第64話 完璧すぎる証拠と、崩れる足元
昨日の帰り道のことが、朝からずっと頭にこびりついていた。
——私が、あなたの本当のルナだから。
電車の吊り革につかまっている間も、黒板の文字をノートに写している間も、あの声が耳の奥で勝手に再生された。
完璧な笑顔と、最後にかすかに掠れた声の残像。
信じたくなかった。
けれど否定する材料が、手元にない。
昼休みも、購買のパンを半分残したまま窓の外を眺めていた。
三桜さんに二度名前を呼ばれて、ようやく気づいた。
「誠くん、どうかした?」
「……いや。ちょっと寝不足で」
嘘ではなかったが、本当でもなかった。
二葉さんが本から目を上げて、何か言いかけて——やめた。
一花さんは頬杖をついたまま、いつもの軽口を投げてこない。
篠崎は昼休みの終わりに「センパイ、今日ちょっと変ですよ」とだけ言い残していった。
誰にも、説明のしようがなかった。
俺自身が、何ひとつ整理できていないのだから。
◇
放課後、今日も一人だった。
一花さんたちにはそれぞれ用事があって、いつもの騒がしい帰り道は遠い。
ほっとしている自分に気づいて、すぐに嫌になった。
校門を出て、駅へ続く坂道を下り始めたところで——深い紺のブレザーが、視界の端に映った。
「お待ちしていました、【リオン】さま」
同じ声だった。
柔らかくて、よく通る。
昨日と同じ他校の制服、同じ穏やかな微笑み。
ただ今日はどこか——待ち構えていた、という佇まいがあった。
「……君か」
「はい。昨日の続きを、お話しさせてください」
少女はまっすぐにこちらを見ていた。
逸らさない。
逃げない。
「少し歩きませんか。近くに、静かな場所があります」
断る選択肢は最初からなかった。
確かめなければならないことが、あまりにも多すぎた。
少女の半歩うしろを歩いた。
少女の歩幅は小さく、それでいて迷いがなかった。
この道を知っている足取りだった。
「……なんで、この道を知ってるんだ?」
「【リオン】さまが、毎日通る道ですもの」
振り返りもせずに、少女は答えた。
それきり、言葉は途切れた。
靴底がアスファルトを擦る音と、遠くの車の走行音だけが夕暮れの道に落ちている。
鞄の持ち手を、両手できつく握っているのが見えた。
風が一度だけ吹いて、少女の髪が揺れた。
甘い花の香りがかすかに届いて、昨日の記憶が一瞬重なった。
少女に導かれるまま、通学路の途中にあるいつもの公園に入った。
ツツジの植え込みや、大きな滑り台の影が長く伸びて、砂場を覆っている。
夕暮れの光が低く差して、少女の横顔に薄い影を落としている。
人気のないベンチの脇で、ブランコの鎖が風で軽く鳴った。
それ以外に、音はなかった。
「——証拠を見せてくれ」
ベンチに腰を下ろした直後、口を開いた。
少女との間に、拳ひとつ分の距離を置いた。
昨日は動揺で何も訊けなかった。
今日は違う。
覚悟はしてきた。
「君が本物のルナだって言うなら——俺とルナしか知らないことを、言えるはずだ」
少女は微笑んだまま、静かにうなずいた。
「では——ひとつ目」
少女が、息を整えた。
「深夜に【リオン】さまが打った言葉です。——『俺さ、たまに思うんだよ。自分がいなくなっても、教室の中は何ひとつ変わらないんじゃないかって』」
心臓が、跳ねた。
覚えている。
深夜二時を過ぎていた夜だ。
テスト勉強に煮詰まって、何となくログインして——思わず打ってしまった弱音。
画面の向こうのルナにだけ見せた、誰にも聞かせるつもりのなかった言葉だ。
「そしてルナは、こう返しました。——『そんなことないよ。【リオン】がいなくなったら、きっと誰かがすごく寂しがる。……少なくとも、わたしは絶対泣いちゃうもん』」
一字も、違わなかった。
あの夜の画面に映った文字を今でも覚えている。
だから——一字のずれもないことが、わかってしまう。
唾を飲み込んだ。
喉が、痛いほど乾いていた。
「ふたつ目」
少女は続けた。
淀みがなかった。
「装備の振り方で悩んだ夜のことです。防御に振るか、攻撃に振るか——ルナはこう送りました。『【リオン】は前に立ちたい人でしょ。だったら倒れない方がいい。倒れない【リオン】が、いちばん強い』」
呼吸が、止まった。
パーティチャットではない。
ルナとの個人チャットだ。
二人だけの、深夜の密室。
三姉妹にも、誰にも話したことがない。
ベンチの端を掴んだ手が、白くなっていた。
ひとつなら偶然で説明がつく。
だが二つ目だった。
スクリーンショットも撮っていない。
ログを見せたこともない。
あの言葉を知っている人間は、俺とルナの二人しかいないはずだった。
「……もう、いい」
声が出た。
これ以上は聞きたくなかった。
「もうひとつだけ」
少女の声は変わらなかった。
穏やかで、滑らかだった。
