第74話 待ち合わせと、追跡者一名
土曜の朝十時。
改札の前に立ってから、五分が過ぎていた。
七月の太陽がすでに高くて、ロータリーのタイルが白く焼けている。
週末の駅前はまだ人がまばらで、改札の向こうから冷房の涼しい風が抜けてくる。
約束の時間だ。
指先が、無意識にジーンズのポケットの縫い目をなぞっていた。
測る——そう決めたのは木曜の坂道だった。
ルナの垢は沈んだまま。
あの少女が何者なのか——自分の目で確かめるしかない。
改札の電子音が鳴るたびに、視線が走った。
家族連れ。
カップル。
スマホを覗き込む学生。
どれでもなかった。
——人のまばらな駅前に、車のドアが閉まる音が落ちた。
振り向くと、ロータリーの端に黒塗りの車が停まっていた。
窓は暗く沈んでいて、中は見えない。
その後ろのドアの前に、白い影が立っていた。
少女は運転席の窓へ小さく身をかがめて、何かを告げていた。
黒服の運転手が、深くうなずく。
車はロータリーをゆっくり回って、走り去っていった。
——運転手付き、か。
良家の子女だろうとは思っていたが、想像より一段上だった。
車の消えた場所から、その影がこちらへ歩いてくる。
淡い水色のワンピースだった。
薄い生地が朝の光に透けて、裾が膝の上でかすかに揺れている。
ゆるく巻かれた長い髪が肩にかかって、いつもの他校のブレザー姿とは別人みたいだった。
背筋のまっすぐな歩き方だけが、あの少女と同じだった。
——不覚にも、見惚れた。
綺麗だと思った。
少女がこちらに気づいて、微笑んだ。
「おはようございます、【リオン】さま」
ゲームの名前が、週末の駅前で声になる。
その音が耳に届いた瞬間、見惚れていた頭がひやりと冷えた。
背筋を伸ばした。
「……おう」
返事が短かった。
少女は気にした様子もなく、半歩距離を詰めてくる。
「待たせちゃいましたか?」
「いや、今来たところだ」
「よかったです。……来てくれないかもしれないと、少しだけ思っておりました」
長い睫毛が、朝の光の中で伏せられた。
「嬉しい。ちゃんと来てくれたんですね」
微笑みの形は整っていた。
ただ、嬉しい、の音だけが、ほんの少し低かった。
「——【リオン】さま、深い海の生き物がお好きでしょう?」
その声は、ただ事実をなぞっていた。
心臓が一拍、跳ねた。
「クラゲの展示が新しくなったって聞いたんです。ちょうど、いい時期でしょう?」
知っている。
深海の生き物が好きだなんて、ルナに一度だけこぼした。
深夜のチャットで何となく打っただけの言葉を、この少女は当たり前の顔で口にする。
背筋がすうっと冷えた。
あの公園のベンチで味わった、足元が崩れるような感覚が遠くよぎる。
「……どうかされましたか? 顔色が優れないようですが」
微笑みは、少しも崩れていなかった。
それなのに、こちらの表情の変化だけは一つも取りこぼさない。
「……いや。場所、分かるのか?」
「はい。ここから十五分くらいです」
「歩きなのか。……車、帰しちまっただろ」
「はい。ずっとお待たせするのも申し訳ないので、帰りはまた呼びますから」
少女はなんでもないことのように言って、小さく首を傾げた。
「それに——今日は、【リオン】さまと歩いて行きたかったので」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
少女の案内で、駅前の通りを歩き出した。
商店街のアーケードに入ると、天蓋が日差しを遮って空気がすこし涼しくなった。
「暑いのは苦手でしょう? 少しでも日陰を歩きましょうね」
「……そうだな」
すれ違う人の視線が、ちらりと隣の少女に引っかかっては流れていく。
言葉の裏にある先読みの気配を、どう受け止めればいいか分からないまま、短い相槌だけを返した。
