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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第75話 正しすぎる思い出、揺れる天秤

水槽の影が天井に揺れていた。


 指先が、無意識にジーンズのポケットの縫い目をなぞる。

 今日は測りに来たのだ——その覚悟を、入ってきた青い光が一度すっと冷やしていった。


 エントランスを抜けると、通路は緩やかなカーブを描いて最初の展示へ続いている。

 外の七月は嘘のように遠くなって、空調の涼しい風が頬を撫でた。

 館内は朝のせいか人がまばらで、足音がガラスの壁に静かに反響していた。


 少女は半歩先を歩いていた。

 水色のワンピースの裾が、水の中を漂うようにゆっくりと揺れる。

 背筋のまっすぐな歩き方だけが、どこにいてもこの少女だとわかる印だった。


「こちらです、【リオン】さま。——熱帯魚のエリアから始まるみたいですね」


 振り返って微笑んだ顔は穏やかだった。

 初めて来たはずの場所で、順路を迷う気配がない。

 案内板を一瞬だけ確かめて、すぐにこちらへ目を戻す。


「涼しいですね。外の暑さが嘘みたいです」


「……ああ。そうだな」


「こういう静かなところ、好きです」


 少女は少し楽しそうに水槽を覗き込んだ。

 色とりどりの小さな魚が、壁面の水槽を横切っていく。

 赤い魚。

 黄色い魚。

 名前も知らない青い魚。


「あの赤いお魚、水草の陰からこっちを見てますね」


「……あ、本当だな」


 少女が一つの水槽の前で、ふと足を止めた。


「この子、目がまん丸ですね」


 ガラスの向こうで、黄色い小さな魚がこちらを向いていた。

 丸い目と口元が、不満げに尖っているように見える。


「フグか。……なんか怒ってるみたいな顔だな」


「ハコフグって書いてあります。——ほんとだ、怒ってる顔」


 少女が小さく笑った。

 それだけの、なんでもないやり取りだった。

 この少女にもこういう笑い方があるのかと、少し意外に思った。


 歩き出しながら、少女が隣の細長い水槽を指差した。


「あ、あの子たち。砂から顔を出してます」


「チンアナゴ……みたいだな」


「みんな同じ方向を向いて揺れてますね」


「……たぶん、潮の流れかな」


「不思議な景色ですね。ずっと見ていられそうです」


 静かな声で雑談を交わしながら、少女の足取りは迷いなく進んでいく。

 立ち止まる時間も、歩くペースも、すべてが滑らかだった。


「小さい子たちもかわいいですけど——【リオン】さまが見たいのは、もっと奥ですよね」


 さっきの改札前で口にした深海の生き物の話を、少女は覚えていた。

 覚えていた、というより——最初からそのつもりで順路を組み立てているような歩き方だった。


 大水槽が現れた。


 壁一面のガラスの向こうに、青い世界が広がっている。

 光が水中で拡散して、空間全体が海の底みたいに染まっていた。

 足元まで水の色に沈んでいる。


 家族連れが何組か、ガラスの前に並んでいた。

 少女がさりげなく半歩ずれた。

 俺が水槽の正面に立てるように、自分は少し端に寄る。

 何も言わなかった。

 ただ当たり前のように、一番いい場所を空けた。


 エイが頭上をゆっくり横切った。

 大きな影が床をさあっと舐めるように流れていく。

 少女が足を止めて、見上げた。


「……きれい」


 その声が——今日聞いた他のどの言葉とも、違っていた。


 横顔を見た。

 睫毛の影が頬に落ちている。

 唇が薄く開いて、目がゆっくりとエイを追っていた。

 水槽の光を受けた瞳が、この一瞬だけ——何かを忘れているように見えた。


 水槽の青が、頬の輪郭にゆらりとした影を作っていた。


 ——きれいだと思った。

 改札前で見惚れたときと、同じ感覚だった。


 ルナが現実にいたら、こんな子なのかもしれない。

 一瞬、そう思いかけた。


 ふと、少女が少し奥のほうを指差した。


「あっちは、小さなサメが泳いでますね」


「……ああ。ほんとだ」


「【リオン】さまは、どの子が好きですか?」


 少女が水槽を向いたまま訊いた。


「あの大きなエイ? それとも——奥で泳いでるウミガメ?」


「……ウミガメかな」


「ですよね」


 少女が微笑んだ。


「焦らない生き物がお好きなんですよね。——エデンでもそうでした。ボス戦で周りが焦って崩れても、【リオン】さまだけは最後まで前に立って動かなかった」


 覚えている。

 ルナに褒められたことがある。

 焦って前に出る盾が多い中で、俺だけは引かなかった——と。

 あのチャットの言葉を、パーティで俺の隣にいなければ知りようがない精度で口にしている。


 正確すぎる。


 だが——それと同時に、引っかかるものがあった。


 言葉は全部合っている。

 記憶も、好みも、戦い方の癖さえも。

 なのに聞いた後に残る手触りが——ルナのそれと、どこかが違う。


 ルナとのチャットには間があった。

 返事が返ってくるまでの数秒に、迷いや照れや、時には打ちかけて消した形跡があった。

 不揃いだったからこそ、その奥に体温を感じた。

 この少女の言葉には、その間がない。

 滑らかすぎて、どこにも引っかからない。


 ルナとの会話には、その引っかかりこそが温度だった。


 ——気のせいか。


 そう片づけようとした。

 けれど改札前で覚えた嬉しい、の低い音も、腕を絡めたときの向こう側が薄い手触りも、まだ消えてくれない。


 大水槽の前を離れて、順路を進んだ。


