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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第70話 聞かない後輩、開いた拳

他校の制服の少女が校門前に現れて、俺とルナだけの夜の言葉を、そっくりそのまま口にしてみせた。

 何ひとつ言い返せないまま、四人に引きずられるようにして学校を出た。


 歩道を並んで歩いている。

 一花さんが俺の左腕を掴んだまま、一言も喋らない。

 二葉さんの手は右肘に添えられたままで、時々こちらを一瞥する。

 三桜さんが俺の袖を握った指先は、まだ冷たいままだ。

 篠崎が半歩前を歩いて、時々こちらを振り返っていた。


 帰宅する生徒たちが、俺たちの横をすり抜けていく。

 普段なら何とも思わない夕方の帰り道が、今日はどこか遠い場所みたいだった。

 七月の曇り空が白く光っている。

 汗なのかそうでないのか分からないものが、首筋を伝い落ちた。


 思考が動かなかった。

 あの少女が並べた言葉が、まだ頭の中でぐるぐると回っている。

 どれも正確だった、という事実だけが動かない。

 ルナにだけこぼした弱音も、装備の話も、全滅した夜の励ましも——ひとつ残らず。


 校門の角を曲がった。

 学校の正門が見えなくなると、一花さんが小さく息を吐いた。


「……もういいよ」


 一花さんの手が、俺の腕からゆっくり離れた。

 三桜さんが袖を放し、二葉さんの指が肘から滑り落ちた。

 三人の体温がいっぺんに消えた。

 腕が、急に軽くなった。


 交差点の信号が赤に変わったところで、自然に足が止まった。

 歩道橋の影が五人の上に落ちている。


「あたしたち、こっちだから」


 一花さんがアーケードの反対方向——綾瀬家のあるほうを顎で示した。

 いつもの軽い仕草だったけれど、声が少しだけ硬かった。


「ああ。……気をつけて」


「そっちこそ」


 一花さんの目が、ほんの一瞬だけ俺を見た。

 何か確かめるような視線だった。

 それから唇を少しだけ引き結んで、身を翻した。


 二葉さんが俺をちらりと見た。

 何か言いかけたように唇が動いて、けれど結局何も言わなかった。

 スカートの裾を握っていた右手を、そっと離しただけだった。

 その手が一瞬だけ宙に浮いて、行き場をなくしたように下ろされた。


「誠くん」


 三桜さんが、少しだけ青ざめた顔で小さく笑った。

 強張ったままの笑顔は、少し歪んでいたけれど、ちゃんと笑顔だった。

 その指が、もう一度だけ俺の袖をつまんで——すぐに離れた。


「また、明日ね」


「ああ。また明日」


 三人が交差点を渡っていった。

 一花さんが一瞬だけ振り返って、何か言おうとして、やめた。

 二葉さんの背中はまっすぐだった。

 三桜さんがスカートの端を片手で押さえながら、一花さんの隣に並んだ。

 三人の背中が夕方の白い光の中に小さくなっていく。


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 信号が青に変わった。

 俺と篠崎は、駅のほうへ歩き出した。


 二人きりになった途端、静けさが降りてきた。

 さっきまで四人の体温で塞がれていた穴に、七月のぬるい風が吹き込んでくる。

 足音がやけに大きく聞こえた。

 隣の篠崎の足音と、自分のそれ。

 二つだけが、アスファルトに響いている。


 駅前の商店街の入り口が見えてきた。

 平日の夕方で、帰宅ラッシュが始まりかけていた。

 スーツ姿のサラリーマンと、買い物袋を提げた主婦が行き交っている。


「センパイ」


 篠崎の声だった。

 半歩前を歩いていた篠崎が立ち止まって、こちらを見上げている。

 ボーイッシュなショートヘアの下から、まっすぐな目が覗いていた。


「ちょっとだけ、付き合ってもらっていいですか?」


「……え?」


「買い物。ちょっとだけ、商店街寄りたくて」


 俺の顔を見て、一瞬だけ表情が曇った。


