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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第73話 デートの誘いと、後輩の勘

木曜の放課後は、何事もなく終わるはずだった。


 火曜の朝に五人で校門をくぐってから、二日が過ぎている。

 水曜も木曜も、いつも通りの授業を受けて、いつも通りの昼を過ごした。

 ルナのアイコンが灰色に沈んだままだということ以外は、何も変わらない二日間だった。


 放課後のチャイムが鳴って、教室がざわつき始める。

 今日は四人ともそれぞれ用事があった。

 たまにはこうして、一人で帰る日もある。


 昇降口で靴を履き替え、校門へ向かう坂道を歩き出した。

 七月の午後の日差しがアスファルトを白く焼いていて、蝉がどこかで鳴き始めている。

 汗が首筋を伝った。

 制服のシャツが背中に張りつく。


 このまま家に帰って、夜になったらエデンにログインする。

 灰色のアイコンが今夜も沈んだままなのか——確かめずにはいられないだろう。

 そんなことをぼんやり考えていた。


 ——坂の途中で、足が止まった。


 十メートルほど先に、人影が立っている。

 他校の制服。

 長い髪が、午後の風にかすかに揺れていた。


 胸の奥が、すとんと沈んだ。

 驚きではない。

 あの校門前の修羅場のあと、この少女がもう一度現れることを——どこかで予感していた。


 少女がこちらに気づいた。

 一瞬、目の奥に何かが走った——安堵のような、もっと切迫した何かのような。

 すぐに穏やかな微笑みで覆われる。


 ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 きれいな顔立ちだった。

 けれどその笑顔は、どこか涼しい。

 影を連れて近づいてくる。

 その足取りに、迷いはなかった。


「お久しぶりです、【リオン】さま」


 あの呼び方。

 ゲームの中でしか使わない名前が、七月の陽射しの下で声になった。

 【リオン】——その音が空気の中に落ちた瞬間、背筋がすうっと冷えた。

 周りに生徒の姿はまばらだった。

 坂の途中に、二人分の影だけが伸びている。


「……何の用だ?」


「冷たいですね。——せっかく、会いに来たのに」


 少女は半歩、距離を詰めた。

 踏み込まれた分だけ、肩が固くなる。

 制服の襟元が視界に入る。

 この近さにいても表情に乱れはない。

 まるでここが自分の場所だと言うように、そこに立っていた。


「——それに、あの日はお名前を名乗る間もなく、お別れになってしまいましたから」


 少女がふと足を止めて、小さくお辞儀をした。

 髪が肩から流れ落ちて、また元の位置に戻る。

 ——綺麗すぎて、仕上がったもののように見えた。


「申し遅れました。——天道琴音、と申します」


 姓と名の間に、わずかな間があった。

 噛みしめるように、けれど滑らかに紡がれた四文字だった。


「天道……」


 思わず口の中で、繰り返しかけて止まった。

 名前を呼び返すことが、この少女の勝ちを認めることのように思えて——喉の奥で言葉を折り畳んだ。


「よろしければ、覚えておいてください。——今日でなくても、構いませんから」


 少女が顔を上げて、まっすぐこちらを見た。

 微笑みは変わらない。

 けれど声の温度だけが、次のひと言で一段だけ低くなった。


「待っていたんです。——【リオン】さまが、お一人になるのを」


 声はあくまで穏やかだった。

 だが言葉の選び方に、計算の筋が透けている。

 背中の汗が、一段冷たくなった。


「週末、私とお出かけしてくれませんか?」


 一瞬、言葉の意味が呑み込めなかった。


「デート、です。【リオン】さまと、二人きりで」


 微笑みは変わらない。

 声も穏やかだった。

 けれどその穏やかさの底に、断らせるつもりのない硬さが透けている。


「水族館なんて、いかがですか。——夏ですし、涼しくて、静かで」


 行き先まで、少女の中ではもう決まっているような口ぶりだった。


「本当のルナは私だって——ちゃんと、証明してあげます」


 ——ルナ。


 灰色のアイコンが、頭の中にはっきりと浮かんだ。

 あのアカウントはまだ沈んだままだ。

 DMも届かない。

 パーティ招待も弾かれる。


 ルナに直接聞くことはできない。


 断る理由なら、いくらでも作れた。

 だが断ってしまえば、この少女との接点が切れる。

 何を知っていて、何を考えていて、何が目的なのか。

 自分の目で確かめるしかないのだ。

 ——測るしかない。


「……分かった」


 声が出ていた。

 少女の目がかすかに見開かれた。

 それが驚きなのか喜びなのか——読めなかった。


「土曜日、十時。駅の改札前で」


 少女は微笑んだ。

 清楚で、穏やかで、隙のない笑み。

 ——なのにその表面をなぞっても、指が触れるはずの体温がどこにもなかった。


「楽しみにしていますね、【リオン】さま」


 軽く一礼して、少女は坂を下りていった。

 他校の制服の背中が、午後の光の中に小さくなっていく。

 すれ違う生徒が何人か振り返っていたが、少女はそのまま振り返らなかった。


