し焦げ目のついた卵焼きに、足の長さが見事に不揃いなタコさんウインナー。
ちょっと形のいびつなおにぎりは、海苔が微妙にずれている。
いかにも一生懸命がんばって作りました、という不器用な手作り感が、全体から溢れていた。
「あ、あのね、卵焼きはね、ちょっと焦げちゃったの……でも、味は自信あるからっ!」
「タコさんも、何回も切り直したんだけど、足の長さが揃わなくて……」
「いや、可愛いから大丈夫だよ」
「ほんとっ? よかったぁ……」
「……これ、全部、三桜さんが一人で?」
「うんっ! あのね、お料理あんまり得意じゃなくて……何回も練習したの。昨日も、おとといも」
照れくさそうに笑って頬を掻く三桜さんの指先を、改めて見た。
花柄の絆創膏が、右手に三枚、左手に二枚。
包丁で切ったのか、跳ねた油で火傷したのか。
彼女がどれだけの時間をかけて、俺のためにこの弁当を作ってくれたのかが、その数だけで痛いくらいに伝わってくる。
「……ありがとう。すごく、嬉しいよ」
俺が素直に礼を言うと、三桜さんの顔がぱぁっと赤く染まった。
「ほんとっ!? ……よかったぁ」
三桜さんは両手をバンザイして、ベンチの上でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
弾むような動作に合わせて、少し緩めのブラウスの中で、華奢な体のラインが小さく揺れる。
本人はまったく気にしていないらしい。
「じゃあじゃあ、さっそく食べよっか! はい、誠くん、あーんっ!」
「え……いや、自分で食べられるから」
「だーめ! 私が、食べさせてあげたいのっ。ほらほら、逃げちゃだめだよ?」
「いや、でも、さすがに恥ずかしいって」
「いいから、いいから! ほら、あーんっ!」
三桜さんは弁当箱から卵焼きを一つ箸でつまむと、俺の口元へずいっと突き出してきた。
絆創膏だらけの指が、俺のすぐ目の前にある。
箸先の卵焼きと、その向こうの三桜さんの顔が、ほとんど同じ距離にあった。
寄り添う体の重みが腕にかかり、服越しに予想以上の柔らかさが押し付けられる。
腕を引くことも、できない。
周りに人がいないとはいえ、学校の中庭で美少女にあーん。
モブ男子の俺の人生において、前代未聞の異常事態だ。
……だが、三桜さんの混じりけのない瞳と、絆創膏だらけの指先を見ていると、断ることなんて到底できなかった。
「……あ、あーん」
俺は観念して口を開けて、差し出された卵焼きをぱくりと含んだ。
少しだけ焦げた匂いと、出汁の効いた確かなしょっぱさが、口いっぱいに広がる。
「どう……? おいしい?」
不安そうに上目遣いで見つめてくる三桜さんに、俺は笑って頷いた。
「ああ。すごく美味しい。俺の好みに、ドンピシャだ」
「やったぁあああっ!」
三桜さんは、また両手を広げてぴょんぴょん飛び跳ねた。
その拍子に体がぐらりと傾いて、俺の肩にぽすんともたれかかってくる。
「えへへ……嬉しい。嬉しいよぉ、誠くん……」
『えへへへっ……嬉しい。私、【リオン】のその言葉だけで、明日からも生きていけるよぉ』
――脳裏に、深夜のチャットの声がふっと重なった。
柔らかい体温と、ベビーパウダーの甘い匂いが、肩口からじんわりと染み込んでくる。
……これはこれで、別の意味で心臓に悪い。
「あ、ごめんね、重くない?」
「いや……大丈夫だけど」
「じゃあ、もうちょっとだけ、こうしてていい?」
断る理由が見つからなかった。
昼休みは、まだ半分も残っている。
この甘ったるい時間が終わるまで、俺に打つ手はなさそうだった。




