第68話 放課後の二葉、見えない棘
六限目が終わったチャイムの残響が、まだ廊下のどこかに引っかかっていた。
二年B組の教室は、帰りのホームルームが解散してから十分も経たずに空気が変わる。
椅子を引く音、鞄の金具が鳴る音、誰かが誰かを呼ぶ声。
それが引き潮みたいに遠くなって、やがて教室には二葉だけが残された。
正確には、残ったのではない。
残したのだ——自分で。
教卓の横に積まれたプリントの束が、斜めにずれかけていた。
二葉はそれを両手で持ち上げ、角を揃え直した。
角が完全に揃うまで、三度叩いた。
乾いた音が、短く響いた。
それからクリアファイルに差し込み、提出先の教科ごとにラベルの向きを確かめて、教卓の端にまっすぐ置いた。
頼まれたのは、学級日誌の回収だけだった。
プリントの整理も、忘れ物の確認も、窓の施錠も、誰にも頼まれていない。
日直は今週、別の生徒だ。
けれど二葉の手は止まらなかった。
黒板消しクリーナーの吸い込みが甘くなっているのに気づいて、フィルターの端を指で叩いた。
窓際の席に置き忘れられた消しゴムを拾い上げ、持ち主の名前を確認して、その子の席の引き出しにそっと戻した。
誰の消しゴムかは、見なくても分かった。
あの席に座る女子は、消しゴムにいつもキャラクターのカバーをかけている。
先週の水曜にカバーを新しいものに替えたことも、二葉は覚えていた。
覚えていることに、意味はない。
ただ目に入ったものが、二葉の中で勝手に積み重なっていくだけだ。
自分の席の隣で、椅子が半分引き出されたままになっていた。
二葉は机の縁に合わせて、音を立てずに押し込んだ。
【リオン】の席だ。
椅子を戻さずに帰るのは、隣の席になってからずっと変わらない。
教室が静かになると、さっきまで聞こえなかった音が耳に届く。
校庭から部活の掛け声が遠く聞こえている。
廊下の向こうで、誰かの上履きが床を擦って軋んだ。
蛍光灯が一本だけ、かすかに瞬いている。
二葉は窓の鍵を確認しながら、ひとつ前の休み時間のことを思い出していた。
【リオン】が、笑っていなかった。
笑おうとはしていた——口の端は持ち上がっていたし、声の調子も崩していなかった。
けれど目が追いついていなかった。
視線がときどき窓の外にふっと逸れて、呼びかけに半拍だけ遅れて戻る。
あの癖は、先週から始まった。
最初に気づいたのは月曜の朝だった。
教室に入ってきた【リオン】の歩幅が、いつもより半歩短かった。
靴箱のほうから廊下を通って二年B組のドアを開けるまでに、普段より二秒ほど遅い。
些細なことだ。
一花は気づかなかっただろう。
三桜も気づかなかっただろう。
二葉の手が、【リオン】の異変を数えるたびに少しだけ正確になる——それだけのことだった。
窓の鍵をひとつ引いた。
金具が硬くて、指の腹に金属の冷たさが食い込んだ。
今日の昼休みも、二葉は教室を出た。
理由は用事だった——実際に用事はあった。
クラスメイトから押し付けられた届け物を職員室に持っていく、それだけの仕事を引き受けた。
引き受けたのは、頼まれたからだ。
頼まれたのは、二葉だったからだ。
「綾瀬さん、これお願いしていい? いつも手が早いから助かるんだよね」
そう言われたとき、二葉は「ええ」と短く返しただけだった。
手が早い。
助かる。
それ以外の言葉はなかった。
輪の中で一緒に笑うことが、二葉には昔から難しかった。
好きになるほど手が伸びて、伸びた分だけ人が退がっていく。
それでいい、と決めたのは自分だ。
だから二葉はいつも、少し離れた場所から整える側に立っている。
教卓の上のクリアファイルを指先で整えた。
角がまだ一ミリほどずれている気がして、もう一度揃え直した。
揃えてから、自分の指先を見た——爪の先に、プリントの紙粉がうっすらと白く残っていた。
職員室への用事は五分で終わった。
渡して、受領の確認を取って、戻ってきた。
戻る途中で、中庭を横目に見た。
ベンチに三桜と【リオン】が並んで座っていて、篠崎さんが小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
足を止めなかった。
見なかったことにしたわけではない——見て、確認して、それから同じ歩幅で歩き出しただけだ。
三桜は【リオン】のそばにいるとき、声の高さがほんの少し変わる。
普段より半音高くなって、語尾がふわりと跳ねる。
あの声を聞くと、【リオン】の肩の力が少しだけ抜ける。
