第71話 三姉妹の夜と、閉ざされた扉
交差点でリオンと別れてから家に着くまでを、一花はほとんど覚えていない。
気づいたら、エレベーターの扉が二十三階で開いていた。
玄関のドアが閉まった瞬間、空気が変わった。
一花は振り返った。
「あの子、誰?」
声が出ていた。
靴を揃える余裕もなかった。
薄暗い玄関ホールに、一花の低い声だけが落ちる。
二葉が鍵をかけ終えた手を下ろした。
鍵束がかちりと鳴った。
三桜が片方の靴を脱いだまま、動けなくなっている。
廊下の灯りを、誰もつけなかった。
「なんで——あの子が、ルナのこと知ってるの?」
誰も答えなかった。
リビングに入った。
広い部屋の真ん中に、巨大なソファが鎮座している。
カーテンを開けたままの窓の向こうで、七月の夜の街明かりがにじんでいた。
二十三階の夜景。
親のいない家は、いつだって静かすぎる。
一花はソファの背に手をついた。
指が白くなるほど力が入っている。
校門前で見た、あの少女の笑顔がまだ瞼の裏に貼りついていた。
他校の制服。
崩れない笑み。
ルナにだけこぼしたはずの言葉を、一字も間違えずに並べた声。
——あれは、盗み聞きだとか、偶然知ったとか、そういう顔じゃなかった。
「ハックされたんじゃないの? アカウント、誰かに——」
「待って」
二葉の声が遮った。
冷たい声だった。
けれど一花には分かる。
二葉が冷静に聞こえるのは、頭が回っているからじゃない。
回さないと壊れるから回しているだけだ。
「不正アクセスの可能性はある。チャットのログを盗み見た——でも、それだけじゃ説明がつかない」
二葉がソファに浅く腰を下ろした。
背筋を伸ばしたまま、組んだ膝の上で指を絡めている。
眉間の皺は校門を出た時から一度もほどけていない。
「じゃあ誰よ。クラスの誰かが、ログの画面とか盗み見たとか?」
一花の声が尖った。
「クラスにルナのこと話した奴はいない。私たちがルナだって知ってる人間は限られてる」
二葉の声は平坦なままだった。
「盗み見なら、ああいう使い方はしない。あの距離感——身近な誰かが情報を流した? でも、誰が……」
二葉の声が途切れた。
仮説を立てて、検証して、論理で答えを出す。
それが二葉だった。
その二葉の唇が、次の言葉を探して音にならない形だけ動いた。
「あの子、あたしたちのこと何も知らないくせに——ルナの言葉だけ、全部知ってた。おかしいでしょ」
二葉は一花を見た。
何も言わなかった。
「……分からない」
「二葉が分からないって、初めて聞いたかも」
一花は息を呑んだまま、絞り出すように言った。
「……そんなの、私だって言いたくない」
二葉が唇を噛む。
あの二葉が、答えを持っていない。
それが何より、一花の胸を冷たくした。
「私たち……」
三桜の声だった。
小さな声だった。
ソファの端に座り込んだ三桜が、膝の上で両手をきつく握っている。
指先が白い。
頬の色も引いている。
校門を出てから、三桜が声を出したのは——また明日ね、と言った別れ際だけだった。
あとは二葉が肩に触れても、一花が手を引いても、ただ俯いて足を動かしていただけだった。
「あの子に……何か、悪いことしてたのかな」
「三桜」
一花が抑えるように呼んだ。
「だって——あの子、怒ってた。嘘つきって……」
三桜の目が、すがるように二葉を見た。
「私、何かしたのかな……二葉ちゃん」
「三桜は何もしてない。私たちも」
二葉が短く挟んだ。
「でも……あの子、私たちのこと……許してくれないのかな」
言葉が途切れた。
三桜の肩が震えて、それきり言葉が出なくなった。
膝の上で握り合わせた両手が、震えのリズムだけを伝えている。
一花は唇を噛んだ。
三桜の気持ちが分からないわけじゃなかった。
あの少女の目には、怒りがあった。
リオンを本気で取り返そうとしていた——自分たちが何か奪ったかのように。
けれど一花には、奪った覚えなんかなかった。
あの手のひらの感触も、通学路の背中の温度も、放課後の教室で交わした声も。
全部、一花が自分の手で積み上げたものだ。
広いリビングに、沈黙が落ちた。
窓の外の夜景だけが、三人の影を壁に映している。
二葉がテーブルの上のノートPCに手を伸ばした。
画面が明るくなる。
ログイン画面が表示されて、パスワードが打ち込まれた。
——弾かれた。
画面に赤い文字が浮かんだ。
三桜の肩の震えが、ぴたりと止まった。
一花の指が、ソファの背に食い込んだ。
リビングの空気が、凍りついた。
エアコンの低い音だけが、遠くでうなっている。
「……止められてる」
二葉の声が、かすれていた。
画面を見つめたまま、瞬きすらしない。
一花はノートPCの画面に目をやった。
白い画面の中央に、赤い文字が一行だけ浮かんでいた。
「アカウントが——ログインできない。一時的な利用制限……」
二葉の指がキーボードの上で止まっている。
何かを打とうとして、打てなかった。
三人の誰も、次の言葉を持っていなかった。
ノートPCの画面だけが白く光って、広いリビングの壁を照らしている。
あの少女の崩れない笑顔が、脳裏をよぎった。
誰がやった。
なんで。
分からない。
けれど——一花の中で、怒りより先に、別の何かが燃え上がった。
「……あのさ」
声は低かった。
