第67話 焦げクッキーと、三桜の肩の力
四限目が終わったとき、ノートは半分白紙のままだった。
ペンは握っていた。
けれど黒板の文字がひとつも追いかけられなかった。
昨日の放課後、篠崎と別れてから少しだけ軽くなったはずの足取りは、朝になるとまた鉛を詰め直したように重くなっていた。
一花さんの——あの笑いそこねた顔が、まだ瞼の裏に貼りついている。
昼休みのチャイムが鳴った。
教室がざわめく。
一花さんは弁当を持って「ちょっと友達んとこ行ってくるー」と手を振って出ていった。
二葉さんは「ちょっと頼まれごとがあるの」と、淡々と教室を出た。
それぞれの背中を、半分ぼんやりと見送った。
残された三桜さんは、自分の席で弁当箱を広げるでもなく、小さな紙袋を抱えてこちらを見ていた。
「……誠くん」
声が近づいてきた。
顔を上げると、三桜さんが俺の机の前に立っていた。
スカートのポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手で紙袋を差し出している。
差し出す腕がぴんと伸びていて、指先が少し震えていた。
「あの、これ。昨日の夜、焼いたの」
紙袋の口から、バターの甘い匂いがふわりと漂ってきた。
中を覗くと、不揃いな形のクッキーが詰まっている。
丸いのも四角いのもあって、焼き色にもムラがあった。
一枚だけ、妙にでかいのが混じっている。
「……ありがとう。わざわざ作ったのか?」
「うん……その、誠くん最近なんかちょっと元気なさそうだったから」
視線が泳いだ。
それからすぐに「別に深い意味じゃなくて! ちょうどクッキー作りたかっただけで!」と早口で付け足した。
声量がみるみる上がっていく。
嘘が下手だ。
三桜さんはいつもそうだった。
取り繕おうとすればするほど声が大きくなって、本音が透ける。
「……外、行かないか。教室だと暑い」
提案すると、三桜さんの目が一瞬ぱっと開いた。
それから「うん!」と勢いよく頷いて、紙袋を抱え直した。
持ち手の紙がかさりと鳴る。
中庭のベンチに並んで座った。
七月の昼の日差しが雲の切れ間から降りてきていて、木陰に入るとちょうどいい温度だった。
校庭の隅で誰かがサッカーボールを蹴っている音がして、離れた花壇のスプリンクラーが低い弧を描いている。
三桜さんがクッキーの紙袋を俺の膝の上に置いた。
「食べて食べて。形はちょっと、その、不揃いだけど」
「ちょっとどころじゃないな。これなんか、他のやつの三倍くらいあるぞ」
「ああっ、それは後で割って食べようと思ってたやつ! 見ないでーっ」
三桜さんが慌てて両手で紙袋の口を塞ごうとする。
その隙を縫って、普通サイズのクッキーを一枚取って齧った。
バターの香りと、ほんのりとした甘さが口の中に広がる。
生地がちょっと厚いところと薄いところがあって、焼き加減もまちまちだったけれど、味は素直においしかった。
不揃いなぶん、一枚ごとに食感が違う。
「……うまいよ。ちゃんとサクサクしてる」
「ほんと!?」
身を乗り出してきた。
目がきらきらしていて、反応を確かめるように両手を膝の上でぎゅっと握っている。
「甘すぎないし。お茶がなくても食べやすい」
「よかったぁ……実は砂糖の量、レシピより少し減らしてみたの。誠くん、あんまり甘いのだと途中で飽きちゃうかなって思って」
安堵したように息をついて、三桜さんはようやく肩の力を抜いた。
俺が二枚目に手を伸ばすのを見届けると、ふふっと得意げな笑みを浮かべる。
「あ、あとね」
三桜さんは自分の鞄をごそごそと漁り、小さなタッパーを取り出した。
「こっちは紅茶味。味変えたやつも持ってきたの。あと、こっちはチョコチップ入り」
