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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第72話 届かないルナと、四つの灯り

ベッドに入っても、目は冴えていた。


 秒針の音を数えているうちに、時計の針が日付を跨いでいた。

 七月の夜は湿気を孕んで重く、寝返りを打つたびに空気がまとわりついてくる。

 天井を見上げていても、浮かんでくるのはルナのことばかりだった。

 ——ルナは、今、どうしているだろう。


 答えが欲しいとか、あの少女の正体を暴きたいとか、そういう力の入った動機じゃなかった。

 ただ、ルナの席を確認したかった。

 画面の向こうの広場に、いつものオレンジ色の名前が灯っていることだけ、見ておきたかった。


 布団を払って、起き上がった。

 暗い部屋の中、机の前に座った。


 PCを起動して、『エデン・オンライン』を立ち上げる。

 ログイン画面がぼうっと光った。

 マウスに手を伸ばした。

 ひんやりした樹脂の表面に、汗ばんだ指先がそっと触れる。


 ログイン。


 画面が暗転して、見慣れたロゴが浮かび上がる。

 ロード画面の光の粒がゆっくりと流れていった。

 ヘッドホンの奥で、聴き慣れた旋律が立ち上がる。


 石畳の広場。

 噴水の水音。

 行き交うアバターたちの声なき喧騒。


 何も変わらない、いつものエデンだった。

 息がふっと軽くなる。

 ここには、秒針の音も湿気もない。


 フレンドリストを開いた。


 アイコンが縦に並んでいる。

 その中に、目が止まった。


 【ルナ】のアイコンが、灰色に沈んでいた。


 いつもはオレンジ色に光っているはずの名前が、くすんだ灰色の文字になっている。


 ——息が、止まった。


 オフライン、なら、そういうこともある。

 徹夜明けで寝落ちしている時もあった。

 そう思い込もうとして、頭の中で言葉が滑った。


 マウスを握る指が、わずかに震えていた。

 DMの入力欄を開く。

 いつもなら『おつかれ』と打つところに、何を書けばいいか分からないまま——とにかく、名前を打った。

 送信ボタンを押した。


 ——弾かれた。


 『相手のアカウントが利用制限中のため、メッセージを送信できません』


 赤い文字が、画面の中央に短く貼り付いた。


 心臓の音が、急に近くで聞こえた。

 もう一度DMを開いた。

 同じ文字が、同じ場所に返ってきた。


 パーティ招待を試した。

 【ルナ】の名前を選択する。

 ——『招待できません』。

 同じ赤。

 同じ無機質な一行。


 もう一度、フレンドリストに戻った。

 灰色のアイコンが、そのまま沈んでいる。

 何度更新しても、色は戻らなかった。

 噴水の水音が、やけに遠くなった気がした。


 広場にはいつも通りのアバターたちがいた。

 ギルドの勧誘が噴水の前を陣取り、露店のプレイヤーが石畳の端にしゃがみ込んでいる。

 誰かの走るアバターが横を通り過ぎて、BGMが途切れずに繰り返す。

 いつもと何一つ変わらない賑やかさの中に、ルナの席だけがぽっかりと空いていた。


 ——運営の一時制限、だろうか。


 それ以上のことは分からなかった。

 何か見落としているものがある気がする。

 けれどそれは形にならなくて、胸の底に沈んだまま浮かんでこなかった。


 広場の喧騒の中で、【リオン】は一人だった。

 盾を構える相手もいない。

 ルナの声が入っていたチャット欄は、何も届かないまま空白を映している。

 噴水の水しぶきが画面の端で繰り返すだけの世界が、急にだだっ広くなった。


 画面をぼんやり見つめていると、別の音が割り込んできた。


 スマホが、震えた。


 机の端に置きっぱなしだったスマホの画面が光る。

 短い振動が、机越しに指先まで伝わってきた。


 篠崎からだった。


「センパイ、まだ起きてますか? 夜ふかしダメですよ! 明日も学校あるんですから!!」


 時刻を見た。

 一時を、少し回っている。

 この時間に送ってくる篠崎も十分夜ふかしだろう、と思ったが——そのまっすぐさに、口元がゆるんだ。


 続けて、もう一通。


「あ、あと! 今日のラムネ、二袋目も食べきっちゃいました! センパイに一粒も残ってないです!」


 残す気が最初からなかったことだけは、よく伝わってきた。

 商店街で並んで歩いた夕暮れの空気が、一瞬だけ蘇った。


 スマホを置こうとしたとき、また震えた。


 三桜さんだった。


「誠くん、明日ね、プリン持っていくね! コンビニの新しいやつ! カラメルがほろ苦いんだって。誠くん甘いの好きだよね??」


 好きだよね、と訊かれても、プリンの好みを話した覚えはなかった。

 たぶん、どこかで顔に出ていたのだろう。

 コンビニの棚の前で足を止めた瞬間を、あの人はちゃんと見ていたのかもしれない。

 ——そういうところだけ、妙に鋭い人だ。


 ——また震えた。


 一花さん。


「ねー誠、明日の放課後あいてる? 誰かと約束してたりしないよね? してないよね?? 抜け駆けは禁止だからね???」


 疑問符が増殖している。

 一花さんらしかった。

 軽い言葉の裏で、ちゃんと確認を取りにきている。

 ——いつもと何も変わらないそのテンションに、少しだけ肩の力が抜けた。


 最後に、少し間を置いて。


 二葉さんだった。