「少し暗くなりますね。足元、気をつけてください」


 少女が先に一歩踏み出して、通路の段差を手で示した。

 言われなければ気づかないくらいの段差だった。


「……いや、大丈夫」


「すみません、つい」


「いや——ありがとう」


 少女が一瞬だけ、きょとんとした顔をした。

 すぐにいつもの微笑みに戻った。


 ペンギンが水中を矢のように射抜いていくエリアを抜け、深海の展示に入った。

 天井が低くなり、通路が暗い藍色に沈んだ。

 照明がさらに落ちて、足元を確かめながら歩く。

 大水槽の明るい青は、もうここには届いていなかった。


「……不思議な形のお魚が多いですね」


「深海の生き物だからな」


 暗がりの中、水槽のわずかな明かりが少女の横顔を淡く照らしていた。


「あの子、じっとして動きませんね」


「……オオグソクムシかな」


 丸い水槽の中で、チョウチンアンコウが暗闇にぼうっと光を灯していた。

 少女がパネルの前で足を止めた。


「自分の光で獲物を引き寄せるんですね……。深海で一人で、ずっと光っている」


 静かな声だった。

 展示を読み上げているだけのはずなのに、少女の声の奥に——何かが、透けた。


「……大変だな、一人で光り続けるの」


 自分でも意外な言葉だった。

 共感のように出てしまった一拍が、薄暗い通路に小さく落ちる。


「大変ですね」


 少女がうなずいた。

 そのとき一瞬——本当に一瞬だけ、少女の目の奥にひどく疲れた色が滲んだ。

 まばたきひとつで消えた。

 次にはもう、穏やかな微笑みに戻っている。


 見間違いだろうか。

 暗い照明のせいかもしれない。


 深海のエリアを抜けると、通路沿いに休憩スペースがあった。

 明るい照明が戻ってきて、暗がりに慣れた目が少しだけ眩んだ。


 ベンチに座ろうとすると、少女が先にハンカチを広げて座面に敷いた。

 俺の側だけ。

 自分の分は出さなかった。


「……自分は?」


「私は大丈夫です」


 当たり前のように微笑む。

 断る隙がなかった。


「外は暑かったですね、今日」


「ああ、もう七月だしな」


「これからもっと暑くなるんですよね。もうすぐ夏休みですし」


「……夏は少し、バテるかもな」


「ここは涼しくて助かります。——暑いの、苦手なんです」


 なんでもない会話だった。

 こういう瞬間だけ、この少女は年相応に見えた。


 少女が自販機へ歩いていった。


「【リオン】さまはカフェオレですよね」


 迷いなくボタンを押した。

 缶を両手で差し出す。

 受け取ろうとした指先が、少女の指にかすかに触れた。

 少女は指を引かなかった。


 ほんの一拍、缶を挟んだまま——それから静かに手を離した。

 整った所作だった。

 どこまでも。


「……よく知ってるな」


「深夜にルナと画面越しにカフェオレで乾杯したこと、ありましたよね。——ルナが『缶を掲げて、せーの、で飲もう』って」


 覚えている。

 テスト期間の深夜。

 馬鹿みたいだったけれど、画面の前でカフェオレを掲げ合ったあの瞬間は確かに温かかった。

 ルナが打ってきた言葉が少し照れくさそうで、送信するまでに三秒くらいの間があって——その三秒が、ルナらしかった。


 少女の言葉は正確だった。

 一字も間違っていない。

 けれど——あの夜に画面の向こう側にあったものが、この少女の声には乗っていない。


 缶のカフェオレを一口飲んだ。

 冷たい液体が喉を通っていく。

 甘ったるさだけが、舌にはっきりと残った。


 もう、気のせいだとは思えなかった。


 今日だけで何度あった。

 この少女が俺の好みを言い当てるたびに、背筋が冷えると同時に——もしかしてこの子が、俺の探していた相手なんじゃないかと、錯覚しかけた。

 けれどその感覚は、数秒と保たなかった。

 言葉のすぐ後ろで、何かがすっと引いていく。

 あるべきものが一つだけ欠けている。


 言葉は全部合っている。

 なのに——温かくない。


 ——なんでだろう。


 答えは出なかった。

 掴みかけた何かが、指の間からするりと抜けていく。

 今の俺にはその正体を掴む力がない。

 ただ一つだけ確かなのは——一花さんや二葉さんや三桜さんと話したとき、こんな感覚にはならなかったということだった。


 あの三人の言葉は正確じゃなかった。

 一花さんは大袈裟で、二葉さんは回りくどくて、三桜さんは半分くらい意味が通じていない。

 でもそのぶん——声の温度が、嘘じゃなかった。


 缶を握る手に、少しだけ力が入った。


 掴みかけたものが、するりとまた抜けていった。


 少女が立ち上がった。

 空き缶をゴミ箱に丁寧に入れて、こちらに微笑む。

 その所作にも、一つの隙がなかった。


「もう少し見て回りましょう。——この先に、クラゲの展示があるんです」


 順路の奥に、薄暗い通路が見えた。

 入口の看板に「クラゲ展示」と書かれている。

 低い照明の向こうで、丸い水槽が青白く静かに光っていた。


 足元の冷たい空気が、踝を撫でて通り抜けていく。

 足を踏み出した瞬間——少女が、一歩距離を詰めた。

 細い指先が、袖にかすかに触れる。


「一緒に、見ましょう」


 声は穏やかだった。

 穏やかだったのに、その指先にだけ——ほんのかすかに、すがるような力がこもっていた。


 暗い通路の先で、クラゲの光だけが静かに揺れている。

 指先の力の意味を、今は考えられない。

 さっきの指先の温度を思い出そうとして——思い出せなかった。

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