もう一つ、ジップロックに入ったクッキーまで出てくる。
三種類。
一人で三種類のクッキーを焼いてきていた。
「……三桜さん、何時間かかったんだ、それ?」
「えっ?」
三桜さんの肩が、びくっと跳ねた。
タッパーを持ったまま、ぱちぱちと瞬きをする。
「え、えっと……三時間? くらい、かな?」
「……なんで疑問形なんだよ」
「さ、三時間! でもでも、別に全然大変じゃなかったから! ほら、ちょうど冷蔵庫にバターが余ってて!」
嘘だ。
三種類の生地を仕込んで、型を抜いて、焼き分けて——三時間で収まるわけがない。
三桜さんの指先を見た。
人差し指の爪の際に、薄く茶色い焼け跡がある。
天板を素手で触ったんだろう。
言わなかった。
本人が黙っていることを、わざわざ暴くこともない。
俺が黙っていると、三桜さんは慌てたように次の袋を押し出してきた。
「こ、こっちのチョコチップのほうが甘いから、疲れてるときはこっちのほうがいいかも。あとね、紅茶味はちょっと大人っぽいでしょ? 誠くん紅茶飲むかなって思って」
一つ勧めて、反応を待たずに次を引き出す。
さっきよりも手が速くなっていた。
タッパーの蓋を開け、ジップロックの封を切り、紙袋の角を整え——止まらない。
まるで手が空く瞬間が怖いみたいに、次の一手を探している。
三桜さんは俺の顔をちらちらと窺いながら、紅茶クッキーのタッパーから一枚取り出し、「これも食べて」と言いたげに俺のほうへ掲げた。
そのとき——
「三桜先輩! センパイ! ここにいた!」
中庭の角から、弾丸みたいな声と一緒に篠崎が走ってきた。
頬が赤い。
鞄も持たず、手には購買のパンだけ握っている。
走ってきた勢いのまま、ローファーが砂利を蹴って小さく滑った。
「私も混ぜてください!」
返事を待たず、三桜さんの隣にすとんと座った。
ベンチが三人でぎゅうぎゅうになる。
篠崎は身長が低いぶん、足が地面にぎりぎりしかつかなかった。
ローファーの先が砂利をかすかに引っかいている。
「……いいけど、なんで走ってきたんだ?」
「二年の教室の前を通ったら、三桜先輩が袋持って出てくのが見えたんで! これは追いかけないとって思って」
使命感が横溢していた。
篠崎にとって先輩二人がベンチにいる光景は、合流しない選択肢がそもそも存在しない事態らしい。
その鼻が、小さく動いた。
膝の上の紙袋のほうへ、首がまっすぐ向く。
「わあ、クッキーだ! 三桜先輩が作ったんですか?」
「う、うん。三種類あるの。プレーンと、紅茶と、チョコチップなんだけど」
「すごい! 私にも食べていいですか?」
「もちろん。どれでも好きなの選んで」
篠崎がプレーン味を手に取って、大きくひと口で齧った。
目を閉じて、ゆっくり噛んでいる。
それからぱっと目を開いた。
「おいしい! 三桜先輩、お菓子上手ですよね」
「えへへ、そんなことないよ。形とかバラバラだし……」
「形なんて関係ないですよ。お店のみたいに完璧なやつより、こういう手作り感あるほうが絶対おいしいです!」
篠崎は断言すると、間髪入れずに紅茶味にも手を伸ばした。
「あ、紅茶のいい匂い……んーっ! これもおいしいです! サクサクなのに、口の中でホロッてなります!」
「ほ、ほんと? 紅茶の葉っぱ、ちょっと入れすぎたかなって心配だったんだけど」
「全然! ベストバランスです! 天才の配分です!」
褒め言葉のインフレが止まる気配はなかった。
俺は思わず横から口を挟んだ。
「大げさすぎるだろ」
「大げさじゃないですよ。センパイもそう思いません?」
「まあ、うまいとは思うけど」
「ほら!」
篠崎が得意げに胸を張る。