「初めてのレイドで全滅した夜。【リオン】さまが落ち込んだとき、ルナが送ったメッセージ。——『【リオン】のせいじゃないよ。みんなで突っ込んだんだもん。全滅の責任を人数で割ったら、一人分なんてほぼ誤差だよ? ね?』」
間違いなかった。
あのとき俺は、画面の前で思わず笑ってしまったのだ。
深夜なのに声が出るくらい、あの一言に救われた。
あの夜のことを思い出しただけで、まだ唇の端が緩みそうになる。
少女は、それを——一字一句違わず並べてみせた。
俺とルナの二人だけの会話を、なぜこの少女が知っている。
「これで——私が本物だと、わかっていただけましたか?」
少女を見た。
完璧な微笑みは崩れていない。
呼吸も乱れていない。
こちらを見つめたまま、その睫毛が一度も下りなかった。
答えを、待っている。
ただ——膝の上に置かれた少女の手が、スカートの布をかすかに摘んでいた。
指先にだけ、ほんのわずかな力がこもっている。
次の瞬間にはもう手はおとなしく重なっていて、何もなかったかのようだった。
不思議だった。
一字も違わない完璧な再現のはずなのに、聞き終えた後に何かがかすかに引っかかった。
何がおかしいのかはわからない。
今の俺にその正体を掴む余裕はなかった。
「……なんで、君がそれを知ってる?」
声が掠れた。
「私がルナだから——それ以外に、理由がありますか?」
答えになっていない。
けれど反論の言葉が出てこなかった。
頭の中で何かが軋んでいる。
あの三人の顔が浮かんだ。
一花さんが腕を掴んだときの、指の熱さ。
二葉さんが差し出した手書きのノートの、丁寧すぎる蛍光ペンの線。
三桜さんが作ってくれた弁当の、不揃いな卵焼きの形。
あの温度は、嘘では出せないはずだ。
——じゃあ、あの人たちのあれは全部嘘だったのか。
一瞬、別の考えがよぎった。
もし本物のルナがこの少女なら——三姉妹は、ルナから聞いた話をなぞっていただけなのか。
一人だけが本物で、残りは話を合わせていただけ?
胃の底が冷えた。
そんなはずはない——と思いたかった。
あの三人の温度は借り物では出せない。
——けれど、目の前のこの証拠もまた、借り物では出せないものだった。
答えが出ない。
信じたい方ではなく、正しい方を選ばなければならない。
なのに——正しさがどちら側にあるのかさえ、もうわからなかった。
「今日はここまでにします」
少女が立ち上がった。
長い髪が風に揺れて、花の香りがかすかに鼻をかすめた。
「焦らせるつもりはないの。【リオン】さまが受け入れてくれるまで、何度でもお話しに来ます」
穏やかだった。
けれど語尾にわずかな力がこもっていた。
祈りに似た響きだった。
「では——また」
少女は微笑んで、背を向けた。
角を曲がる直前、歩く速度がほんの一拍だけ落ちた気がした。
振り返りたかったのだろうか。
けれど振り返ることはなく、そのまま姿が消えた。
ベンチに残されたのは、甘い残り香だけだった。
夕焼けはとうに沈んで、公園は藍色に変わっている。
立ち上がれなかった。
ベンチの冷たさが、背中から染みてくる。
どれくらいそうしていたかわからない。
◇
家に帰っても、エデンを起動する気にはなれなかった。
ログインしてルナに訊けば、何かがわかるかもしれない。
——けれど、その向こうにいるのが、今日の少女だったとしたら。
俺は、どんな言葉を返せばいい。
部屋の静けさが、鼓膜を押してくるようだった。
布団に入っても、眠気は来なかった。
暗い天井を見つめている。
目を閉じると、少女の声が再生される。
一字一句違わない、俺とルナの言葉。
俺が夜中に打った弱音と、ルナが返してくれた温もり。
二人だけの言葉を、あの少女が知っていた。
同時に——三人の顔が、消えてくれない。
寝返りを打つたびに、少女の声と三人の顔が交互に入れ替わった。
どちらかが嘘なら話は簡単だった。
けれど、どちらも——嘘には見えなかった。
あの三人はそれぞれ、自分の言葉で、自分の温度で、俺に近づいてきた。
ルナの記憶を確かめるためじゃなかった。
俺自身を見て、俺自身に笑いかけてきた。
ルナの名前を借りた真似じゃなかった——少なくとも、そう信じてきた。
完璧な証拠を突きつけられた。
否定できない。
だけど——あの三人の体温も、嘘じゃない。
嘘で出せる熱さじゃないはずだ。
——はずだ、と繰り返した。
繰り返すたびに、そのはずだという土台が少しずつ崩れていく気がした。
あの少女が嘘をついているなら、なぜあれほど正確に知っている。
あの三人が嘘をついているなら、なぜあれほど温かかった。
枕に顔を押しつけた。
暗闇の中で、あの花の香りがまだ鼻の奥に残っている気がした。
誰を信じればいいのか、わからなかった。
完璧な言葉と、不完全な温もりのあいだで、天井だけが暗く広がっている。
答えは出なかった。
目を閉じても、朝は遠かった。