 一人になった。


 蝉の声が急に大きくなった。

 汗が額を伝っていることに、今さら気づいた。

 手のひらを見た。

 握り込んでいたせいで、指先が白くなっている。

 さっきまで何ともなかったはずの空気が、一段重くなっていた。


 測る。

 確かめる。

 ——それだけのことだ。


 それ以上のことは、まだ形にならなかった。


 坂を下りた。

 校門から離れるにつれて、さっきの会話が遠い出来事のように薄れていく。

 けれど指先に残った冷たさだけが、七月の陽射しの下でもなかなか抜けなかった。


  ◇


 木曜の放課後。


 一年の教室は、もうほとんど人がいなかった。

 窓から差し込む七月の午後の光が、机の上を斜めに照らしている。

 心花は自分の席で、鞄の中身をのんびり詰め替えていた。


 今日はセンパイとの約束はない。

 綾瀬先輩たちも、それぞれ用事で散り散りだと聞いた。

 たまにはこういう放課後もいい。

 駅前の本屋に寄って、電車に揺られて帰る。

 それだけの、なんでもない木曜日のはずだった。


 隣の席の子が「お先ー」と手を振って出ていった。

 心花は小さく手を振り返して、水筒のお茶をひと口飲んだ。

 ぬるかった。

 夏だなあ、と思った。


 鞄のファスナーを引いて、立ち上がった。

 廊下に出て、階段へ向かう。


 踊り場で、足が止まった。


 別に何かを探していたわけじゃない。

 いつもの癖で、窓の外にちらっと目をやっただけだった。


 ——校門の手前の坂道に、二つの影が見えた。


 一つは、見慣れた背中だった。

 制服のシャツが日差しを弾いて白く光っている。

 センパイだ。

 あの背中を見間違えるはずがない。


 もう一つは——他校の制服。

 長い髪が、午後の風にかすかに揺れていた。


 心花の指が、手すりに食い込んだ。


 あの子だ。

 校門の前でセンパイに近づいてきた、他校の女の子。

 センパイのことを何もかも知っているような顔で立っていた、あの子。


「……あの子、また——」


 声が漏れた。

 距離がありすぎて、坂道の二人には届くはずもなかった。


 ガラス越しの七月の景色が、その向こうの二人を遠い一枚絵みたいに切り取っている。

 声も聞こえない。

 表情も読めない。

 ただ二人の距離だけが、見えた。

 近かった。


 少女が軽く頭を下げた。

 一礼。

 きれいな所作だった。

 くるりと背を向けて、坂を下りていく。

 他校の制服の背中が、午後の光の中に小さくなっていった。


 センパイが一人、坂の途中に残されている。

 肩が強張っているのが、ここからでも分かった。

 しばらく動かなかった。

 やがてゆっくりと、駅のほうへ歩き出す。


 ——あんな背中、見たことない。


 綾瀬先輩たちと一緒に歩くときの背中じゃない。

 私と並んでいるときの背中でもない。

 知らない人みたいだった。


 理屈じゃなかった。

 でも私の勘は、昔からあんまり外れない。


 心花は窓に両手をついたまま、動けなかった。


 今すぐ駆け下りたい。

 でもここは三階だ。

 昇降口で靴を履き替えて、坂を走って——そこまで辿り着く頃には、もう誰もいない。


 唇を噛んだ。


 何を話していたかは分からない。

 どんな顔をしていたかも、この距離じゃ読めなかった。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 あの子は——性懲りもなく、またセンパイのところに来た。

 誰もいない放課後を狙って。


 あの日の校門を思い出す。

 知らない女の子が、センパイのことを何もかも知っているような顔をしていた。

 センパイの前に立って、微笑んで、まるで自分がそこにいるのが当然みたいに。

 あの空気は、忘れられない。


 右手が、いつの間にか握り込まれていた。

 制服のスカートに爪が触れるくらい、強く。


 何がどうなっているかは、まだ分からない。

 あの子の名前も、目的も、何ひとつ掴めていない。

 でも——見た。

 この目で、見た。


「……センパイは、私が守る」


 声は小さかった。

 自分にしか聞こえない、ほんの一息分の声だった。

 泣きそうなわけでも、震えているわけでもない。

 ただ胸の真ん中に灯った小さな火が、静かに揺れないまま、そこにあった。


 窓の向こうでは、もう誰もいなくなった坂道に西日だけが落ちている。

 蝉の声が、ガラス越しにくぐもって聞こえていた。


 心花は手すりから手を離して、階段を下りた。

 靴を履き替えて、校門を出る。

 さっき二つの影が立っていた坂道を、下りていく。


 歩きながら、鞄からスマホを引っ張り出した。

 センパイのトーク画面を開く。

 『大丈夫ですか?』——そこまで打って、指が止まった。


 何が大丈夫じゃないのか、自分でも分かっていない。

 心配してます、なんて送ったら、何が、と返ってくる。

 勘です、なんて答えても、センパイを困らせるだけだ。


 文字を全部消して、スマホを鞄に戻した。


 駅へ続く道を、心花は一人で歩いていく。

 七月の午後の光が、背中をじりじりと焼いていた。

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