第63話 見知らぬ制服、綺麗すぎる笑み
放課後の帰り道を、一人で歩いていた。
一花さんはクラスの子と寄り道、二葉さんは掲示物の貼り替え、三桜さんは篠崎と図書室の手伝い。
たまたま全員の予定が重なった、珍しい放課後だ。
教室を出る間際、掲示物の束を抱えた二葉さんに呼び止められた。
「マコト。今日は私たちが誰もついていられないのだから、寄り道はしないで、真っ直ぐ帰りなさい」
「自分は残るのに?」
「私の予定と、あなたの帰り道は、別の問題よ」
取りつく島もなかった。
廊下に出ると、図書室のほうへ小走りで向かう三桜さんとすれ違った。
「誠くん、ごめんね。今日はお手伝いなの」
「気にするな。俺も真っ直ぐ帰るよう言われてる」
「あはは、二葉ちゃんに?」
「三桜先輩、置いてかないでくださいー!」
本の山を抱えた篠崎がその後ろを追いかけていって、二人の声が廊下の先へ遠ざかっていく。
賑やかなのは、そこまでだった。
◇
駅へ向かう緩やかな坂道。
下校のピークを過ぎて人通りが減ったせいか、自分の靴音だけが妙にはっきり響いた。
空の端が薄い橙に染まり始めている。
風がぬるい。
いつもなら隣で誰かが喋っているのに、今日は自分の息遣いしか聞こえなかった。
静かだ、と思った。
普段は騒がしい帰り道だ。
一花さんが腕に絡みつき、二葉さんが歩く速度を冷静に調整し、三桜さんが反対側の袖を引く。
篠崎がそこに割り込んでくれば、さらにひと騒ぎだ。
それが当たり前になりすぎていて、一人で歩く帰り道の静けさが、むしろ落ち着かない。
昨日、帰り際に思ったことを、ふと思い出す。
このまま、こういう日がずっと続けばいい——と。
駅前通りの角を曲がったところで——背後から、声がかかった。
「ずっと、探していました」
知らない声だった。
柔らかくて、よく通る。
足が止まった。
「——【リオン】さま」
体が固まった。
【リオン】。
ゲームの中でしか使わない名前だ。
見知らぬ少女が——しかも、さま付きで呼んでいる。
心臓が嫌な速さで打ち始めた。
ゆっくりと振り返った。
少女が、立っていた。
他校の制服だった。
深い紺のブレザーに細い銀のラインが一本走り、胸元には金糸の刺繍で校章が施されている。
清華の制服とは仕立ての格が違う——見た瞬間にわかるほどの、品の良さだった。
長い髪がゆるく波打って、風にかすかに揺れている。
見たことのない少女だった。
整った顔立ちに、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
正統派の美少女という言葉が、そのまま形になったような子だった。
けれど俺の目を捉えたのは顔の造形ではなく、その瞳だった。
探し物を見つけた人間の目をしていた——安堵と、それよりずっと深い、飢えのような光。
「初めまして」
少女が一歩、近づいた。
ほのかに甘い、花の香りが届く。
三姉妹の誰の香りとも違う、初めて嗅ぐ甘さだった。
「やっとお会いできました」
その声は穏やかだった。
けれど嬉しいというよりも、どこか——安堵に近い響きがした。
長い間ずっと走り続けていた人が、やっと足を止めて息をついた時の、そういう声だ。
「……君は?」
自分の声が硬かった。
当然だ。
見知らぬ他校の少女に、ゲーム内の名前で呼ばれている。
しかも、さま付きで。
「怖がらせてしまったなら、ごめんなさい」
「いや……人違いじゃないのか?」
「人違いではありません。あなたが【リオン】さまなのだから」
「……どこかで会ったことが?」
「いいえ。一度も」
即答だった。
初対面だと認めておいて、人違いではないと言い切る。
その言い切り方が、かえって不気味だった。
少女は微笑みを崩さなかった。
完璧だった。
唇の端の角度も、目元の柔らかさも、一分の隙もなかった。
作り物みたいだ、とどこかで思った。
「でも——どうしても、伝えたかったの」
一拍、間が空いた。
少女が真っ直ぐにこちらを見つめる。
「私が、あなたの本当のルナです」
風が、止まった気がした。
本当のルナ。
その言葉が、頭の中で反響している。
思考がうまく回らなかった。
「……本当の、ルナ」
繰り返す自分の声が、遠かった。
ルナは——画面の向こうにいる。
声も顔も知らない、俺のネトゲ嫁。
それが目の前の少女の口から、当然のように出てきた。
「ええ」
「ルナって、ゲームの……? どうして、俺の顔を知ってるんだ?」
「探したんです。ずっと」
少女はうなずいた。
完璧な微笑みだった。
唇の角度も、目元の柔らかさも、一分の隙もない。
けれど——その両手が、スカートの脇でかすかに握りしめられていた。
白い指先に、力がこもっている。
完璧なのは、顔だけだ。
「……どうやって、俺の学校まで来たんだ?」
「【リオン】さまのことなら、探せない場所はありません」
疑いもしない口ぶりだった。
ゲームの中の繋がりだけを頼りに、現実の学校と、この顔まで辿り着く。
それがどれだけ異常なことなのか、この少女は気にも留めていない。
「……待ってくれ」
声を絞り出した。
「いきなりそんなことを言われても、信じろっていうのは——」
「わかっています」
少女が静かに首を振った。
「急にお話ししても、戸惑うだけですよね」
その声は穏やかなのに、辛抱強さのようなものが滲んでいた。