「……あ、無理しなくても大丈夫です。センパイ、疲れてますよね。すっごい顔色悪いですし。やっぱり帰ったほうが——」


「いや」


 声が出た。

 自分でも驚くくらい自然に出た。

 帰りたくないわけじゃなかった。

 ただ、一人になったら、さっきの言葉がまた頭を埋め尽くす——そんな予感がした。


「……いいよ。付き合う。顔色は別に普通だ」


「普通じゃないですよ。幽霊みたいでした」


「ひどいな」


 篠崎が目を丸くした。

 それから、ふわっと笑った。

 ぱっと花が開くような——太陽が一個増えたみたいな、いつもの笑顔だった。


「ふふ、ごめんなさい。でも、ほんとに付き合ってくれるんですね」


「付き合うって言ったからな」


「じゃあ行きましょう、こっちです!」


 篠崎が半歩先に飛び出して、アーケードの入り口に駆け込んでいく。

 鞄が背中でぱたぱた揺れていた。

 小柄な背中が帰宅ラッシュの人混みに紛れかけて、すぐに振り返ってこちらを見た。


「センパイ、早く! 置いてきますよ!」


 ——さっきまで、頭の中を埋め尽くしていたはずの言葉が、一瞬だけ遠のいた。


 商店街に入ると、夕方の匂いが変わった。

 焼き菓子の甘い匂いと、揚げ物の油の匂いと、どこかの惣菜屋から流れてくる煮物の匂いが重なっている。

 曇り空の白い光がアーケードの屋根で遮られて、代わりに店先の裸電球がぽつぽつと灯り始めていた。


 篠崎がたい焼き屋の前で立ち止まった。


「あっ。ここ、前から気になってたんです」


 小さな店だった。

 店先に古い木の看板がかかっていて、ガラスケースの向こうで店主が生地を鉄板に流し込んでいる。

 焼きたての匂いが鼻先に届いた。

 甘くて、香ばしくて、七月の夕方にはやけに温かい匂いだった。


「センパイ、たい焼き好きですか?」


「嫌いじゃない」


「じゃあ二つ買っていいですか。私のおごりです」


「いや、それは——」


「後輩のおごりです。先輩は黙って受け取ってください」


 篠崎は財布を出して、迷いなく二つ注文した。

 店主がにこやかに焼きたてを紙袋に入れてくれる。

 篠崎がそのうち一つを、両手で俺に差し出した。


「はい、どうぞ」


 紙袋ごと受け取った。

 じんわりと温かかった。

 手のひらに、たい焼きの熱が染み込んでくる。

 七月に熱いものを食べるのはどうかと思ったけれど、その温もりが今はちょうどよかった。


 二人で歩きながら食べた。

 篠崎は尻尾から齧るタイプらしく、あんこを先に出してしまって「あっ」と声を上げている。


「溢れた……」


「そうなるよな、それ」


「尻尾からがロマンなんです。最後に一番おいしいところを残すんです」


 指先にあんこが付いて、慌てて鞄の中を探っていた。

 歩きながら探すせいで、紙袋を持った手が危なっかしく揺れている。


「センパイ、ティッシュないですか。私の、底の方に入っちゃってて」


「はいはい」


 ポケットからティッシュを出して渡した。

 篠崎が「助かりました」と指を拭く。


「センパイは頭からですか?」


「ああ」


「それ、攻めますね」


「攻めてるつもりはないけど」


 篠崎が自分のたい焼きを両手で持ち直して、尻尾のあたりに小さく齧りついた。


「頭から行く人って、大事なものを先に味わいたいタイプらしいですよ」


「誰が言ってたんだ、それ?」


「テレビです。信憑性は保証しません」


 くすっと笑った。

 自分で笑ったのが意外で、一拍遅れて気づいた。

 頬の筋肉が、ほんの少しだけ緩んでいる。

 校門前であの少女と向かい合っていたのが、ほんの三十分前のことだなんて信じられなかった。


 商店街の奥に、小さな駄菓子屋があった。

 篠崎が吸い寄せられるように入り口に立った。


「あ、ここまだやってるんだ」


 店先のプラスチックの棚に、色とりどりの駄菓子が並んでいる。

 ヨーグルト味のラムネ、酸っぱい梅キャンディ、ちっちゃいチョコバット。

 篠崎が棚の前にしゃがみ込んで、一つずつ手に取っては戻している。

 背中を丸めていると、小学生が紛れ込んでいるみたいだ。


「これ知ってます? このソーダのやつ、粉を水に溶かすとシュワシュワするんですよ」


