第65話 振り払った手、笑い方を間違えた朝
朝は、結局来てしまった。
何時間眠れたのかわからない。
目を閉じるたびに少女の声と三人の顔が交互に浮かんで、枕に頭を押しつけても消えなかった。
五時半のアラームが鳴ったとき、天井がうっすらと白くなっていて——ああ、夜が明けたのかと、ただそれだけ思った。
顔を洗っても頭の中は変わらなかった。
鏡に映った自分の顔は、目の下に薄い影を落としている。
昨日の放課後、公園で少女が並べてみせた一字一句違わない言葉と、嘘には見えなかった三人の温度が、交互に再生される。
どちらかが嘘だと言い切れたら、まだ楽だった。
どちらが嘘なのか——その答えは昨夜のうちにも出なかったし、冷たい水を顔に浴びても出なかった。
朝食のトーストを一口かじったが、味がしなかった。
噛むたびにぱさぱさと乾いた音だけが口の中に響いて、喉を通っていかない。
牛乳を一杯だけ流し込んで、カバンを掴んだ。
玄関を出ると、七月の朝の湿った空気が肌に張りついた。
日差しはもう低くなくて、住宅街の塀越しに紫陽花が色を深めている。
最寄り駅から乗り込んだ電車は、いつもの朝の混み具合だった。
吊り革に掴まって窓の外を眺めても、流れていく景色は頭に入ってこなかった。
学校の最寄り駅で降りて、改札を抜ける。
駅前のロータリーの隅、街路樹の影に、見覚えのある茶色い巻き髪が目に入った。
柱にもたれてスマホをいじっていた一花さんが、こちらに気づいて顔を上げた。
「おっそ。あと三十秒で置いてくとこだったよ」
今日の朝は一花さんの当番だ。
三姉妹の間で、誰が朝、駅まで俺を迎えに出るかを決める抽選——本人たちは大真面目に順番を争っているらしい——で、今朝は一花さんが引き当てた。
二葉さんと三桜さんは先に学校へ向かったらしい。
「せっかくあたしが当番引き当てたんだからさ。もうちょっと早く来てくれないと、待ちくたびれちゃうじゃん。二葉と三桜なんて、今ごろ歯ぎしりしてるはずなんだから」
「……おはよう、一花さん」
「おはよ。ちょっと、顔死んでない?」
すぐに距離を詰めてきた。
覗き込むように、下から俺の顔を見上げる。
肩のあたりに、いつもの軽い重みがぶつかってくる。
いつもの匂い。
いつもの軽さ。
なのに、今朝はどれもガラス一枚向こうのように遠かった。
「寝不足なだけだよ」
「夜更かし? 目の下すごいよ」
一花さんの指が俺の目の下に伸びかけて、すんでのところで止まった。
爪先が、頬の産毛に触れるか触れないかの距離で宙に浮いている。
目を細めて、品定めするようにこちらを見てくる。
「昨日、夜中まで起きてたっしょ。顔死んでるもん」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっとじゃない顔してるけど? 歩きながら寝ないでよね」
「寝ないよ。……たぶん」
嘘ではない。
ただ、眠れなかった理由を説明する言葉は持っていなかった。
「……あ、わかった。あたしのこと考えすぎて眠れなかったんでしょ」
「違うよ」
「そこ、一秒で否定するとこじゃないっしょ」
一花さんは小さく肩をすくめて、それ以上は突っ込まなかった。
肩を並べて歩き始める。
朝の光が路面に白く跳ねている。
電柱の影が短く、どこかで蝉の前触れのような虫の声がした。
「ねぇ、誠」
「ん?」
「もうすぐ蝉、鳴き始めるね」
「……たぶん」
「梅雨の終わりって、いつもだるいよね」
「……そうかも」
一花さんが、ほんの少しだけ言葉を切った。
こちらの反応の薄さに、話題を探し直しているような間だった。
「ねー、誠。今日の放課後さ——」
一花さんが何か言っている。
聞こえてはいた。
けれど言葉の意味が、頭の中をすり抜けていく。
——私が、あなたの本当のルナだから。
昨日の少女の声が、また鳴った。
完璧な微笑みと、一字も違わないチャットログの再現。
あの言葉を知っている人間は、俺とルナしかいないはずだった。
——なのに、あの少女が知っていた。
胸の底に、何か冷たいものが沈んでいくのがわかった。
あの夜中に打った弱音も、ルナが返してくれた温もりも、二人だけのものだったはずだ。
その記憶の外側に、知らない誰かが立っていた。
「——誠ってば」
肘でつつかれて、意識が戻った。
「聞いてた?」
「ごめん。なんだっけ?」
「もー、聞いてないでしょ。だから、放課後どうするかって話」
一花さんが頬を膨らませた。
わざとらしいくらい、いつもの不満顔。
だけど目の端に、ほんのわずかな探りがあった。
俺の反応が鈍いことに、もう気づいている。
「駅前にできた新しいカフェで、フラペチーノでもどう? 二人には内緒でさ」
「放課後は……まだ考えてない」
「じゃあ、あたしが決めてあげる。帰り道、寄り道つき」
言いながら、一花さんがすっと距離を詰めた。
「ほら、そんな顔してる日くらい、大人しくあたしに任せなよ」
腕を絡めようとしてくる。
「……それに、こうしてないと、あたしが落ち着かないんだけど」
制服の袖越しに、一花さんの腕の温度が触れかけた。
——あの三人はそれぞれ、自分の言葉で、自分の温度で、俺に近づいてきた。
昨夜、布団の中で何度も反芻した考えが、ひとりでに蘇った。
嘘には見えなかった——はずだ。
