第66話 放課後の犬系後輩、いつもの距離
午後の授業が、ほとんど頭に入らなかった。
ノートに引いた線が途中で曲がっている。
二限目に気づいて直したのに、三限目にまた曲がった。
黒板の字を写しているはずの手が、ときどき勝手に止まる。
瞼の裏に、朝の光景がまだ貼りついていた。
振り払った手のひら。
一瞬だけ剥がれた笑み。
笑い方を間違えたような不器用さ。
一花さんはすぐに冗談で覆い隠したけれど、あのコンマ数秒の空白だけは、いつまでも目の裏から剥がれなかった。
終業のチャイムが鳴った。
周りが鞄を引き出す音で教室がざわめく。
一花さんの席は、もう空だった。
二葉さんも三桜さんも、それぞれ用事があるらしく先に出ていた。
正直、助かった。
今日は誰の顔もまっすぐ見られる気がしなかった。
昇降口で靴を履き替えて、校門へ向かう。
七月の放課後の空気は朝よりもぬるく、雲の切れ間から西日が細く差していた。
渡り廊下の手すりにオレンジ色の光が乗っている。
どこかの教室から吹奏楽の音が聞こえた。
トランペットの間延びしたフレーズが、夕方の空に溶けていく。
足元だけ見て歩いていたら——背中に、弾丸みたいな声が飛んできた。
「センパイ!」
振り向くと、小柄な影が校舎の角から駆けてくる。
篠崎だった。
鞄を肩にかけ直しながら階段を二段飛ばしで降りてきて、スカートの裾が翻る。
着地でローファーが高く鳴った。
「やっと捕まえた! 今日、帰り一緒でいいですか?」
ぜえぜえと肩で息をしている。
身長が俺の顎にも届かないから、思い切り見上げる格好になっていた。
額にうっすら汗が光っている。
前髪が少し乱れていて、それを指で直す仕草がどこか犬の毛繕いに似ていた。
「……走ってきたのか?」
「走りましたよ! センパイ足速いんですもん」
嘘だ。
俺はほとんど足を引きずるように歩いていた。
篠崎がそれを知らないはずはない。
知っていて、何も言わなかった。
「今日は私が見送り担当なので」
見送り担当。
そんな役職は存在しない。
「そんな係、いつからできたんだ」
「たった今です。私の脳内で、満場一致で可決されました。異議は認められません!」
びしっと背筋を伸ばして、宣言するように言った。
篠崎は自分で勝手に役を作って、勝手に引き受けるところがある。
しかも本人は大真面目だから始末が悪い。
「……別にいいけど」
「やった!」
ぱっと顔が明るくなった。
太陽が一個増えたみたいだった。
それは冗談でも比喩でもなく、校門の影から急に日向に踏み出したような明るさの切り替わりだった。
「あ、もちろん無給で大丈夫ですよ」
「給料が出る前提だったのか」
並んで校門を出る。
俺の歩幅に合わせて、篠崎が半歩分多く足を動かしている。
ローファーの踵が小さくコンクリートを叩く音が、一定のリズムで鳴っていた。
朝と同じ通学路なのに、隣にいる人間が変わるだけで空気がまるで違った。
朝はあんなに息苦しかった道が、今はただの帰り道に戻っている。
「あのですね、今日の昼休み、大事件があったんですよ」
「大事件?」
「購買で最後のメロンパンをゲットしたんですよ。前の授業が長引いて、着いたときにはもう棚に一個しか残ってなくて」
「よく買えたな、それ」
「私、背が低いので。人と人の隙間をこう、すーっと」
人混みを掻き分ける仕草を、宙で小さくやった。
小柄なぶんだけ動きが素早い。
あの混雑では、確かに有利かもしれない。
「後ろで三年生っぽい人が『おのれ』みたいな顔してましたけど、パンは美味しかったので私の勝ちです」
「……勝ち負けの話だったのか」
「購買は戦場ですから」
真顔だった。
「で、走って戻る途中で転んじゃって」
「大丈夫だったのか?」
「メロンパンは無事でした! 膝は擦りました」
順番が逆だろう、と思ったが、篠崎はそういう人間だった。
自分の怪我より食べ物の安否を先に報告する。
両手を広げて着地の様子を再現してみせるから、鞄がずり落ちて慌てて肩に戻している。
「見てくださいこれ、まだちょっと赤いんですよ」
立ち止まって、スカートの裾をほんの少しだけ持ち上げて膝小僧を見せてきた。
確かに薄い擦り傷の跡があった。
絆創膏も貼らずに放置しているあたりが篠崎らしい。
「絆創膏、貼ったほうがいいんじゃないか」
「もう乾いたから大丈夫です! それよりメロンパンのほうが心配でした。あれ落としたら午後のエネルギー源が消えるところでしたから」
