第69話 渡さない、と四人が言った
靴箱を閉めて、昇降口を出た。
七月の湿った風が頬に張りついた。
空は雲に薄く覆われていて、午後の日差しがぼんやりと白い。
帰宅する生徒たちがすれ違っていく。
部活の掛け声が遠くから聞こえて、消えた。
いつもと同じ放課後だ。
——のはずだった。
校門の手前に、見覚えのある三人が立っていた。
一花さんと三桜さんと、篠崎。
帰宅する生徒の流れの中で、その三人だけが動かずに固まっている。
遠目には軽く談笑しているようにも見えた。
ただ、近づくにつれて、その立ち方が普段と違うことに気づいた。
一花さんが校門の鉄柵に背中を預けて、腕を組んでいた。
いつもなら俺を見つけた瞬間に駆け寄ってきて、腕に絡みついてくる人だ。
今日はこちらに気づきもしていない。
時々校舎の方を振り返って、誰かを待つように顔を上げている。
三桜さんがその隣で、鞄の持ち手を両手で抱えていた。
ちょっと困った顔で、一花さんと篠崎の顔を交互に見ている。
いつもの柔らかい笑顔はないけれど、青ざめているわけでもなかった。
ただ、戸惑っている。
篠崎は二人から半歩離れて立っていて、首を傾げていた。
帰り道の途中で偶然この空気にぶつかった——そんな立ち位置だった。
「……あ、センパイ!」
篠崎が俺に気づいて、ぱっと駆け寄ってきた。
ボーイッシュなショートヘアが、駆けてくる勢いで揺れる。
「ちょうど良かった。ちょっとこれ、なんなんですか?」
「俺に聞かれてもわかんないよ」
「綾瀬先輩たち、なんか急に校門に集まれって連絡があったらしくて。私はただ帰ろうとしてただけなんですけど、お二人の様子がなんか変だったから声かけたら、これですよ」
篠崎が少しだけ首をすくめて、小声になった。
「あの、私帰っていいんですかね? なんかすっごい帰りづらい空気なんですけど」
「……帰りたいなら帰ればいいんじゃないか?」
「いや、でもなんか気になるじゃないですか。センパイ、本当に何も聞いてないんですよね?」
「ああ。呼ばれてない」
篠崎が「えぇー」と眉を寄せた。
「二葉先輩が呼んだらしいんですけど、まだ来てないし、用件もわかんないし、私も巻き込まれてるし——意味、わからなくないですか?」
俺も同感だった。
鉄柵から背を起こした一花さんが、こちらに気づいて歩いてきた。
いつもなら俺の腕に絡みついてくるはずの足取りが、今日は少し重い。
「……誠」
いつもの甘い抑揚はあったけれど、半分くらいに薄まっていた。
そのまま俺の隣に立って、すっと腕を絡めようと手を伸ばしかけ——やめた。
代わりに、軽く肩をぶつけてくる。
ただの癖のような、力のない接触だった。
「あんたも呼ばれたの?」
「いや、俺は呼ばれてない。なんとなく校門にいるのが見えたから来ただけだ」
「ふーん」
一花さんが軽く息を吐いた。
腕を組み直す仕草には、どこか苛立ちのようなものが混じっている。
「二葉ったらさ、急に『今すぐ校門に来て』ってそれだけよこすんだもん。理由も書かないでさ。あの子、そういう人じゃないでしょ」
「ああ。待ち合わせひとつでも、時刻と場所と目的を三点セットで送ってくる人だよな」
「ね? なんか変じゃない?」
一花さんがこちらを見上げた。
探るような、確かめるような目だった。
「今日の二葉、朝から硬くなかった? あたしが話しかけても上の空っていうか」
「……そういえば、少し様子がおかしかった気もする」
具体的な理由は思い当たらない。
俺の答えを聞いて、一花さんはもう一度「ふーん」と小さくこぼし、また校舎の方へ視線を戻した。
三桜さんが、鞄の持ち手を両手で抱えたまま俺の方へ一歩寄ってきた。
「誠くん、本当に二葉ちゃんから何も聞いてない……?」
「ああ、何も。メッセージも来てないよ」
「……二葉ちゃん、返事してくれないの。電話も、出ないし」
三桜さんの声が、不安げに揺れていた。
俺の顔を覗き込むようにして、少しだけ首を傾げる。
「何かあったのかな……」
「わかんないけど、もうすぐ来るだろ」
「……そうだよね」
三桜さんが鞄の持ち手をぎゅっと握り直した。
爪の先がほんの少し白くなっている。
「なんか、四人で待ってるのも変な感じですねー」
篠崎が空気を変えようとするように、少し明るい声を出した。
「私部外者だし。でもなんか気になっちゃうし」
「……あんたは帰ればいいじゃない」
一花さんが、視線を向けずにぽつりと言った。
「えー、一花先輩冷たいですよー。せっかく心配して残ってあげてるのに」