「マコト。最近、食事が偏っていない? 明日、弁当を持っていくから。鶏胸肉と卵のそぼろにする。たんぱく質、足りてないと思う」


 心配している、とは一言も書いていなかった。

 代わりに栄養素の名前が並んでいる。

 絵文字も感嘆符も、ひとつもなかった。

 句読点のひとつひとつまで几帳面で、二葉さんの横顔が見える気がした。

 それなのに——その一行一行がやけに温かかった。


 スマホの画面を見つめた。


 四人分のメッセージが、通知の順に並んでいる。

 篠崎のラムネ。

 三桜さんのプリン。

 一花さんの疑問符。

 二葉さんのたんぱく質。


 PCで起きていたことは、誰も書いていなかった。

 当たり前の言葉ばかりだった。


 ——なのに、なぜだろう。

 当たり前のはずの言葉が、今はやけに沁みた。

 画面越しの小さな文字が、四人分の声をそのまま運んできていた。

 PCの画面では届かなかった温度が、この手のひらの上にはある。


 PCの画面に目を戻した。

 灰色の【ルナ】は、まだそこに沈んでいる。


 ルナのことを忘れたわけじゃなかった。

 いつ戻れるかも、なぜこうなったのかも、分からないままだ。

 分からないことだらけで、夜はまだ長い。


 けれど——今、手の中にあるのは、過去のログじゃない。

 ついさっき送られてきた、四人分の騒がしくて不器用な体温だ。


 俺が向き合うべきものは、ここにある。


 静かにログアウトした。

 画面が暗くなる。

 さっきまで光っていた画面の白さが、しばらく目の奥に残った。

 ヘッドホンを外すと、部屋に秒針の音だけが戻ってきた。


 スマホを手に取って、一人ずつ返した。


 篠崎に——起きてた、おやすみ。

 三桜さんに——ありがとう、楽しみにしてる。

 一花さんに——してない、安心しろ。

 二葉さんに——ちゃんと食べる、ありがとう。


 打ち終えて、一瞬だけ画面を見つめた。

 四つの名前がトーク一覧に並んでいる。


 スマホを枕元に置いて、布団に潜り込んだ。


 目を閉じた。

 瞼の裏に、四つのメッセージの残像がまだぼんやりと浮かんでいた。

 七月の夜は、まだ湿っていた。

 けれど、さっきまでとは少しだけ重さが違う気がした。


  ◇


 翌朝。


 校門への坂を上る足が、いつもより少しだけ軽かった。


 七月の朝の日差しが、アスファルトを白く照らしている。

 まだ声の揃わない蝉が、遠くで一匹だけ鳴いている。

 自転車のチェーンの音がすれ違って消えていく。

 夜のうちに降りた露が、花壇のつつじの葉を光らせていた。


 校門の前に、三つの影が並んでいた。


「——遅い」


 二葉さんが、腕を組んだまま言った。

 その隣で一花さんが片手を上げている。

 三桜さんがビニール袋を両手で抱えたまま、ぱたぱたと駆け寄ってきた。


「誠くん! プリン! ほんとに持ってきたよ!」


 袋の中で、プリンのカップが揺れている。

 透明な袋越しに、カラメル色のふたが見えた。


「朝からプリンって……」


「いいじゃん、約束でしょ。あたしの分はないけどね」


 一花さんが三桜さんの頭を軽く小突いた。

 三桜さんが「えっ、お姉ちゃんの分もあるよ?」と慌てて袋の中を覗き込んでいる。

 ——四つ、入っていた。

 ちゃんと自分の分も、姉二人の分も買ってきている。


「マコト」


 二葉さんが一歩前に出た。

 紙袋を差し出された。

 白い紙袋の上がきちんと二回折られている。


「弁当、言った通り作ってきた。昼に、ちゃんと食べて」


「……ありがとう」


 紙袋を受け取ると、ずしりと重かった。

 朝のうちに起きて、鶏胸肉を焼いて、卵をそぼろにして、詰めて——その時間がまるごと手に伝わってくる重さだった。


「センパーイ! おはようございまーす!」


 校門の向こうから、弾む声が飛んできた。

 篠崎が手を大きく振りながら走ってくる。

 鞄が肩からずり落ちかけているのに気づいていない。


「センパイ、あのあとちゃんと寝ました?」


「……寝た」


「嘘ですね。私、そういうのすぐわかるんです」


 篠崎が得意げに胸を張って、それからふわっと笑った。


 五人が一度に喋り始めた。

 声が重なる。

 プリンの袋ががさがさ鳴って、弁当箱の重さが手に残る。

 一花さんが「ちょっと、放課後はあたしが先に——」と言いかけて、二葉さんに「先着順じゃないから」と遮られている。


 ——こういうことだ。


 昨日の画面の向こうには、灰色のアイコンが沈んでいた。

 答えはまだ出ない。

 たぶん、しばらくは出ない。


 でも、俺がまっすぐ目を向けるべきものは——この騒がしい朝の中にある。


「行くぞ」


 言って、校門をくぐった。

 四つの足音が、後ろからついてくる。

 ——いや、ついてくる、じゃない。

 並んで来ている。

 七月の空が、やけに高かった。


 五人の背中が、校門の向こうに消えていく。


 通学路の喧騒が、朝の空気に溶けていった。


 校門前の電柱の陰に、一つの影が立っていた。

 他校の制服。

 長い髪が、朝の風にかすかに揺れている。


 五人の背中を、その目がじっと追っていた。


 唇がわずかに動いた。

 笑みのような——泣き顔のような。

 どちらとも読めない表情が、ほんの一瞬だけ浮かんで、消えた。


 五人の笑い声が遠ざかる。

 電柱の影が、アスファルトの上で短くなっていた。

 その影の中に、もう誰の姿もなかった。

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