「そんなに大事なメロンパンなのか?」
「大事ですよ! 購買のメロンパン、中にホイップクリーム入ってるんです。潰れたら大惨事じゃないですか」
大袈裟に両手を振って力説する。
「でも、転んだってことは、少しは潰れたんじゃないのか?」
「あ……」
図星だったのか、篠崎の動きがぴたりと止まった。
「一口目が、クリームじゃなくてただのパンの味しか……しませんでした」
「……ご愁傷様」
「笑わないでくださいよー!」
食べ物に対する執念がすごい。
だが、その執念のぶんだけ篠崎の声には勢いがあった。
膝は擦っても、クリームが偏っても、メロンパンは守り抜いた。
そこに一切の迷いがない。
「あと、英語の小テストでネセサリーのスペル間違えちゃいまして。cとsの順番が毎回わかんなくなるんです。あの単語、絶対意地悪ですよ」
「まあ、あれは覚えにくいよな」
「一応、自分でも覚え方は作ったんですよ。『ネコがセーターを着て、サリーちゃんとお出かけ』」
「……長いな」
「そうなんです! ちゃんと物語になってるんですよ」
指を折りながら、もう一度その物語を唱え直す。
ネコが、セーターを着て、サリーちゃんと。
「で、cとsはどこに入ってるんだ?」
「……」
「入ってないだろ」
「入ってないですね……」
がくりと肩が落ちた。
音の並びだけ覚えて、肝心の綴りがすっぽ抜けている。
「センパイは書けるんですか?」
「たぶん」
「えっ、本当ですか? なんか語呂合わせとかあるんですか?」
「シャツの襟(c)は一つで、袖(s)は二つ、とか」
篠崎が首をかしげた。
眉が困ったふうに寄って、指先が宙で何かをつまむような形で止まっている。
「……えり?」
「cが襟で、sが袖。襟は一つで袖は二つだから、cが一つでsが二つ」
「なるほど! 天才ですね!」
ぱちんと手を叩いて、尊敬のまなざしを向けてくる。
そんな大層なことじゃない。
俺も昔、誰かに教わっただけの覚え方だ。
「じゃあ今度、他の単語も教えてください。約束ですからね」
約束、と当たり前のように言う。
篠崎にとって、こういう何でもない口約束は全部本気だ。
たぶん明日にでも『あの約束!』と突っ込んでくる。
「あとですね、古典の先生が新しい口癖を開発したんですよ。何を説明しても最後に『——ま、テストに出ますけどね』って付けるようになったんです」
「それは前からじゃないのか?」
「いえ、今日からです! 今日だけで三回言ってたので、たぶん本人も気に入ったんだと思います」
篠崎は先生のしかめ面を真似て見せた。
眉間に皺を寄せて、人差し指を立てて、わざとらしく重々しい声を出す。
似ていないのに妙に雰囲気だけは掴んでいて、不覚にも口の端が動いた。
「どうですか? 似てますか?」
「……まあ、眉間の皺の感じは」
「でしょ! ちなみに前までは『えー、ここは重要ですね』だったんですよ。それも三回言ってました」
「数えてるのか?」
「はい! 正の字書いてます。授業のいい暇つぶしになるんですよねー」
得意げに言うことではない気がするが、楽しそうだから口を挟まなかった。
交差点の信号待ちで、篠崎が自販機の前にしゃがんだ。
「あ、新しいの入ってる。桃ソーダですって」
「飲むのか?」
「うーん……」
ペットボトルのラベルを指でなぞりながら読み上げて、小銭入れを覗いて、しばらく硬貨を一枚ずつ指で弾いて数える。
「十円、足りないですね……」
「貸そうか?」
「いえ、ダメです。お金の貸し借りは友情にひびが入りますから」
「そんな重いものなのか?」
「重いですよー。だから、今日は諦めます」
結局買わなかった。
立ち上がったときに少し名残惜しそうな目をしていた。
あの目は『今日はやめておく』ではなく『明日こそ買う』の目だった。
「センパイ、今日なんか静かですね」
ぽつりと言われた。
「……そうか?」
「そうですよ。いつもはもうちょっとツッコんでくれるのに」
一拍置いて、篠崎は自分で『あ、でもそういう日もありますよね』と答えを出した。
何があったのか聞かなかった。
無理に笑ってみせろとも言わなかった。
踏み込むでもなく引くでもなく、ただ受け取って棚に置いた。
それだけだった。
半拍の沈黙のあと、また別の話を始めた。
「あのですね、私のクラスに犬飼ってる子がいるんですけど。トイプードルの黒い子で、名前がごまちゃんっていうんです」
「ごまちゃん」