アーケードを抜けると、カフェやアパレルが並ぶ通りに出た。
少女はごく自然に、腕を絡めてきた。
細い指先が腕に触れている。
体温はあるはずなのに、肌の向こう側が妙に薄い。
「【リオン】さまって、やっぱり優しいですね」
「別に、普通だろ」
歩幅を合わせるように歩きながら、短く返す。
少女は嬉しそうに、腕に少しだけ体重をかけた。
「そんなことないですよ。私には、わかりますから」
笑顔は完璧だった。
ただ「優しい」と言うときだけ、睫毛がすこし伏せられた。
——気のせいか。
水族館の入口が見えてきた。
青い看板が朝の光を跳ね返している。
チケット売り場に短い列ができていた。
列に並ぶ間、少女はゆっくりと辺りを見回した。
「案外、この時間帯は空いていますね」
「……ああ」
少女がこちらを見上げた。
その視線が、また少しだけ長かった。
「二枚お願いします」
少女が財布を出そうとした。
さすがに止めた。
「いい、俺が出す」
「でも、私が誘ったのに」
「こういうのは出させてくれ」
「……ありがとうございます、【リオン】さま」
少女は小さく頭を下げた。
そのお辞儀の角度まで、なぜか整っていた。
エントランスの青い光が二人を包んだ。
水槽の影が天井に揺れて、館内から涼しい空気が流れ出している。
少女の横顔が、青い光に照らされていた。
きれいだった。
——けれどその横顔を見ても、胸に触れるものがなぜかうまく掴めなかった。
二人はそのまま、青い光の中へ歩いていった。
◇
七時ちょうどに、一花は駅前に着いていた。
帽子を深く被り、サングラスをかけ、白いTシャツにデニム。
いつもの巻き髪はポニーテールにまとめて帽子の中に押し込んである。
鏡で確認したとき、あまりの地味さに自分で笑いそうになった。
——今日くらいは、顔の良さが邪魔をする。
——昨日の昼休みだった。
クラスの子がさらっと言ったのだ。
「相沢くんって土曜に他校の女の子と水族館行くらしくない?」
笑った。
もちろん笑った。
「えー、マジ? どこ情報?」
「なんか、校門前の坂んとこで話してるの見た子がいるらしいよ。デートじゃんね、あれ」
「へー! 誠ってば隅に置けないじゃん。ちょっと月曜にからかってやろ」
完璧に軽く返した。
胸の底が抜けたみたいに冷たくなったことは、誰にも見せなかった。
二葉にも三桜にも、言わなかった。
言えばきっと大騒ぎになる。
誰が行くかで揉めて、結局いつもの牽制合戦だ。
——今日だけは、いい。
駅名は分かった。
水族館も分かった。
でも時間が分からない。
待ち合わせ場所も分からない。
——だから朝七時に来た。
缶コーヒーを二本買って、改札とロータリーの両方が見渡せる柱の陰に立った。
これが本気だ——と思ったのは最初の三十分だけで、あとは眠気と退屈との戦いだった。
「……何やってんだろ、あたし」
口の中で小さくつぶやいて、空になった缶を握りしめた。
八時を過ぎたあたりから、太陽が本気を出してきた。
帽子の中が蒸れて、こめかみに汗が伝う。
二本目の缶コーヒーが空になった頃、九時半を回っていた。
「あーもう、足痛いし……」
腰も痛い。
トイレにも行きたかったが、離れた隙に来られたら終わりだ。
柱に背中を預けて、唇を尖らせた。
「早く来いよ、馬鹿誠……」
忍耐の限界が近づいている。
十時少し前。
見慣れた背中が改札を出てきた。
——誠。
サングラスの奥で、目が見開かれた。
私服のTシャツにジーンズ。
いつもの背中だ。
改札前に立って、落ち着かなそうに辺りを見回している。
待ち合わせだ。
数分後——ロータリーに、黒塗りの車が滑り込んできた。
黒い車体が、朝日を鈍く弾いていた。
この駅前で、それだけが場違いだった。
黒服の運転手が回り込んで、後ろのドアを引いた。
降りてきたのは、淡い水色のワンピースだった。
息が止まった。