それからチョコチップにも手を伸ばして、一枚ずつ丁寧に食べた。
そのたびに「おいしい」と嬉しそうに声に出す。
嘘がつけない人間のまっすぐな褒め方だった。
三桜さんの頬がじわじわと赤くなっていく。
口元がほころんで、隠しきれずに両手のひらで頬を押さえた。
「もう、心花ちゃんったら……あんまり褒めると、調子乗っちゃうよ」
「乗ってください! で、明日も焼いてきてください!」
「あはは、それはちょっと大変かも」
そう笑って受け流した三桜さんの視線が、ふと何かを思い出したように自分の鞄に落ちた。
「あの、もう一個あるんだけど」
三桜さんが鞄の底から、さらに小さなラッピング袋を取り出した。
リボンが結んである。
四つ目だ。
「これは、その……一番最初に焼いたやつで、ちょっと焦げちゃったから見栄え悪いんだけど」
差し出そうとした手が、途中で止まった。
指が袋の端を握ったまま、宙に浮いている。
「……やっぱり、こんなにいっぱい持ってこなくてもよかったかな」
呟くように言った。
声が小さかった。
紙袋もタッパーもジップロックも、全部広げたあとの自分の膝を見つめている。
「私、気の利いたこと言えないから。……こういうのしか、思いつかなくて」
俺が何か言う前に、篠崎が口を開いた。
「え、なんでですか?」
首を傾げていた。
心底不思議そうな顔だった。
「だって三桜先輩がいるだけで、センパイ顔が全然違うじゃないですか。さっきまで、もっと眉間のとこ、こうなってましたよ」
篠崎は自分の眉間を指で押さえて、しかめ面を作ってみせた。
それから両手をぱっと離して、自分の顔を元に戻す。
「今はもう普通の顔してますもん。クッキーもおいしいけど、三桜先輩が来てくれたのが一番効いてますよ、これ」
何でもないことのように言った。
篠崎にとっては見たままを口にしただけなのだろう。
けれどその一言は、三桜さんの足元にまっすぐ届いたらしい。
三桜さんの手が、止まった。
袋を持ったまま、ぱちぱちと瞬きをしている。
「……そう、かな?」
「そうですよ! 私が保証します」
篠崎は胸を張った。
何の権限で保証するのか不明だが、本人は完全に大真面目だった。
三桜さんが、ゆっくりとラッピング袋を膝の上に下ろした。
差し出すのをやめたわけではない——ただ、急がなくなっていた。
さっきまで止まらなかった手が、静かに膝の上で重なっている。
「……心花ちゃんは、ずるいよね」
「え? 私何かしました?」
「ううん、なんでもない」
三桜さんは少し笑った。
さっきまでの頑張っている笑顔とは違う、力の抜けた笑い方だった。
それから焦げたクッキーの袋を、今度は静かに俺の手に乗せた。
「これ、誠くんにあげる。焦げてるけど、味は一緒だから」
「ありがとう。もらうよ」
受け取ると、三桜さんはほっとしたように肩の力を抜いた。
ラッピングのリボンの端が、風に揺れて三桜さんの指先をかすめた。
「ね、三桜先輩、私のパンも食べます? 購買のメロンパンですけど」
「えっ、いいの?」
「はい! センパイの分はないですけど」
「……別にいらない」
「あはは、半分こしましょう!」
篠崎がメロンパンを真ん中からちぎった。
表面の甘い生地がぽろぽろと膝にこぼれる。
断面が斜めだったが、本人は気にしていない。
明らかに大きいほうを三桜さんに渡している。
「……篠崎、お前のほう小さいぞ」
「いいんです。私朝ごはんいっぱい食べたので」
嘘くさい。
でも篠崎はそういう嘘をつく人間だった。
自分が損をする方向の嘘だけ、やたらと上手い。
「ありがとう、心花ちゃん。じゃあ、いただきます」
「はい!」
三人でベンチに並んで、クッキーとメロンパンを食べた。