「別に心配されるようなことなんて何もないし」
昇降口の方から、足音が近づいてきた。
二葉さんだった。
鞄を肩にかけて、まっすぐ歩いてくる。
歩幅は変わらない。
表情も動いていない。
完璧に整えられた、いつもの二葉さんだった。
ただ——その目が、俺の姿を捉えた瞬間に、ほんのわずかに止まった。
「マコト」
二葉さんの声は低かった。
「呼んだ覚えはないのだけれど」
「いや、たまたま見えたから。どうしたんだよ、急に?」
二葉さんは答えなかった。
追い払うでもなく、引き止めるでもなく、視線をすっと校門の外へ流した。
表情が、わずかに硬くなった。
「二葉、遅い」
一花さんが少し咎めるような声を出した。
「二葉、何があんの?」
「一花、三桜。来てくれてありがとう」
「二葉ちゃん、何かあったの……?」
三桜さんが心配そうに覗き込んだが、二葉さんは答えなかった。
代わりに、静かに篠崎の方を向いた。
「篠崎さん——あなたは、関係ない。早く帰ったほうがいい」
篠崎が「えっ」と目を瞬いた。
「関係ないって……そんなに邪魔ですか?」
篠崎の眉が寄った。
「いや、でも気になるんで……」
二葉さんは答えなかった。
顎で校門の外を示しただけだった。
その視線の先に何があるのか。
全員の目が、釣られるように校門の外へ向いた。
帰宅する生徒たちの流れの中に、一人だけ動かない影があった。
息が止まった。
心臓を、冷たい手で鷲掴みにされた気がした。
深い紺のブレザーに、細い銀のラインが一本。
胸元の金糸の校章。
長い波打つ髪が、曇った午後の光の中でかすかに揺れている。
あの制服だった。
あの立ち方だった。
——先週、路上で声をかけてきた少女。
公園のベンチで、俺とルナの二人だけの言葉を一字も違えず並べてみせた、あの少女だった。
足元が傾いた気がした。
なぜここにいる——その問いが、喉の手前で詰まって声にならなかった。
「誠、あれ誰?」
一花さんが低い声で訊いた。
「……少しだけ、知ってる」
声が掠れた。
少女がこちらに気づいた。
校門の鉄柵を挟んで、ゆっくりと歩いてくる。
焦りも迷いもない足取りだった。
穏やかな微笑みだった。
柔らかくて、一分の隙もない。
あの日と同じだ。
整った顔立ちの奥で、瞳だけが深く、静かに飢えている。
少女が校門のすぐ外で足を止めた。
甘い花の香りが、鉄柵越しにかすかに届いた。
「迎えに来ました——【リオン】さま」
空気が凍った。
一花さんが息を呑んだのが聞こえた。
三桜さんの肩が跳ねた。
【リオン】——ゲームの中でしか使わない名前だ。
それを他校の見知らぬ少女が、四人の前で口にした。
篠崎だけが意味を掴めずに首を傾げている。
二葉さんの目が、一瞬だけ細く鋭くなった。
俺の背筋を、汗とは違う冷たいものが伝い落ちた。
「アンタ——誰?」
一花さんの声が低く尖った。
腕組みを解いて、半歩前に出ている。
「名乗る必要はないわ」
少女は微笑んだまま、一花さんをまっすぐに見た。
怯まなかった。
「この人のことを、いちばん知っているのは私ですから」
柔らかい声だった。
けれど中身は刃物だった。
少女の目がゆっくりと一花さんから二葉さん、三桜さんへと移る。
ひとりずつ、確かめるように。
「騙していたのは——偽物さんたちのほうでしょう?」
穏やかな笑みのまま、少女は続けた。
「深夜にこぼした弱音——教室にいてもいなくても何も変わらないって、ルナにだけ見せた本音の言葉。知っていますよ」
背筋を、冷たいものが伝った。
あの言葉だ。
先週の公園で、この少女が俺の目の前で一字も違わず並べてみせたのと同じ夜の言葉。
今度は違う。
二人だけのベンチではなく、三姉妹の並ぶ校門前で、白昼の風の中で読み上げられている。
「装備の振り方で迷った夜に、ルナが返した答えも」
三桜さんが小さく息を呑んだ。
一花さんの唇が薄く開いたまま、声になっていない。
一花さんの視線が二葉さんへ走った。
二葉さんは微動だにしなかった——ただ、組んだ腕の指先が自分の肘に食い込んでいる。
「初めてのレイドで全滅した夜、ルナがかけた励ましの言葉も——一字一句」
三人とも、黙った。
一花さんの指が震えていた。
二葉さんのスカートの裾を握る手が白い。
三桜さんの肩が、一花さんや二葉さんとは違うリズムで小さく上下していた。
鞄の持ち手を握る指の関節が、白く浮いている。
なぜこの少女が知っている——その問いが、三人の間を無音のまま走り抜けていた。