きれいだった。
腹立たしいくらい、きれいだった。
長い髪が肩に流れて、清楚で品があって、ワンピースの裾が風に揺れるたびに完成された一枚絵みたいで。
——しかもこの暑さの中、涼しい顔をしている。
三時間立ち通しでこめかみに汗が滴っている自分とは、何もかも違う。
あの子はついさっきまで、あの冷えた車の中にいたのだ。
お迎えつきのお嬢様。
——噂の相手って、やっぱりあいつじゃん。
二人が並んだ。
少女が微笑んで何かを話し、誠が少し固い顔で頷いている。
距離が近い。
一花は柱の陰に半身を隠したまま、唇を噛んだ。
二人が駅前の通りへ歩き出した。
帽子を引き下げ、十メートルほどの距離を保って後を追う。
商店街に入ると人が増えた。
紛れるにはちょうどいい——と思った矢先、ショーウィンドウに映った自分の姿にぎょっとした。
サングラスに帽子の女が一人で男女を追いかけている。
どこからどう見ても不審者だった。
「……めっちゃ怪しいじゃん、あたし」
通りすがりの小さな男の子に、不思議そうな顔で見上げられた。
人差し指を口の前に立てて「しーっ」とやると、男の子は真顔で母親の手を引いて去っていった。
カフェの前に置かれたスタンド看板を避けようとして、足を引っ掛けた。
がしゃん、と派手な音がして、前を歩く二人が振り返りかけた。
「うわ、やばっ!」
一花は咄嗟に手近なパンフレットを掴んで顔の前に広げた。
不動産のチラシだった。
『新築三LDK・駅徒歩五分』の文字が目の前にある。
——あたし、何してるんだろ。
二人が前を向き直って歩き出す。
一花はパンフレットをそっと戻して、また距離を取った。
少女が、誠の腕に自分の腕を絡めた。
足が止まった。
サングラスの奥で、目が細くなる。
白い指が誠の腕に絡みついているのが、十メートル先でもはっきり見えた。
——振り払ってない。
あいつ、振り払ってない。
「……ふざけんな」
低くうめくような声が、唇の隙間から漏れた。
殺気が漏れかけた——駄目だ、バレる。
深呼吸を一つ。
手近にあったラーメン屋のチラシを掴んで、顔を隠した。
「……あたしだって、あんなに自然に腕組んだことないんだけど」
いや、ある。
あるけど、いつも冗談みたいな顔で誤魔化してきた。
「なんであたしが、こんな……っ」
声を殺して、噛み殺した。
背脂の割合を真剣に睨みながら、誠のデートを尾行しなきゃいけないんだ。
笑えない。
全然笑えない。
でも足は止まらなかった。
胸の奥で、何かがちくちくと刺さっている。
言葉にしたら負けな気がして、奥歯を噛んだ。
水族館の青い看板が見えてきた。
二人がチケット売り場に並んでいる。
少女の横顔が笑っていた。
誠は少し困ったような、でもちゃんと向き合っているような顔をしている。
——今なら、行ける。
駆け寄って、奇遇じゃーんって笑って、二人の間に割り込んでやればいい。
いつもやってることだ。
息を吸った。
だけど、きっとあの子は、微笑んだまま受け流す。
そして何事もなかったみたいに、また誠の隣に戻る。
うるさいのが一人、通り過ぎただけになる。
吸った息は、ただの溜息になって出ていった。
列が進んだ。
チケットを受け取って、二人がエントランスに吸い込まれていった。
水色のワンピースの裾が、青い光の中に消える。
一花は通りの向かいの街路樹の陰で、それをじっと見ていた。
「……一人じゃ、分が悪いかも」
声は小さかった。
泣きそうでも、震えてもいない。
ただ事実を認めた、軽い響きだった。
ポケットからスマホを取り出した。
画面が白く光る。
指先に、ぎゅっと力が入った。
誰に何を送るかは——まだ決めていない。
決めていないけれど、スマホだけは握ったまま離さなかった。
七月の太陽が、街路樹の陰に立ち尽くす一花の肩を容赦なく焼いていた。




