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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第65話 振り払った手、笑い方を間違えた朝

朝は、結局来てしまった。


 何時間眠れたのかわからない。

 目を閉じるたびに少女の声と三人の顔が交互に浮かんで、枕に頭を押しつけても消えなかった。

 五時半のアラームが鳴ったとき、天井がうっすらと白くなっていて——ああ、夜が明けたのかと、ただそれだけ思った。


 顔を洗っても頭の中は変わらなかった。

 鏡に映った自分の顔は、目の下に薄い影を落としている。

 昨日の放課後、公園で少女が並べてみせた一字一句違わない言葉と、嘘には見えなかった三人の温度が、交互に再生される。

 どちらかが嘘だと言い切れたら、まだ楽だった。

 どちらが嘘なのか——その答えは昨夜のうちにも出なかったし、冷たい水を顔に浴びても出なかった。


 朝食のトーストを一口かじったが、味がしなかった。

 噛むたびにぱさぱさと乾いた音だけが口の中に響いて、喉を通っていかない。

 牛乳を一杯だけ流し込んで、カバンを掴んだ。


 玄関を出ると、七月の朝の湿った空気が肌に張りついた。

 日差しはもう低くなくて、住宅街の塀越しに紫陽花が色を深めている。

 最寄り駅から乗り込んだ電車は、いつもの朝の混み具合だった。

 吊り革に掴まって窓の外を眺めても、流れていく景色は頭に入ってこなかった。


 学校の最寄り駅で降りて、改札を抜ける。

 駅前のロータリーの隅、街路樹の影に、見覚えのある茶色い巻き髪が目に入った。


 柱にもたれてスマホをいじっていた一花さんが、こちらに気づいて顔を上げた。


「おっそ。あと三十秒で置いてくとこだったよ」


 今日の朝は一花さんの当番だ。

 三姉妹の間で、誰が朝、駅まで俺を迎えに出るかを決める抽選——本人たちは大真面目に順番を争っているらしい——で、今朝は一花さんが引き当てた。

 二葉さんと三桜さんは先に学校へ向かったらしい。


「せっかくあたしが当番引き当てたんだからさ。もうちょっと早く来てくれないと、待ちくたびれちゃうじゃん。二葉と三桜なんて、今ごろ歯ぎしりしてるはずなんだから」


「……おはよう、一花さん」


「おはよ。ちょっと、顔死んでない?」


 すぐに距離を詰めてきた。

 覗き込むように、下から俺の顔を見上げる。

 肩のあたりに、いつもの軽い重みがぶつかってくる。


 いつもの匂い。

 いつもの軽さ。

 なのに、今朝はどれもガラス一枚向こうのように遠かった。


「寝不足なだけだよ」


「夜更かし? 目の下すごいよ」


 一花さんの指が俺の目の下に伸びかけて、すんでのところで止まった。

 爪先が、頬の産毛に触れるか触れないかの距離で宙に浮いている。

 目を細めて、品定めするようにこちらを見てくる。


「昨日、夜中まで起きてたっしょ。顔死んでるもん」


「……まあ、ちょっと」


「ちょっとじゃない顔してるけど? 歩きながら寝ないでよね」


「寝ないよ。……たぶん」


 嘘ではない。

 ただ、眠れなかった理由を説明する言葉は持っていなかった。


「……あ、わかった。あたしのこと考えすぎて眠れなかったんでしょ」


「違うよ」


「そこ、一秒で否定するとこじゃないっしょ」


 一花さんは小さく肩をすくめて、それ以上は突っ込まなかった。

 肩を並べて歩き始める。

 朝の光が路面に白く跳ねている。

 電柱の影が短く、どこかで蝉の前触れのような虫の声がした。


「ねぇ、誠」


「ん?」


「もうすぐ蝉、鳴き始めるね」


「……たぶん」


「梅雨の終わりって、いつもだるいよね」


「……そうかも」


 一花さんが、ほんの少しだけ言葉を切った。