「めちゃくちゃかわいいんですよ。写真見ます?」
スマホを突き出してくる。
画面いっぱいに、毛が目にかかったトイプードルが映っていた。
赤い首輪をつけて、こちらを見上げている。
小さな鼻が湿って光っているのまで写真越しにわかった。
「……かわいいな」
「でしょう! この子ですね、お手もおかわりもできるんですけど、ハイタッチだけ絶対覚えないらしいんですよ」
「ハイタッチ?」
「前足をぱちんって合わせるやつです。お手はやるのにハイタッチだけしないんですって。自分の意思がすごいんです」
「無理にやらせようとするとどうなるんだ?」
「『キャン!』って短い声で怒るらしいです。その鳴き声も可愛いんですよねー」
鼻に皺を寄せて、子犬が怒る真似をする。
「……それは篠崎が怒ってるみたいだけど」
「ええー、ちゃんと犬の顔したつもりなんですけどね」
声が弾んでいた。
他人の犬の話を、まるで自分の家族みたいに嬉しそうにする。
隣を歩いている俺に聞かせたくてたまらない、という顔だった。
「私も飼いたいんですけど、うちマンションなので」
「ペット禁止なのか?」
「はい。大家さんが結構厳しい人みたいで。だから、いつか一人暮らしになったら絶対飼うって決めてるんです。黒い子がいいな」
遠い未来の話を、篠崎は今日の天気みたいに自然に語る。
さっき俺の沈みを一瞬だけ見たはずなのに、もうその痕跡がない。
深入りしない。
追及しない。
ただ、自分のリズムで喋り続ける。
励ましてやろうという気負いもなく、空元気で場を持たせているわけでもなく——ただ、篠崎がいつも通りの篠崎でいるだけだった。
それが、ありがたかった。
朝からずっと胸の底に沈んでいた重さは、消えてはいない。
一花さんの、あの笑いそこねた顔は、まだ目の裏にある。
けれど篠崎の声を聞いているうちに、肩にのしかかっていた何かが少しだけ軽くなっていた。
笑おうとしなくても、口の端が勝手に動く。
気がつけば、足元ばかり見ていた視線がいつの間にか前を向いていた。
「あ。センパイ、笑ってる」
隣から、顔を覗かせるようにして見上げられた。
「……そんなに珍しいか」
「珍しいです。今日、ずっと難しい顔してましたから」
やっぱり見られていた。
見ていて、それでも何も聞かなかったということだ。
「笑ってくれてよかったです」
それだけ言って、篠崎はまた前を向いた。
駅前のロータリーまで来た。
ここで篠崎は反対側の改札へ、俺は家の方面のホームへと分かれる。
「じゃあ、私こっちなので」
くるりと振り返った篠崎の顔を、夕日がオレンジ色に染めていた。
風が前髪をさらって、まっすぐな目がむき出しになる。
「センパイ」
「ん?」
「センパイが元気ないと、私も元気出ないんで」
俺のためというより、自分のために言っているみたいだった。
「だから、帰ったら何かあったかいもの食べてくださいね。空きっ腹のまま寝ると、明日もっとしんどくなりますから」
真剣な顔だった。
冗談でも気遣いの定型句でもない、まっすぐで迷いのない目。
なんでそんなことまで心配するんだろうと思ったけれど、それが篠崎だった。
「……ああ。食べるよ」
「本当に? コンビニのパンだけとかダメですよ?」
「分かってる。ちゃんと食べる」
「約束ですよ!」
人差し指を突き出して、念を押すように振ってみせた。
きゅっと引き結んだ唇が、次の瞬間にはもう笑っていた。
また、約束。
今日だけで二つ目だ。
英語のスペルと、晩ごはん。
篠崎の約束は重さを伴わない。
誰かを縛ったり、見返りを求めたりするものではない。
ただまっすぐで、温かかった。
「じゃあ、また明日!」
手を大きく振って、駆け出した。
小柄な背中が夕日の中に小さくなっていく。
歩幅が短いから、駆けているのにどこかのんびりして見えた。
鞄が背中でぱたぱたと跳ねている。
途中で一度だけ振り返って、もう一回手を振った。
そのまま反対側の改札の人混みに紛れて、見えなくなった。
立ち止まって、その背中を見送った。
「……ちゃんと飯食え、か」
口の中で、もう一度だけ繰り返してみる。
朝の重さは、消えてはいない。
一花さんの、あの笑いそこねた顔は、まだ瞼の裏にある。
けれど——足が、さっきより少しだけ軽かった。
鞄を握り直して、家に向かう電車のホームへ歩き出した。
夕暮れの風がぬるく吹いて、シャツの裾をかすかに揺らした。
篠崎の声が、まだ耳の奥で少しだけ鳴っている気がした。