俺の拳が、ポケットの中で握り締められていた。
何か言わなければと思った。
けれど——何を言えばいいのかわからなかった。
あの夜の言葉を、この少女は一字も間違えない。
そのことの意味を、俺はもう知っている。
知っているのに、口が動かなかった。
静寂が重かった。
帰宅する生徒たちの笑い声が、別の世界のように遠い。
七月の風が校門の鉄柵の隙間を抜けていく。
ぬるくて、重かった。
——そのとき。
「あのさ」
小さな体が、前に出た。
篠崎だった。
俺の前に、ボーイッシュなショートヘアの後輩が立ちはだかっている。
小柄な背中の肩のラインが、まっすぐだった。
鞄を肩にかけ直す動作が目の端に映った。
両手を空けるためだと、一拍遅れて気づいた。
「アンタが誰だか知らないけど」
篠崎の声は震えていなかった。
「センパイを困らせるの、やめてくれない?」
部外者の一撃だった。
篠崎はルナのことも、三姉妹の秘密も、この少女の言葉の意味も知らない。
何も知らないからこそ——迷いなく、一歩前に出られた。
それが、眩しかった。
空気が動いた。
「——偽物でも何でもいい」
一花さんの声だった。
裏返りかけて、それでも途切れなかった。
いつもの軽さが全部剥がれ落ちた、むき出しの声だった。
背中が震えていた。
指先が震えていた。
けれど顔を上げて、少女をまっすぐに見ていた。
「誠は——渡さない」
小悪魔の笑みも、からかいの軽さもなかった。
空き教室で漏れかけた素の声の、その続きだった。
朝の通学路で振り解きかけて、慌てて掴み直した指の力の続きだった。
一花さんの右手が俺の左腕を掴んだ。
痛いほど強かった。
小さな手のどこにこれだけの力があるのか、わからなかった。
掌が、熱かった。
「根拠のない主張で人を振り回すのは、非合理的よ」
二葉さんの声は氷のように平坦だった。
「名乗れない人間の言葉を、信じる理由がどこにあるの」
感情を消した声だった。
けれどスカートの裾を握る手だけが、かすかに震えていた。
二葉さんの左手が俺の右肘に添えられた。
静かに、しかし離さない力で。
指の一本一本が、正確に俺の肘の形に沿っている。
「わ、私も……っ」
三桜さんの声が、息と一緒に押し出された。
「何が本物とか偽物とか、わかんないけど——誠くんのこと、勝手に連れていかないでっ……」
三桜さんが俺の袖を掴んだ。
指先が冷たかった。
服越しでも分かるほど、手の体温が落ちていた。
唇は震えていて、それでも閉じなかった。
声はかすれていた。
けれど掴む力だけは、まっすぐだった。
四人に囲まれていた。
篠崎が前に立ち、一花さんが左腕を掴み、二葉さんが右肘を押さえ、三桜さんが袖を引いている。
四人の体温が服越しに伝わってくる。
それぞれの震えが、少しずつ違うリズムで腕に響いていた。
少女は——微笑んでいた。
何も崩れていなかった。
唇の角度も、目元の柔らかさも、長い波打つ髪の一筋さえも乱れていない。
四人がかりの壁を前にして、少女は一歩も退いていなかった。
「——そう」
少女が小さく頷いた。
「すぐにわかりますよ」
穏やかな声だった。
穏やかなのに、背筋が冷えた。
「【リオン】さまを騙してきたのが誰なのか——この嘘つきさんたちから、私が助け出してあげる」
微笑みは崩れなかった。
少女は静かに踵を返した。
長い波打つ髪が風に揺れて、甘い花の香りの残り香が遠ざかっていく。
帰宅する生徒の流れに紛れて、他校の制服のシルエットが小さくなり——角を曲がって、消えた。
少女がいなくなっても、四人は動かなかった。
一花さんの指がまだ俺の腕を掴んでいる。
二葉さんの手がまだ肘に添えられている。
三桜さんの指先が、まだ俺の袖を握ったまま離れない。
篠崎がまだ、俺の前に立っている。
守られていた。
何も知らない四人に、何も言えない俺が、体ごと守られていた。
俺だけが知っている。
あの少女が並べた言葉が、一字も間違っていないことを。
あの柔らかい声も、崩れない笑顔も、二人だけの夜の会話を知っていることも——嘘ではなかった。
なのに今この瞬間、四人の体温のほうが圧倒的に近かった。
正しいのがどちらかなんて、握り締められた腕の痛みの前では、考えられなかった。
答えは出なかった。
喉の奥で言葉が詰まったまま、四人に引きずられるようにして校門を離れた。
背中に、あの視線がまだ張りついている気がした。
七月の湿った風が、頬を撫でていった。
築いてきた放課後が——静かに、軋み始めていた。




