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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第68話 放課後の二葉、見えない棘

六限目が終わったチャイムの残響が、まだ廊下のどこかに引っかかっていた。


 二年B組の教室は、帰りのホームルームが解散してから十分も経たずに空気が変わる。

 椅子を引く音、鞄の金具が鳴る音、誰かが誰かを呼ぶ声。

 それが引き潮みたいに遠くなって、やがて教室には二葉だけが残された。


 正確には、残ったのではない。

 残したのだ——自分で。


 教卓の横に積まれたプリントの束が、斜めにずれかけていた。

 二葉はそれを両手で持ち上げ、角を揃え直した。

 角が完全に揃うまで、三度叩いた。

 乾いた音が、短く響いた。

 それからクリアファイルに差し込み、提出先の教科ごとにラベルの向きを確かめて、教卓の端にまっすぐ置いた。


 頼まれたのは、学級日誌の回収だけだった。

 プリントの整理も、忘れ物の確認も、窓の施錠も、誰にも頼まれていない。

 日直は今週、別の生徒だ。


 けれど二葉の手は止まらなかった。

 黒板消しクリーナーの吸い込みが甘くなっているのに気づいて、フィルターの端を指で叩いた。

 窓際の席に置き忘れられた消しゴムを拾い上げ、持ち主の名前を確認して、その子の席の引き出しにそっと戻した。


 誰の消しゴムかは、見なくても分かった。

 あの席に座る女子は、消しゴムにいつもキャラクターのカバーをかけている。

 先週の水曜にカバーを新しいものに替えたことも、二葉は覚えていた。


 覚えていることに、意味はない。

 ただ目に入ったものが、二葉の中で勝手に積み重なっていくだけだ。


 自分の席の隣で、椅子が半分引き出されたままになっていた。

 二葉は机の縁に合わせて、音を立てずに押し込んだ。

 【リオン】の席だ。

 椅子を戻さずに帰るのは、隣の席になってからずっと変わらない。


 教室が静かになると、さっきまで聞こえなかった音が耳に届く。

 校庭から部活の掛け声が遠く聞こえている。

 廊下の向こうで、誰かの上履きが床を擦って軋んだ。

 蛍光灯が一本だけ、かすかに瞬いている。


 二葉は窓の鍵を確認しながら、ひとつ前の休み時間のことを思い出していた。


 【リオン】が、笑っていなかった。

 笑おうとはしていた——口の端は持ち上がっていたし、声の調子も崩していなかった。

 けれど目が追いついていなかった。

 視線がときどき窓の外にふっと逸れて、呼びかけに半拍だけ遅れて戻る。

 あの癖は、先週から始まった。


 最初に気づいたのは月曜の朝だった。

 教室に入ってきた【リオン】の歩幅が、いつもより半歩短かった。

 靴箱のほうから廊下を通って二年B組のドアを開けるまでに、普段より二秒ほど遅い。

 些細なことだ。


 一花は気づかなかっただろう。

 三桜も気づかなかっただろう。

 二葉の手が、【リオン】の異変を数えるたびに少しだけ正確になる——それだけのことだった。


 窓の鍵をひとつ引いた。

 金具が硬くて、指の腹に金属の冷たさが食い込んだ。


 今日の昼休みも、二葉は教室を出た。

 理由は用事だった——実際に用事はあった。

 クラスメイトから押し付けられた届け物を職員室に持っていく、それだけの仕事を引き受けた。

 引き受けたのは、頼まれたからだ。


 頼まれたのは、二葉だったからだ。


「綾瀬さん、これお願いしていい? いつも手が早いから助かるんだよね」


 そう言われたとき、二葉は「ええ」と短く返しただけだった。


 手が早い。

 助かる。

 それ以外の言葉はなかった。


 輪の中で一緒に笑うことが、二葉には昔から難しかった。

 好きになるほど手が伸びて、伸びた分だけ人が退がっていく。

 それでいい、と決めたのは自分だ。

 だから二葉はいつも、少し離れた場所から整える側に立っている。


 教卓の上のクリアファイルを指先で整えた。

 角がまだ一ミリほどずれている気がして、もう一度揃え直した。

 揃えてから、自分の指先を見た——爪の先に、プリントの紙粉がうっすらと白く残っていた。


 職員室への用事は五分で終わった。

 渡して、受領の確認を取って、戻ってきた。

 戻る途中で、中庭を横目に見た。

 ベンチに三桜と【リオン】が並んで座っていて、篠崎さんが小走りで駆け寄ってくるのが見えた。


 足を止めなかった。

 見なかったことにしたわけではない——見て、確認して、それから同じ歩幅で歩き出しただけだ。


 三桜は【リオン】のそばにいるとき、声の高さがほんの少し変わる。

 普段より半音高くなって、語尾がふわりと跳ねる。

 あの声を聞くと、【リオン】の肩の力が少しだけ抜ける。

 そのことを二葉は知っていた。