はずだ、と繰り返すたびに、足元がすこしずつ抜けていく。
信じたいのに、あの少女の見せた証拠が、信じることを許してくれない。
一花さんの腕が触れた。
袖越しの、柔らかくて温かい圧。
いつもなら——顔が熱くなって、視線の逃がし場所を探して、それでも困りながら絡めさせていた。
振り解くなんて、一度もしたことがなかった。
なのに——反射的に、手を振り払っていた。
——あ。
自分で自分の動きに驚いた。
止めようと思ったときにはもう遅かった。
振り解いた手が宙に浮いて、行き場を失ったまま落ちた。
一花さんが、立ち止まっていた。
見上げてきた目が、一瞬だけ大きく開いた。
唇に貼りつけていた笑みが剥がれて、下に何もない顔が覗いた。
まるで予期しなかった言葉を聞いたときのような——空白。
その目の奥が、ほんの一拍だけ、ただ剥き出しになった。
怒りじゃなかった。
呆れでもなかった。
もっと柔らかくて、もっと簡単に壊れるもの。
それが何なのか見極める前に、一花さんの顔がまた動いた。
「——あはは、なにそれ。あたし今日、香水つけすぎた?」
声が明るかった。
いつもの軽いトーンだった。
けれど、立ち上がりが一拍だけ遅かった。
笑顔を作り直す間——コンマ数秒の遅れを、見てしまった。
「いや——違う。ごめん、ぼーっとしてた」
「へぇ。じゃあぼーっとしながら人の手振り払うんだ。新しい才能じゃん」
「いや……ごめん」
「もしかして、あたしの手、汗かいてたとか?」
「そんなんじゃないよ」
「ふーん。まあ、別にいいけど」
茶化す声は完璧だった。
腕を引っ込めて、何事もなかったように歩き出す。
歩幅が少しだけ広がっていた。
さっきまでゼロに近かった距離に、半歩の隙間ができた。
喉の奥が、苦かった。
何か言わなければと思った。
けれど出てきた言葉は、ひどく間の抜けたものだった。
「……今日、暑くなるかな?」
「さあね。てかさ、話の戻し方が雑すぎない?」
「そうかな?」
「そうだよ」
一花さんが軽く肩を揺すった。
半歩先の肩幅が、こちらの視界の端でぶれる。
「……ちゃんと朝ごはん食べてきた?」
「まあ、一応」
「ふうん。……夏バテしそうな顔してるからさ、今夜はちゃんと食べなよ」
「……うん」
一花さんが短く笑った。
笑い声に棘はなかった。
何事もなかったことにしようとしてくれている。
その気遣いが、余計に喉に刺さった。
一花さんは何も悪くない。
いつもと同じように、いつもの距離で、いつもの軽口で近づいてきただけだ。
なのに俺は——今、目の前のこの人を疑っている。
完璧な言葉を並べた少女の影を、この人の笑顔の裏に探そうとしている。
ただ朝の通学路で、隣を歩いてくれていただけなのに。
罪悪感が、胸の底にじわりと滲んだ。
さっき振り払った手のひらに、まだ一花さんの腕の温度が残っていた。
その温度がじんじんと染み込むように、指の先でくすぶっている。
それが余計に、きつかった。
坂を上りきると、校門が見えてきた。
朝の日差しが校舎のガラスに反射して、白く光っている。
しばらく、どちらも黙って歩いた。
すれ違う生徒の話し声が、やけに遠くに聞こえた。
一花さんは隣にいた。
半歩だけ空いた距離は、さっきから変わっていない。
埋めようとする気配もなければ、広げようとする気配もなかった。
「そういえば、もうすぐ夏休みだね」
「……ああ」
「誠って、夏休みの宿題もう始めてる? あたし全然手つけてないんだけど」
「……まだ」
一花さんが小さく笑った。
弱ったな、というより、共犯めいた笑い方だった。
「じゃあ、カフェはまた今度でいいや。放課後、一緒にやろうよ。数学だけでもさ」
「……うん、いいよ」
「ありがと。助かるー」
一花さんはスマホをいじるふりをしていた。
前髪で表情が隠れていた。
画面が点いていないことに、俺だけが気づいていた。
門の前で、一花さんが立ち止まった。
こちらを見ないまま、ぽつりと言った。
「……ま、何かあったら言いなよ」
軽い声だった。
まるで、さっきの半歩の距離なんて最初からなかったみたいに。
「あたし、意外と口堅いからさ」
一花さんが、ちらりとだけこちらを見た。
ほんの一瞬。
その目は笑っていたけれど、笑い方を間違えたような不器用さがあった。
すぐに視線を逸らして、鞄の肩紐を握り直した。
それだけ言って、振り返りもせずに昇降口の方へ歩いていった。
巻き髪が朝の光を受けて揺れた。
歩幅は戻っていた。
さっきの半歩の隙間は、もうどこにもなかった。
追いかけて何か言うべきだった。
ごめん、の一言でもよかった。
なのに喉は動かなかった。
さっき一花さんの顔から剥がれた、あの一瞬の空白が、まだ目の裏に貼りついている。
あんな顔をさせたのは、俺だ。
あの空白の下に何があったのか——一花さんは教えてくれなかった。
笑って隠した。
いつもそうやって、軽さで全部覆い隠してしまう。
朝の校舎は、もう人の声でざわめき始めていた。
一花さんの背中が人波に紛れて見えなくなった。
放課後に一緒にやろう、と俺はさっき頷いたばかりだった。
たった数時間先の話なのに、ひどく遠かった。
手のひらを見下ろした。
柑橘の香りの残りかすが、指の付け根にまだわずかに残っている気がした。
——このあと教室で、一花さんの顔をまっすぐ見られる自信が、なかった。