「小学生の頃よく買ったな」


「私も! でもいつも溶かす前に粉のままむせながら食べちゃって、全然シュワシュワしなかったんです」


「……それ、意味あるのか?」


「ないです。でもおいしかったからいいんです。口の中で爆発するのが楽しいんですよ」


 篠崎は真顔でうなずいた。


 しばらく悩んで、篠崎はラムネの小袋を二つと、うまい棒を一本選んだ。

 合計で百円もしない。

 レジで小銭を数えている篠崎の横顔が、裸電球の光で少しだけ橙に染まっていた。

 真剣な顔で十円玉を並べている姿は、妙に幼く見えた。


 店を出ると、空の色が変わり始めていた。

 さっきまで白く曇っていた空が、西の端からじわじわと橙に溶けている。

 雲の切れ間から差し込む夕日が、商店街のアーケードの隙間を通って、歩道に細い影を落としていた。


「ここ、座りません?」


 篠崎が商店街の外れにあるベンチを指さした。

 駅前のロータリーが見渡せる小さな広場で、花壇の端に古びた木のベンチが一つ置いてある。

 街灯はまだ点いていなかった。


 並んで座った。

 篠崎の足がベンチから少しだけ浮いていた。

 小柄な背丈だと、この高さはつま先がぎりぎりらしい。


 少しだけ揺らしている足元を、ぼんやりと見ていた。


 篠崎が駄菓子のラムネを開けて、一粒口に放り込んだ。


「あ、これおいしい」


「粉のやつじゃないのか?」


「あれは上級者向けです。今日はこっちの気分なので」


 よくわからない理屈を言って、篠崎が小袋を差し出してきた。


「センパイも食べます?」


「……もらうよ」


 受け取って、一粒齧った。

 ぱちん、と舌の上で甘さが弾けた。

 安っぽい甘さだった。

 でも、不思議と落ち着いた。


 しばらく、二人とも黙って座っていた。

 駅前のロータリーをバスが通過していく。

 帰宅する人たちの靴音が、広場の向こうで交差している。

 どこかのスピーカーから、閉店間際の安売りを告げる声が流れていた。

 風が、花壇のマリーゴールドを揺らした。


 夕焼けが、じわじわと広がっていた。

 曇りだったはずの空が、西の端だけ裂けたみたいにオレンジ色に燃えている。

 その光がロータリーのアスファルトを染めて、篠崎の横顔にもかかっていた。


「……あの人、怖かったですね」


 篠崎がぽつりと言った。


「あの、校門の——他校の人」


 篠崎は知らない。

 あの少女がルナを名乗ったことも、二人だけのチャットを一字も違えず並べたことも、三姉妹があの言葉に動揺した本当の理由も。

 何も知らないまま、ただ俺の前に立ってくれた。


「……ああ。ちょっと、びっくりした」


「びっくりしたどころじゃなかったですよね、センパイ」


 篠崎がこちらを見上げた。

 まっすぐな目だった。

 けれど踏み込んでこない目でもあった。

 訊きたいことはあるのに、あえて手前で止まっている——そういう距離の取り方だった。


「……まあ、な」


「聞かないですよ、私は」


 篠崎はそう言って、ラムネを一粒、口に放り込んだ。


「話したくないことを、わざわざ引っ張り出さなくていいと思うので」


「でも、センパイが困ってたのはわかりました。迷子みたいな顔してましたから」


「……別に迷子にはなってないだろ」


「なってました。だから——まあ、困ってるセンパイに付き合ってもらうのも変ですけど」


 篠崎がベンチの上で足をぱたぱた揺らした。

 ローファーのつま先が、小さく弧を描く。


「こうやってたい焼き食べたり、駄菓子買ったりしてるほうが、たぶんいいかなって」


「……お前が決めるのか?」


「決めます。後輩の権限です」


「なんだよそれ」


「先輩がしんどい時に、無理やり引っ張り回す権限です」


 真顔だった。

 真顔なのに、目の端がほんの少しだけ笑っている。


 ——ずるいな、と思った。

 聞かないと言いながら、気づいている。

 困っていることも、何かがあったことも、今の俺がぐらぐらなことも。

 全部わかった上で、たい焼きと駄菓子で塗り替えようとしている。