 知っているだけだ。

 知っていて、何もしないだけだ。


 教室の後方の窓の鍵を引いた。

 最後の一つが、さっきの窓より軽く落ちた。


 プリントの束を教卓に置いたまま、二葉は教室を出た。

 職員室前で学級日誌の提出を済ませてから、その足で廊下を奥へ歩いた。

 特に理由はなかった。

 ただ教室に戻る気になれなかっただけだ。


 廊下の窓から、校門が見えた。

 七月の午後の光が、校門の門柱に長い影を落としている。

 空は雲が薄く広がっていて、日差しが白い布越しのようにぼんやりと降りていた。


 帰宅する生徒が数人、校門を通り過ぎていくのが見えた。

 部活の掛け声が校庭の向こうから聞こえて、消えた。


 その中に——ひとつだけ、異質なものが混じっていた。


 校門のすぐ外に、立っている人がいた。

 立ち止まっている。

 帰宅する生徒たちの流れの中で、一人だけ動いていなかった。


 制服が違う。

 清華高校の紺のブレザーではない。

 同じ紺色のはずなのに、仕立ても、シルエットも、どこか違っていた。


 距離がある。

 表情は読めないし、顔の造りもわからない。

 ただ、肩の下まで伸びた長い髪が、午後の曇った光の中でかすかに揺れているのが見えた。


 二葉の指が、窓枠の上で止まった。


 他校の生徒が校門の前にいること自体は、珍しくない。

 友人を迎えに来ることもあるし、近くの塾への通り道ということもある。


 ただ——あの立ち方は、通りがかりではなかった。

 鞄を身体の前で両手で抱えて、校門の方を見ている。

 待っている——というのとも少し違う。

 観察している、に近い。


 二葉の視線が窓の外に張りついたまま、指先が無意識にスカートの裾を握った。


 ——【リオン】が、おかしい。


 先週から。

 歩幅が縮んだ日から、視線の逸れ方が変わった日から。

 朝、教室に入ってくるときの顔の角度が変わった。

 弁当を食べるときの箸の動きが遅くなった。


 話しかけたときの返事は普通だった——普通すぎた。

 いつもの【リオン】なら、二葉の確認事項の多さに半分呆れた顔で『わかったよ、二葉さん』と言う。

 それが、先週から『ああ、ありがとう』に変わっていた。


 丁寧になったのではない。

 距離が開いたのだ。


 そしてあの少女が、校門の前にいる。


 繋がった——というほどの確信はなかった。

 証拠はない。

 二葉は根拠のない推測で動くことを、自分に許さない。


 けれど胸の奥——肋骨の裏側のあたりで、何かが硬く結ばれた。


 あの影と、【リオン】の変化の間には、何かがある。

 二葉の中の何かが——理屈ではなく、指先がずっと数えてきた異変の蓄積が——そう告げていた。


 【リオン】に刺さっている棘が、二葉には見えない。

 見えないものは、抜いてやることもできない。


 窓の外を見つめたまま、二葉の右手がスカートのポケットに入った。

 スマートフォンのロック画面が、薄暗い廊下で白く光った。


 打った文字は短かった。

 一花へ。

 三桜へ。


 ——今すぐ、校門に来て。


 送信ボタンを押す直前、指が一瞬だけ止まった。

 この胸騒ぎに名前をつけることは、まだ二葉にはできなかった。

 ただ確かなことが一つだけあった。


 【リオン】を揺さぶっている何かが——あそこにいる。


 送信した。

 画面が消えて、二葉の顔が薄く映り込んだ。

 その顔は、いつもと変わらないように見えた。

 口元は引き結ばれていて、眉は動いていない。


 けれど指先がまだ、わずかに震えていた。


 廊下の窓の向こうで、他校の制服の少女はまだ立っていた。

 帰宅する生徒の群れが、少女の前を横切っていく。

 誰も少女に気づかない。

 少女も、誰にも声をかけない。


 二葉は窓から視線を外した。

 教室に戻って、鞄を取る。

 教卓の上のクリアファイルが、さっき揃えた通りの角度でまっすぐ置かれているのを確認した。


 確認しなくても、ずれていないことは分かっていた。

 自分の手がやったことは、ずれない。

 そういうふうに、二葉の手はできている。


 鞄を肩にかけた。

 もう一度だけ、廊下の窓から校門の方を見た。

 他校の制服の少女は、まだ同じ場所に立っていた。


 二葉は歩き出した。

 階段を降りる足音が、がらんとした校舎に反響する。

 歩幅は変えなかった。

 ただ、変えないことに少しだけ力が要った。


 ——私が、確かめる。


 あの子が何者で、【リオン】に何をしたのか。


 昇降口のドアを押し開けた。

 七月の湿った風が、頬に触れた。

 スマートフォンが、ポケットの中で一度だけ震えた。

 返信だろう。

 確認はしなかった。


 二葉は校門へ向かって歩き始めた。

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