第7話 離れない膝と、手書きの攻略図
樋口から隣の席を買い取った二葉さんが、忘れ物をした俺に教科書を見せると言って、机を寄せてきた四時間目の現代文。
その太ももが、ズボン越しの俺の足に触れている。
俺が反射的に足を引っ込めようとすると、二葉さんはそれに合わせるように、すっと体重をかけて押し付けてくる。
机の下、誰からも見えない死角での、無言の攻防。
ひやりとした見た目の印象に反して、太ももから伝わってくる体温は、やけに熱くて柔らかい。
布越しに、その熱がじわじわと俺の理性を削り取っていく。
「ふ、二葉さん……足、当たってる」
先生に聞こえないぎりぎりの声で囁くと、二葉さんは教科書に目を落としたまま、唇だけをわずかに動かした。
「ねえ、マコト」
「な、何だよ」
「教科書、ちゃんと見えている? ここ、私が指でなぞるところよ」
机の下で大胆に足を密着させてきているくせに、彼女の横顔は、完全に授業に集中している真面目な生徒のそれだった。
「……それ、絶対わざとやってるだろ」
「気のせいよ。……平気よね」
「全然平気じゃないんだけど」
「一花とは電車のなかでもっと密着していたんでしょう。これくらいで動揺するなんて、困るわ」
「あれは不可抗力だって何度言えば」
「なら、これも不可抗力よ。机が近いだけ」
全然不可抗力じゃない。
明らかにそっちから寄せてきているし、太ももの圧はまるで緩まない。
それどころか、さらに体を寄せてきた拍子に、きっちり着込んだ制服の下から、二の腕に何かがそっと触れた。
着痩せした生地の奥の、予想もしない柔らかさと重み。
涼しい見た目との落差に、俺は思考が一瞬飛んだ。
「……ずるい」
「何が」
「涼しい顔で、こういうことするのが」
「何もしていないわ。教科書を見せてあげているだけ」
ことん、と。
二葉さんが、自分の頭を俺の肩に、ほんの少しだけ預けてきた。
長い黒髪がさらりと俺の腕に流れ、清楚なシャンプーの匂いがふわりと立ちのぼる。
「ちょっ……二葉、さん……近い」
「しっ。先生に見つかるわよ」
「見つかったら俺も怒られるんだけど……」
「大丈夫よ。私がうまく隠してあげるから。マコトは、逃げないでいればいいの」
涼しい顔のまま、なんでこんな大胆なことができるんだ。
すると、二の腕に柔らかい重みを預けたまま、二葉さんが吐息のような声で囁いた。
「……嫌な匂い。一花の匂いが、まだ残ってる」
「……は?」
「上書きしないと」
吐息みたいな声で呟いて、二葉さんはほんの少しだけ俺の肩に頬を寄せた。
心臓の音が、教室中に聞こえているんじゃないかと本気で心配になる。
「心臓、うるさいわね」
「お前のせいだ」
「……私のせいなら、嬉しいわ」
横目で盗み見た二葉さんの横顔は、あくまで涼しいまま。
なのに、その白い耳の先だけが、ほんのりと赤く染まっていた。
ずるい。
平気な顔をして、自分だって照れているんじゃないか。
朝の一花さんの強引なスキンシップとは違う。
静かで無言で、俺の逃げ場をじわじわと奪っていく、重たくて甘い圧力。
このままでは授業どころではない。
授業が、中盤に差しかかった頃。
二葉さんが、すっとルーズリーフの切れ端を俺のノートの上に滑らせてきた。
現代文の板書の写しかと思いきや、そこに書かれていたのは、まったく別の内容だった。
『来週のエデン新イベント。【リオン】専用のレベリングルートを組んだわ。見ておいて』
その下にびっしりと書き込まれた手書きの攻略図は、ただの攻略じゃなかった。
俺がいつも回復を忘れる中ボスの手前には、安全地帯を経由する迂回ルートが丁寧に引かれている。
俺がいちばん気持ちよく大技を撃てる相手が、狙い澄ましたように狩場に並んでいた。
俺のプレイスタイルの癖も、弱点も、すべて知り尽くしていなければ書けない、俺ひとりのための一手。
「……これ、一人で考えたのか」
「三年横で見てきて、身体で覚えているわ。……マコト、いつも突っ込みすぎてポーション切らすでしょう」
「……ありがたいけど、なんで今、わざわざ授業中に渡してくるんだ」
「マコトが、放課後すぐ消えるからよ。捕まえてからじゃ間に合わないわ」
「俺、そんなに逃げてるか?」
「逃げているわ。気づいていないだけ」
囁く声には、確かな戦友としての自負が滲んでいた。
三年間、隣で戦ってきた相棒の、言語化されない勘。
ゲームの中で何度も俺を救ってきた、ルナのやり方そのものだった。
「……ありがとう。本当に助かる」
「感謝されたくてやっているんじゃないわ」
二葉さんは、俺の足に触れている太ももの力を、少しだけ強めた。
「マコトの強さも弱さも、いちばん近くで見てきたのは私よ。……だから、ほかの誰にも、渡したくないの」
そこまで一息に言い切って。
ふと、我に返ったように目を伏せた。
「……少し、言いすぎたかしら。忘れて」
背けたその耳が、また赤い。
言いすぎた、なんて。
涼しい顔の奥にある想いが、嫌でも伝わってくる。
この午前中ずっと、二葉さんは無言と所作だけで、俺を囲い込もうとしていた。
その静かな重さが、朝の一花さんの甘い吐息と言葉で攻めてくるそれとは、まるで違う種類の危険だった。
やがて、昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
二葉さんに密着されたまま過ごしたこの午前中は、俺にとって永遠みたいに長かった。
「マコト。よかったら、一緒にお弁当を……」
二葉さんが俺のほうを向き、珍しく頬をほんのり染めて、言いかけた、その時だった。
「誠くーんっ!」
教室の前方から、弾丸みたいな小さな影が飛び出してきた。
大きなお弁当箱を胸に抱えた三桜さんが、一直線に俺の席へ突撃してくる。
「えへへ、一緒にお昼食べよっ! 今日ね、いーっぱい作ってきたんだよ!」
「……三桜。あなたには、空気を読むという概念が存在しないの?」
二葉さんの周囲の温度が、再び一気に絶対零度まで急降下する。
だが三桜さんは、その冷気をまったく意に介さないまま、俺の腕をぐいっと引っ張った。
「さ、行こ行こっ! 冷めちゃうよ、誠くん!」
静かで重たい独占の次女から、感情を隠せないまっすぐな三女へ。
俺の日常は、休む間もなく、次のラウンドへと叩き込まれていく。




