第6話 無言の指定席と、忘れた教科書
二年B組の引き戸を開けた、その瞬間。
春の暖かさを根こそぎ奪い去るような、絶対零度の空気が、壁になって俺を打った。
教室のど真ん中。
長い黒髪をさらりと揺らし、腕を組んで立つ綾瀬二葉さんが、不機嫌さを隠そうともしない冷ややかな目でこちらを――正確には、俺の右腕にまだ絡みついている一花さんを、見据えていた。
「……ずいぶん、楽しそうな登校だったみたいね、マコト」
氷点下の声。
俺は咄嗟に一花さんの腕を振り払おうとしたが、小悪魔な長女は逆にぎゅっとしがみついてきた。
制服越しの柔らかい感触が容赦なく俺の腕に押し当てられ、得意げな鼻歌が耳元でかすかに弾む。
「ふふっ。おはよう、二葉。朝から怖い顔しなーい。せっかくの美人が台無しだよ?」
「お世辞で温度は上がらないわよ、一花。抜け駆けはルール違反だと言ったはず」
「抜け駆けじゃないもーん。ただ駅でばったり会ったから、朝の空気を一緒に楽しんだだけ。ね、誠?」
「い、いや、これは満員電車の不可抗力で――」
二葉さんが目を細めて、ゆっくりと俺を見下ろした。
「不可抗力。……そう。そんな言い訳が、本気で通ると思っているの?」
「思ってません」
「正直でよろしい」
一花さんが俺の腕にぴたりと寄りかかったまま、二葉さんに向き直る。
「ねえ二葉、そろそろ誠を解放してあげなよ。ちょっと朝のぶんもらったくらいで、減るもんじゃないしー」
「減るわ。私の忍耐が」
「うわ、こわーい」
周りのクラスメイトたちが、転校二日目にして教室の中央で火花を散らす美少女二人と、その間に挟まれた哀れな男子を、息を呑んで見守っている。
朝から胃が痛い。
「ま、朝は終わったから。次は二葉の番っしょ?」
「……言われなくても」
二葉さんが短く呟いた時、タイミングよく朝のホームルームの予鈴が鳴った。
担任が気だるげに入ってきて、生徒たちが慌てて自分の席へ散っていく。
一花さんは「またねー、誠」とひらひら手を振って前方の自分の席へ向かった。
三桜さんも前のほうの席からちらちらと心配そうにこちらを窺っていたが、チャイムに急かされて渋々正面を向く。
俺はほうっと息を吐き出して、重い足取りで自分の席――窓際の、後ろから二番目――へ向かった。
しかし、そこで俺は信じられない光景を目にする。
「……樋口? お前、何やってるんだ?」
俺の隣の席の樋口が、真っ青な顔で自分の教科書やノートを抱え、そそくさと前のほうの席へ移動しようとしていたのだ。
そして、空いたその席に、当然のような顔をして腰を下ろしたのは――二葉さんだった。
「……二葉さん。そこ、樋口の席なんだけど」
「昨日のうちに交渉済みよ。彼がずっと解けずにいた数学の課題を、全問教える条件で」
「全問って……それ交渉じゃなくて買収だろ」
「等価交換よ。彼は解法を得て、私はマコトの隣を得る。誰も損はしていないわ」
俺は、席を追い出された当事者に視線を向けた。
「樋口、お前、そんなことのために席を売ったのか?」
「……仕方ないだろ。背に腹は代えられないんだよ。それに……」
「それに?」
「綾瀬さんの教え方、的確で助かるんだよ」
「この、現金なやつめ……」
「……悪いな、相沢。次のテストが、ちょっと、まずくてさ」
すれ違いざま、樋口が声には出さず『助けてやれなくて、すまん』と口を動かしたのが見えた。
許す。
お前も被害者だ。
「で、なんでわざわざ俺の隣に」
「マコトの隣は、私の指定席よ。ゲームの中も、現実もね」
「いや、だからって強引すぎるだろ。周りだって気にする」
「問題ないわ。私はここで授業を受ける。マコトは、黙って隣にいなさい」
涼しい声で、さらりと。
有無を言わさぬ断言だった。
その瞳の奥には、絶対にこの場所を誰にも譲らないという静かで重い意志が燃えている。
前方の席からは、出遅れた一花さんと三桜さんの「ずるい!」「抜け駆けですっ」という視線がぐさぐさと刺さっているが、当の二葉さんはどこ吹く風だった。
そうして始まった、午前中の授業。
一時間目、二時間目と進むあいだ、二葉さんは背筋をまっすぐ伸ばして、淡々とノートを取っている。
時折、確かめるようにちらりとこちらへ視線を流してくるのを除けば、ごく普通の隣の席の女子だ。
なのに、その一瞬一瞬の視線が、やけに重くて落ち着かない。
そして迎えた四時間目、現代文。
教科書を出そうとして――俺は鞄の中を漁り、絶句した。
ない。
現代文の教科書も、ノートも、見当たらない。
昨夜、三人の宣戦布告が頭から離れず、ろくに眠れないまま朝を迎えて、時間割を合わせるのを完全に忘れていたのだ。
ガタッ。
隣から、木製の机が擦れる小さな音がした。
横を見ると、二葉さんが無言のまま、自分の机を俺の机にぴたりとくっつけてきていた。
「……忘れ物でしょう。見せてあげるから、こっちに寄りなさい」
「いや、くっつきすぎじゃないか? 周りの目もあるし」
「嫌なの?」
「嫌とか、そういうことじゃなくて……」
「じゃあ問題ないわ。マコトが困っているのを、隣で黙って見ていられるわけがないでしょう」
教科書を、二つの机の境界線の真上に置く。
助かったのは確かだ。
だが、机を完全にくっつけたぶん、肩と肩が触れ合うほどの距離になる。
「……ありがとう。助かるよ、二葉さん」
「当然のことをしているだけ」
素っ気なく言いながら、二葉さんは自分の椅子を、もう少しだけ俺のほうへ引き寄せた。
その瞬間。
スカートの裾から覗いた、白くて滑らかな太ももが、ズボン越しの俺の足にぴたりと触れた。
「っ」
喉の奥で、声にならない音が潰れた。
授業中だということも、黒板に何が書かれているのかも、一瞬で頭から飛んだ。