 こちらの反応の薄さに、話題を探し直しているような間だった。


「ねー、誠。今日の放課後さ——」


 一花さんが何か言っている。

 聞こえてはいた。

 けれど言葉の意味が、頭の中をすり抜けていく。


 ——私が、あなたの本当のルナだから。


 昨日の少女の声が、また鳴った。

 完璧な微笑みと、一字も違わないチャットログの再現。

 あの言葉を知っている人間は、俺とルナしかいないはずだった。

 ——なのに、あの少女が知っていた。


 胸の底に、何か冷たいものが沈んでいくのがわかった。

 あの夜中に打った弱音も、ルナが返してくれた温もりも、二人だけのものだったはずだ。

 その記憶の外側に、知らない誰かが立っていた。


「——誠ってば」


 肘でつつかれて、意識が戻った。


「聞いてた?」


「ごめん。なんだっけ?」


「もー、聞いてないでしょ。だから、放課後どうするかって話」


 一花さんが頬を膨らませた。

 わざとらしいくらい、いつもの不満顔。

 だけど目の端に、ほんのわずかな探りがあった。

 俺の反応が鈍いことに、もう気づいている。


「駅前にできた新しいカフェで、フラペチーノでもどう? 二人には内緒でさ」


「放課後は……まだ考えてない」


「じゃあ、あたしが決めてあげる。帰り道、寄り道つき」


 言いながら、一花さんがすっと距離を詰めた。


「ほら、そんな顔してる日くらい、大人しくあたしに任せなよ」


 腕を絡めようとしてくる。


「……それに、こうしてないと、あたしが落ち着かないんだけど」


 制服の袖越しに、一花さんの腕の温度が触れかけた。


 ——あの三人はそれぞれ、自分の言葉で、自分の温度で、俺に近づいてきた。


 昨夜、布団の中で何度も反芻した考えが、ひとりでに蘇った。

 嘘には見えなかった——はずだ。

 はずだ、と繰り返すたびに、足元がすこしずつ抜けていく。

 信じたいのに、あの少女の見せた証拠が、信じることを許してくれない。


 一花さんの腕が触れた。

 袖越しの、柔らかくて温かい圧。

 いつもなら——顔が熱くなって、視線の逃がし場所を探して、それでも困りながら絡めさせていた。

 振り解くなんて、一度もしたことがなかった。


 なのに——反射的に、手を振り払っていた。


 ——あ。


 自分で自分の動きに驚いた。

 止めようと思ったときにはもう遅かった。

 振り解いた手が宙に浮いて、行き場を失ったまま落ちた。


 一花さんが、立ち止まっていた。


 見上げてきた目が、一瞬だけ大きく開いた。

 唇に貼りつけていた笑みが剥がれて、下に何もない顔が覗いた。

 まるで予期しなかった言葉を聞いたときのような——空白。

 その目の奥が、ほんの一拍だけ、ただ剥き出しになった。


 怒りじゃなかった。

 呆れでもなかった。

 もっと柔らかくて、もっと簡単に壊れるもの。

 それが何なのか見極める前に、一花さんの顔がまた動いた。


「——あはは、なにそれ。あたし今日、香水つけすぎた?」


 声が明るかった。

 いつもの軽いトーンだった。

 けれど、立ち上がりが一拍だけ遅かった。

 笑顔を作り直す間——コンマ数秒の遅れを、見てしまった。


「いや——違う。ごめん、ぼーっとしてた」


「へぇ。じゃあぼーっとしながら人の手振り払うんだ。新しい才能じゃん」


「いや……ごめん」


「もしかして、あたしの手、汗かいてたとか?」


「そんなんじゃないよ」


「ふーん。まあ、別にいいけど」


 茶化す声は完璧だった。

 腕を引っ込めて、何事もなかったように歩き出す。

 歩幅が少しだけ広がっていた。

 さっきまでゼロに近かった距離に、半歩の隙間ができた。


 喉の奥が、苦かった。


 何か言わなければと思った。

 けれど出てきた言葉は、ひどく間の抜けたものだった。