風が中庭の木の葉を揺らして、木漏れ日が三桜さんの髪に落ちる。
篠崎がメロンパンの食べかすを制服の裾から払っている。
「あ、ここ焦げてる部分」
俺に渡したのとは違う、プレーンのクッキーの端を指差して、三桜さんが苦笑いした。
「逆にレアじゃないですか?」
篠崎が目を光らせた。
「レアって……ただ失敗しただけだよ?」
「焦げ目がついてるほうが香ばしくておいしいってこともありますよ! 当たりです!」
「……心花ちゃんは何でもポジティブだね」
「センパイよりは確実に!」
「一言多いぞ」
俺がツッコミを入れると、篠崎がぺろっと舌を出して笑い、つられて三桜さんも声を出して笑った。
「お姉ちゃんたちにも持ってこうと思ってたんだけど……一花お姉ちゃんと二葉ちゃんは——」
三桜さんが言いさして、一拍だけ口を閉じた。
クッキーの袋を見下ろして、指先で角をなぞっている。
それから「まあ、あとでいっか」と笑い直した。
その一瞬が、少しだけ引っかかった。
けれど今は、聞かないことにした。
「センパイ、午後の授業がんばってくださいね! 私五限目の英語で当てられそうな予感がするんですけど」
「予感で当たるのか?」
「当たるんです。さっき廊下ですれ違ったとき、先生とバチっと目が合ったんですよ。絶対ロックオンされてます」
「それは予感じゃなくて確定だろう」
「うわ、やっぱりそうですか……英語苦手なのに……」
篠崎が両手で頬を押さえて、世界の終わりみたいな顔をした。
「単語のスペルなら、昼休みのうちに教科書見直しておけば?」
「それじゃあ今のおいしい余韻が消えちゃうじゃないですか! クッキーの記憶のまま五限目に挑みたいんです!」
「挑んで玉砕するのか」
「玉砕しません! 気合で乗り切ります!」
謎の決意を固めている篠崎の隣で、三桜さんがくすくす笑いながら「大丈夫だよ、心花ちゃん」と肩を叩いた。
「心花ちゃんなら、勘で答えても当たりそう」
「ですよね! 三桜先輩は分かってくれてる!」
篠崎が「三桜先輩は優しい……」と縋るように見上げていた。
三桜さんがその頭を、ぽんぽんと撫でる。
撫でられたほうは目を細めて、されるがままになっていた。
三姉妹の末っ子が、こういうときだけ姉の顔をする。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、遠くの校舎から聞こえた。
三人で立ち上がる。
三桜さんがクッキーの袋を集めてタッパーを鞄に戻した。
篠崎がメロンパンの袋をくしゃっと丸めてポケットに突っ込んでいる。
「じゃあ私、教室戻りますね! 三桜先輩、クッキーありがとうございました!」
「うん。また焼いてくるね」
「やった! 次はいちご味がいいです!」
「い、いちご味……? やってみる……かも」
篠崎が手を振って、一年棟のほうへ駆けていった。
小柄な背中がすぐに校舎の角に消える。
三桜さんと並んで、教室へ向かって歩き出した。
「三桜さん」
「ん?」
「クッキー、うまかった。ありがとう」
「……えへへ。よかった」
三桜さんは、さっきまでの焦った顔とは違う、穏やかな笑い方をしていた。
目尻が下がって、口元がゆるんでいる。
ようやくそれが、見られた気がした。
廊下に入ると、ぬるい風が窓から抜けていった。
ポケットの中のラッピング袋の角が、指先に当たる。
焦げたクッキーの、少しだけ苦い匂い。
朝からずっと重かった胸の底が、ほんの少しだけ温かくなっていた。
教室のドアを開ける。
午後の光が、窓から静かに差し込んでいた。
——けれど胸のどこかで、拭いきれない影が、まだ薄く揺れている気がした。




