第5話 満員電車の壁と、ルナの口癖
曲がり角で待ち伏せていた一花さんに腕を絡め取られたまま、俺は朝の満員電車へ押し込まれていた。
人の波から彼女を庇おうと両手を突っ張った結果が、この有り様だった。
逃げ場が、ない。
「……苦しくないか?」
「ううん。……むしろ、誠に守られてるみたいで、すごく安心する」
俺の胸元にこてんと額を預けたまま、一花さんが小さく呟く。
見下ろすと、いつもは小悪魔みたいに吊り上がっている目尻がとろりと和らいで、長い睫毛がそっと伏せられていた。
薄手のブラウス越しに、温かい体温と、柔らかい感触がはっきりと伝わってくる。
電車が揺れるたびに、その柔らかさが遠慮なく押し当てられて、俺は思わず息を止めた。
首筋にかかる吐息と、上気した頬の熱。
これは、まずい。
心臓がうるさいくらいに鳴り始め、変な声が出そうになるのを必死で堪える。
満員電車に感謝すべきか、呪うべきか、まるで判断がつかない。
やがて、一花さんが胸元からちらりと俺を見上げた。
上気して、ほんのりと赤く染まった頬。
その瞳は、からかい半分——けれど残りの半分は、まるで本気で甘えているみたいにゆらりと揺れている。
「……誠ってば、意外と筋肉あるんだね。ゲームばっかりしてるから、もっとひょろいかと思ってた」
面白がるように、一花さんが俺の胸板を指先でつんつんと突いてくる。
「やめろ。くすぐったい」
「あははっ、ごめんごめん」
「こういうの、慣れてないんだ?」
「慣れてたら逆に問題だろ」
「まじウケる。……でも、誠のそういう真面目なとこ、それなーって感じ。ほんっと変わんない」
——その瞬間。
背筋に電流が走った。
まじウケる。
それなー。
ゲームのチャット欄で、ルナがよく投げてきた言葉のリズムそのものだ。
俺がボス戦の前に指示を出しすぎた時や、ギルドの溜まり場でどうでもいい雑談をしている時。
軽いノリの言葉と顔文字で、ルナはいつも場を和ませていた。
テキストだけのやり取りでも伝わってくる、明るくて、少しお調子者で、でも周りをちゃんと見ている、あの空気。
顔も声も知らない相手と、三年もの間、ただ文字だけで紡いできた時間。
目の前で楽しそうに笑う一花さんの言葉の選び方は、俺の記憶の中のルナと綺麗に重なった。
「……君は、本当にルナなのか?」
気づけば、そう口にしていた。
「え……」
「会話のテンポも、言葉の選び方も……三年かけて知った、あの空気と同じだ」
まっすぐ見下ろすと、一花さんは、一瞬その小悪魔めいた笑みを崩した。
目を丸くして俺を見つめ返し、動きを止める。
それから、白い耳の先が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「……っ、な、なにそれ、急に」
いつもの余裕はどこにもなかった。
声が裏返り、俺のまっすぐな言葉に耐えきれなくなったみたいに、俺の胸元に額を押しつけるように顔を伏せる。
耳たぶだけじゃない、首筋まで赤かった。
「そ、そりゃそうでしょ……あたし、本物のルナなんだから……」
からかいの影もない、震える小さな声。
密着した胸から、心臓の音が伝わってくる気がした。
いや、これは俺の心臓か。
もう、どちらのものか分からない。
……ずるい。
こういう不意打ちの素を見せられると、こっちの確信が勝手に育ってしまう。
いや、落ち着け。
チャットのテンポが似ているなんて、明るくてノリのいい子なら、誰だってあり得る話だ。
そうやって必死に打ち消そうとするのに、さっき耳まで赤くした横顔だけが、妙に焼きついて離れてくれなかった。
「……ねえ、誠」
「……なんだ」
「心臓、めっちゃ鳴ってるね」
「気のせいだ」
一花さんが少しだけ首を傾げて、俺のほうを見上げる。
「胸に耳、当ててるんだけど」
「離れてくれ」
「やだ」
やがて電車が目的の駅に着いて、人波に流されるようにして、俺たちはホームに降り立った。
「ふー、死ぬかと思った。でも、誠のおかげで助かったよ。ありがと」
乱れた前髪を直す一花さんの耳は、もうすっかり元の色に戻っていた。
その切り替えの早さに、こっちがまるでついていけない。
「……いや。怪我がなくて、よかった」
「ふふっ。誠はやっぱり、現実でも、あたしの最高のタンクだね」
そう言って、一花さんはまた当然みたいに俺の腕に絡みついてくる。
「ちょっと、一花さん。もう、学校に着くんだから」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。最後までエスコートしてよね」
「他の生徒に見られたら、明日噂になるぞ」
「なってくれていいよ。あたしの旦那様だって、堂々と言いふらせるし」
「言いふらすな」
「えー、かわいー。照れてるとこもゲームと一緒だね、誠は」
一花さんがいたずらっぽく笑って、こちらを見上げた。
「お前は本当に……いい性格してるな」
「ありがと、褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてない」
もう諦めた。
腕を組まれたまま、校門をくぐる。
その直後だった。
一年の昇降口へ続く通路の陰から、こちらをじっと見つめている視線に、俺は気づいた。
少しボーイッシュな、ショートヘアの、下級生らしき女の子。
彼女は、俺と腕を組んで歩く一花さんを、まるで親の仇でも見るみたいな鋭い目で睨みつけていた。
俺と目が合うと、その子ははっと顔を逸らして、逃げるように校舎の中へ消えていく。
「……今の子、誰だ」
「ん? どうしたの、誠」
「いや……なんでもない」
気のせいだろうか。
あの下級生、俺たち——いや、俺のことを知っているような目をしていた。
だが、俺に一年の知り合いはいないはずだ。
それに、あんなにまっすぐな敵意を、見ず知らずの相手から向けられる覚えも、ない。
胸の隅に、小さな引っかかりだけを残したまま、俺は校舎へ入った。
そして、二年B組の引き戸を開けた、その瞬間。
俺は、今度こそ本物の冷気に出くわして、足を止めることになる。
「……ずいぶん、楽しそうな登校だったみたいね、マコト」
教室の真ん中。
腕を組んで、絶対零度の視線を放つ二葉さんが、不機嫌さを隠そうともせず、俺と一花さんを待ち構えていた。