「……今日、暑くなるかな?」


「さあね。てかさ、話の戻し方が雑すぎない?」


「そうかな?」


「そうだよ」


 一花さんが軽く肩を揺すった。

 半歩先の肩幅が、こちらの視界の端でぶれる。


「……ちゃんと朝ごはん食べてきた?」


「まあ、一応」


「ふうん。……夏バテしそうな顔してるからさ、今夜はちゃんと食べなよ」


「……うん」


 一花さんが短く笑った。

 笑い声に棘はなかった。

 何事もなかったことにしようとしてくれている。

 その気遣いが、余計に喉に刺さった。


 一花さんは何も悪くない。

 いつもと同じように、いつもの距離で、いつもの軽口で近づいてきただけだ。

 なのに俺は——今、目の前のこの人を疑っている。

 完璧な言葉を並べた少女の影を、この人の笑顔の裏に探そうとしている。


 ただ朝の通学路で、隣を歩いてくれていただけなのに。


 罪悪感が、胸の底にじわりと滲んだ。

 さっき振り払った手のひらに、まだ一花さんの腕の温度が残っていた。

 その温度がじんじんと染み込むように、指の先でくすぶっている。


 それが余計に、きつかった。


 坂を上りきると、校門が見えてきた。

 朝の日差しが校舎のガラスに反射して、白く光っている。

 しばらく、どちらも黙って歩いた。


 すれ違う生徒の話し声が、やけに遠くに聞こえた。

 一花さんは隣にいた。

 半歩だけ空いた距離は、さっきから変わっていない。

 埋めようとする気配もなければ、広げようとする気配もなかった。


「そういえば、もうすぐ夏休みだね」


「……ああ」


「誠って、夏休みの宿題もう始めてる? あたし全然手つけてないんだけど」


「……まだ」


 一花さんが小さく笑った。

 弱ったな、というより、共犯めいた笑い方だった。


「じゃあ、カフェはまた今度でいいや。放課後、一緒にやろうよ。数学だけでもさ」


「……うん、いいよ」


「ありがと。助かるー」


 一花さんはスマホをいじるふりをしていた。

 前髪で表情が隠れていた。

 画面が点いていないことに、俺だけが気づいていた。


 門の前で、一花さんが立ち止まった。

 こちらを見ないまま、ぽつりと言った。


「……ま、何かあったら言いなよ」


 軽い声だった。

 まるで、さっきの半歩の距離なんて最初からなかったみたいに。


「あたし、意外と口堅いからさ」


 一花さんが、ちらりとだけこちらを見た。

 ほんの一瞬。

 その目は笑っていたけれど、笑い方を間違えたような不器用さがあった。

 すぐに視線を逸らして、鞄の肩紐を握り直した。


 それだけ言って、振り返りもせずに昇降口の方へ歩いていった。

 巻き髪が朝の光を受けて揺れた。

 歩幅は戻っていた。

 さっきの半歩の隙間は、もうどこにもなかった。


 追いかけて何か言うべきだった。

 ごめん、の一言でもよかった。

 なのに喉は動かなかった。


 さっき一花さんの顔から剥がれた、あの一瞬の空白が、まだ目の裏に貼りついている。

 あんな顔をさせたのは、俺だ。

 あの空白の下に何があったのか——一花さんは教えてくれなかった。

 笑って隠した。

 いつもそうやって、軽さで全部覆い隠してしまう。


 朝の校舎は、もう人の声でざわめき始めていた。

 一花さんの背中が人波に紛れて見えなくなった。


 放課後に一緒にやろう、と俺はさっき頷いたばかりだった。

 たった数時間先の話なのに、ひどく遠かった。


 手のひらを見下ろした。

 柑橘の香りの残りかすが、指の付け根にまだわずかに残っている気がした。


 ——このあと教室で、一花さんの顔をまっすぐ見られる自信が、なかった。

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