そのことを二葉は知っていた。
知っているだけだ。
知っていて、何もしないだけだ。
教室の後方の窓の鍵を引いた。
最後の一つが、さっきの窓より軽く落ちた。
プリントの束を教卓に置いたまま、二葉は教室を出た。
職員室前で学級日誌の提出を済ませてから、その足で廊下を奥へ歩いた。
特に理由はなかった。
ただ教室に戻る気になれなかっただけだ。
廊下の窓から、校門が見えた。
七月の午後の光が、校門の門柱に長い影を落としている。
空は雲が薄く広がっていて、日差しが白い布越しのようにぼんやりと降りていた。
帰宅する生徒が数人、校門を通り過ぎていくのが見えた。
部活の掛け声が校庭の向こうから聞こえて、消えた。
その中に——ひとつだけ、異質なものが混じっていた。
校門のすぐ外に、立っている人がいた。
立ち止まっている。
帰宅する生徒たちの流れの中で、一人だけ動いていなかった。
制服が違う。
清華高校の紺のブレザーではない。
同じ紺色のはずなのに、仕立ても、シルエットも、どこか違っていた。
距離がある。
表情は読めないし、顔の造りもわからない。
ただ、肩の下まで伸びた長い髪が、午後の曇った光の中でかすかに揺れているのが見えた。
二葉の指が、窓枠の上で止まった。
他校の生徒が校門の前にいること自体は、珍しくない。
友人を迎えに来ることもあるし、近くの塾への通り道ということもある。
ただ——あの立ち方は、通りがかりではなかった。
鞄を身体の前で両手で抱えて、校門の方を見ている。
待っている——というのとも少し違う。
観察している、に近い。
二葉の視線が窓の外に張りついたまま、指先が無意識にスカートの裾を握った。
——【リオン】が、おかしい。
先週から。
歩幅が縮んだ日から、視線の逸れ方が変わった日から。
朝、教室に入ってくるときの顔の角度が変わった。
弁当を食べるときの箸の動きが遅くなった。
話しかけたときの返事は普通だった——普通すぎた。
いつもの【リオン】なら、二葉の確認事項の多さに半分呆れた顔で『わかったよ、二葉さん』と言う。
それが、先週から『ああ、ありがとう』に変わっていた。
丁寧になったのではない。
距離が開いたのだ。
そしてあの少女が、校門の前にいる。
繋がった——というほどの確信はなかった。
証拠はない。
二葉は根拠のない推測で動くことを、自分に許さない。
けれど胸の奥——肋骨の裏側のあたりで、何かが硬く結ばれた。
あの影と、【リオン】の変化の間には、何かがある。
二葉の中の何かが——理屈ではなく、指先がずっと数えてきた異変の蓄積が——そう告げていた。
【リオン】に刺さっている棘が、二葉には見えない。
見えないものは、抜いてやることもできない。
窓の外を見つめたまま、二葉の右手がスカートのポケットに入った。
スマートフォンのロック画面が、薄暗い廊下で白く光った。
打った文字は短かった。
一花へ。
三桜へ。
——今すぐ、校門に来て。
送信ボタンを押す直前、指が一瞬だけ止まった。
この胸騒ぎに名前をつけることは、まだ二葉にはできなかった。
ただ確かなことが一つだけあった。
【リオン】を揺さぶっている何かが——あそこにいる。
送信した。
画面が消えて、二葉の顔が薄く映り込んだ。
その顔は、いつもと変わらないように見えた。
口元は引き結ばれていて、眉は動いていない。
けれど指先がまだ、わずかに震えていた。
廊下の窓の向こうで、他校の制服の少女はまだ立っていた。
帰宅する生徒の群れが、少女の前を横切っていく。
誰も少女に気づかない。
少女も、誰にも声をかけない。
二葉は窓から視線を外した。
教室に戻って、鞄を取る。
教卓の上のクリアファイルが、さっき揃えた通りの角度でまっすぐ置かれているのを確認した。
確認しなくても、ずれていないことは分かっていた。
自分の手がやったことは、ずれない。
そういうふうに、二葉の手はできている。
鞄を肩にかけた。
もう一度だけ、廊下の窓から校門の方を見た。
他校の制服の少女は、まだ同じ場所に立っていた。
二葉は歩き出した。
階段を降りる足音が、がらんとした校舎に反響する。
歩幅は変えなかった。
ただ、変えないことに少しだけ力が要った。
——私が、確かめる。
あの子が何者で、【リオン】に何をしたのか。
昇降口のドアを押し開けた。
七月の湿った風が、頬に触れた。
スマートフォンが、ポケットの中で一度だけ震えた。
返信だろう。
確認はしなかった。
二葉は校門へ向かって歩き始めた。