自分でも驚くほど静かで、腹の底から出ていた。
「誰がやったかなんて、今はどうでもいい」
二葉が顔を上げた。
三桜がのろりと顔を上げて、一花を見た。
「あたしは——リオンを渡さない。誰が何をしようと」
小悪魔の軽さじゃなかった。
ただ本気だった。
一花自身、こんな声が出せることを今まで知らなかった。
二葉が一花を見つめた。
長い沈黙のあと、眉間の皺がふっと緩んだ。
「……私も」
短い言葉だった。
論理は崩れた。
仮説は全部潰えた。
それでも——二葉の目は、揺れていなかった。
ただ、テーブルに置いた指先だけが、かすかに震えていた。
「三桜」
二葉が呼んだ。
「大丈夫。三桜が謝ることじゃない」
返事はなかった。
三桜は膝の上で握り合わせた両手を、ただ見つめていた。
一花はソファの背から手を離した。
三桜の隣に腰を下ろして、その肩を抱き寄せた。
二葉も無言で立ち上がり、三桜のもう片方の肩にそっと手を置く。
三人の体温が重なった。
一花の腕の中で、三桜の体がほどけた。
「……一花お姉ちゃん」
震える声が、リビングに落ちた。
「二葉ちゃんも……」
堪えていたものが緩んだ瞬間、頬を一筋だけ、熱いものが伝っていった。
たった一筋だった。
それきり、三桜は静かに息を整えた。
「……渡さない」
一花の肩口で、三桜が小さく言った。
「絶対に」
涙混じりの声ではなかった。
ただ低く、はっきりした声だった。
校門からずっと固まっていた肩が、ようやくほぐれた。
三人の目が交わった。
窓の外の夜景が、広いリビングにぼんやりと映り込んでいる。
親のいない家は、静かだった。
けれど今、三人の呼吸だけが確かに部屋を満たしている。
「明日」
一花がまっすぐ前を向いた。
「いつもより早く行こう。三人で、リオンを迎えに行く」
「うん。そうしよう」
二葉が小さくうなずいた。
「私も……行く」
三桜が一花の肩口から顔を上げて、こくりとうなずいた。
七月の夜は、まだ長い。
◇
指が、マウスから離れた。
いつからそうしていたのか、分からなかった。
『エデン・オンライン』のログイン画面が、暗い部屋の中でぼうっと光っている。
指先には、まだマウスのひんやりした感触が残っていた。
椅子の背にゆっくりと体を預けた。
天井が暗い。
カーテンを閉めていない窓の向こうで、街灯が一つだけ橙色に灯っていた。
時計の秒針が、かちり、かちり、と刻んでいる。
部屋にはその音と、自分の呼吸だけが満ちていた。
——あの少女の声がよぎった。
崩れない笑顔。
一字も間違えない声。
ルナにだけこぼした弱音を、全部知っていた。
あの少女は、誰だ。
なぜ、知っている。
問いだけが浮かんで、答えの形をしていなかった。
頭の中で同じ場面が何度も巻き戻る。
校門前の、白く光る空。
取り囲む制服。
あの少女の穏やかな声だけが妙に鮮明で、それ以外が全部ぼやけていた。
次に——別のものが、胸の中を通り過ぎた。
一花さんの手のひら。
校門前で腕を掴んだきり、最後まで力を緩めなかった手。
あの指の真剣さを、まだ腕が覚えている。
あの人はいつもあんなに本気だっただろうか。
軽い冗談と余裕の笑みの裏に、あんな揺るがなさを隠していたのか。
二葉さんの指。
何も言わずに、右肘に添えたまま離さなかった。
声は出さなかった。
ただ触れ続けることだけで、隣にいると伝えていた。
あの静かな手のひらのほうが、どんな言葉よりもはっきりしていた。
三桜さんの指。
俺の袖を掴んだまま、ずっと離れなかった冷たい指先。
——また明日ね、と言ってくれた声。
あの声は震えていたのに、笑おうとしていた。
校門を出てからも、三桜さんの指がもう一度だけ袖をつまんで、すぐに離れた。
その一瞬を、見ないふりができなかった。
篠崎の、たい焼き。
両手で差し出された、じんわり温かい紙袋。
日が暮れた商店街の、あの屈託のない笑顔。
夕焼けの残り香と、紙袋の甘いにおいと、篠崎の声が全部一緒くたに胸に残っている。
そして——あの少女の声が、もう一度割り込んでくる。
この嘘つきさんたちから、助け出してあげる。
胸が軋んだ。
俺は、誰を信じればいい。
目を閉じた。
あの少女の言葉は完璧だった。
一字も違わなかった。
ルナの秘密を、全部知っていた。
——でも。
一花さんの手のひらの温度は、あの少女の言葉の中にはなかった。
二葉さんの指の強さは、あの少女の知識の中にはなかった。
三桜さんの指先のつめたさも、篠崎の紙袋のぬくもりも——あの少女は、何一つ持っていなかった。
全部、今ここにあるものだ。
画面の中じゃない。
過去の記録でもない。
今、この手が覚えている温度だ。
——失いたくない。
言葉が、胸の底から静かに浮かんだ。
選ぶとか、選ばないとか、そういう話じゃなかった。
真実がどうあれ——あの四人を、失いたくない。
それだけだった。
それだけが、今の俺にとって確かなことだった。
目を開けた。
画面の白い光は、まだ部屋の中にぼうっと広がっている。
ログインボタンは、そのまま光っていた。
指は、伸ばさなかった。
窓の外で、街灯がぼんやりと夜を照らしている。
七月の夜の底に、静かな呼吸だけが落ちていく。
答えは、まだ形になっていない。
けれど——少しだけ、近づいた気がした。