 さっきまで握り締められていたはずの拳が、いつの間にか開いていた。

 ポケットに突っ込んでいた手が、膝の上に出ている。

 指の力が、抜けていた。


「……センパイと寄り道するの、ずっとやってみたかったんです」


 篠崎が夕焼けのほうを見たまま、ぽつりと言った。

 オレンジの光が、短い睫毛の先を染めている。


「学校の中じゃなくて、こうやって。たい焼き買ったり、駄菓子見たり、ベンチに座ったり。なんでもないことなんですけど——それが、すごくやりたかった」


 声は穏やかだった。

 寂しさはなかった。

 ただ純粋に、嬉しそうだった。


「だから、今日付き合ってくれて。嬉しいです」


 篠崎がこちらを向いた。

 夕焼けに染まった笑顔だった。

 雨の日の寂しさの欠片もない、ただまっすぐに嬉しい、それだけの顔。


 胸が、じんわりと温かくなった。


 ——ああ。


 そうか。

 こういう時間だ。

 こういう何でもない、ラムネを齧って、たい焼きを食べて、くだらないことを喋って笑って。

 俺が手放したくないのは——たぶん、こういう時間のことなんだ。


 言葉にはしなかった。

 まだ形になっていない何かが、胸の底でぼんやりと光っているだけだった。

 けれどそれは確かに、温かかった。


「……そろそろ、帰るか」


「あ、もうこんな時間。私電車乗り遅れちゃう」


 篠崎が慌ててベンチから飛び降りた。

 つま先が着地で少しよろけて、鞄を肩にかけ直している。


「じゃあ、私こっちなので」


 改札の方を指さした。

 いつもの分かれ道だった。


「今日、ありがとうございました。たい焼き美味しかったです」


「おごってもらったのは俺のほうだろ」


「いいんです。後輩の権限なので」


 篠崎がくるりと振り返った。

 夕焼けが最後のオレンジ色を空に残していて、その光が篠崎の横顔をかすめた。


「センパイ、今日はちょっとだけ笑ってくれましたね」


「……そうか?」


「はい。よかったです」


 手を大きく振った。

 いつもの、全力の手の振り方だった。

 小柄な体ごと揺れるような、隠す気のない、まっすぐな手の振り方。


「じゃあ、また明日!」


 駆け出した小柄な背中が、改札の人混みに紛れていく。

 途中で一度だけ振り返って、もう一回手を振った。

 鞄がぱたぱたと揺れている。

 そのまま改札を通って、見えなくなった。


 一人になった。


 駅前のロータリーに、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。

 夕焼けはもう消えかけていて、空の端だけがうっすらと藤色に残っている。

 帰宅ラッシュの人混みが、俺の横を流れていく。


 胸の中に、篠崎の手の振り方がまだ残っていた。

 たい焼きの温もりが、まだ掌に残っていた。

 ラムネの甘さが、まだ舌の奥にあった。


 鞄を握り直して、家に向かうホームへ歩き出した。


 電車に揺られて、最寄り駅で降りて、見慣れた住宅街を歩いて、家に帰った。

 靴を脱いで、階段を上がって、自分の部屋のドアを開けた。


 カーテンを閉めていない窓から、街灯の光がぼんやりと入り込んでいる。

 椅子に座って、デスクの上のPCの電源を入れた。

 ファンの回る低い音がして、画面が明るくなる。

 モニターの白い光が、暗い部屋にぼうっと広がった。


 『エデン・オンライン』の起動画面。

 使い慣れたアイコン。

 使い慣れたパスワード入力欄。


 マウスに置いた右手の人差し指が、ログインボタンの上で止まった。


 ——あの少女の顔がよぎった。

 崩れない笑み。

 一字も間違えなかった声。


 次に——四人の体温がよぎった。

 一花さんの、痛いほど強い手のひら。

 二葉さんの、離さない指。

 三桜さんの、強張って歪んだ笑顔。

 篠崎の、たい焼きの紙袋を差し出す両手。


 指が、動かなかった。


 画面の白い光だけが、部屋にぼうっと残っていた。

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