急かすつもりはないと、態度の全てが語っている。
——だったら、なぜこんな場所で声をかけた。
その矛盾に、頭の端が引っかかった。
「……じゃあ、名前は。君は誰なんだ?」
「……今は、言えないの」
少女は視線を落とした。
長い睫毛が影を落とす。
さっきまで一分の隙もなかった微笑みが、その一瞬だけ、薄い硝子のように頼りなく見えた。
「名前を知ったら、きっと【リオン】さまは調べてしまうでしょう?」
否定できなかった。
俺なら、間違いなくそうする。
「もう少しだけ——このままでいさせて」
少女はそう言って、再び穏やかな微笑みに戻った。
切り替えが、あまりにも滑らかだった。
意味がわからなかった。
わからないことが、不安を煽る。
けれど目の前の少女が嘘をついている気配は——不思議と、なかった。
嘘をつく人間の目は、もっとどこかを避ける。
この少女は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「……でも、君の喋り方は、俺の知ってるルナじゃない」
口をついて出ていた。
文字だけの相手に、喋り方も何もあるものか。
それでも——ルナの言葉には、いつも余計な一文字がくっついていた。
語尾が跳ねて、顔文字がふたつみっつ飛んできて、こっちの返事を待たずに次が届く。
目の前の少女の言葉には、その余りがひとつもなかった。
「文字だけのお付き合いでしたもの。【リオン】さまは、私の声を聞いたことがありません」
返す言葉がなかった。
その通りだった。
「戸惑うのは当然です」
少女が、静かに言った。
「だって、あの方たちに囲まれて過ごしてきたのだもの」
あの方たち。
三姉妹のことを言っているのだと、すぐにわかった。
知っている。
この少女は、俺の周りに誰がいるかを知っている。
喉が渇いていた。
頭の芯がぐらぐらしている。
喜びは、なかった。
ずっと探していたはずの答えが、突然目の前に落ちてきたようなものなのに。
胸に湧いたのは、探していた相手に会えた安堵でもない。
もっと生々しい、泥を呑むような動揺だった。
——なぜ、今なんだ。
会うはずのなかった相手が、どうして今日、この道に立っている。
「でもね、【リオン】さま」
少女の声が、わずかに低くなった。
「あの方たちは——偽物の泥棒猫よ」
泥棒猫。
断言だった。
迷いのない、澄んだ声だった。
さっきまでの丁寧な口調が一瞬だけ崩れて、剥き出しの何かが覗いた。
敵意——に、見えた。
気づけば、足が一歩うしろに下がっていた。
その分だけ、少女がなめらかに前へ出た。
「偽物って、あの三人のことか?」
「ええ。あなたを騙している、悪い人たち」
この少女は、俺の周りの人間を知っている。
名前ではなく、存在として。
そのことが、何よりも背筋を冷たくした。
脳裏に、三姉妹の顔がよぎった。
一花さんの笑い声。
二葉さんの耳が赤くなる横顔。
四回も焼き直したスコーンと、三桜さんの指先の絆創膏。
——あの人たちとの日々は、じゃあ何だったんだ。
否定したかった。
けれど、そのための根拠が自分の手元にはなかった。
「あいつらが俺を騙してる? 君は、彼女たちの何を知ってるっていうんだ。……何を根拠に」
声が震えていた。
怒りなのか動揺なのか、自分でもわからなかった。
「……名前だって、知らないんじゃないのか」
少女は、その問いには答えなかった。
微笑みだけが、そこに残っていた。
「全部お話しします。【リオン】さまが望むなら」
少女はそう言って、小さく首を傾げた。
その仕草の一つ一つが、不自然なほど整っていた。
整いすぎていて、逆に人間味が遠い。
「……もっと詳しく——」
「今日はご挨拶だけ。急にたくさんは、重いでしょう」
少女が穏やかに遮った。
遮り方まで、丁寧だった。
「でも、覚えていてください」
少女が半歩だけ、距離を詰めた。
花の香りが、一段近くなる。
「現実とゲームは、違うものです。それでも——私の中にある記憶は、全部本物ですから。……嘘じゃないの。お願いだから、私だけを見て」
夕焼けの光が少女の横顔を染めていた。
影の中で、瞳だけが妙に澄んでいた。
「信じて。私が、あなたの本当のルナだから」
完璧な笑顔だった。
——けれど、その声がほんの一瞬だけ、掠れた。
聞き間違いかもしれない。
けれど、俺の耳はそれを拾ってしまった。
反論の言葉が、見つからなかった。
「……待ってくれ。せめて連絡先だけでも……!」
「また会いに来ます。今日は、私を見つけてもらうためのご挨拶だから」
少女は静かに踵を返した。
長い髪が揺れて、花の香りの残り香だけが風に溶けていく。
角を曲がって、姿が消えた。
追いかけようとは、思わなかった。
というより、足が動かなかった。
花の香りの名残だけが、鼻の奥にまだかすかに残っている。
帰り道の景色は何も変わっていない。
電柱も、アスファルトも、空の色も、さっきと同じだ。
けれど、さっきまでと同じ場所に立っているはずの自分の足元だけが、もう信じられなくなっていた。
ポケットの中のスマホが、やけに重かった。
ルナに、訊きたかった。
今夜ログインしたら、画面の向こうのルナは——いつも通り笑っているのだろうか。
それとも。
考えるのをやめた。
答えを出すには、足りないものが多すぎる。
今わかっているのは一つだけだ。
ゲーム内の名前を知る見知らぬ少女が、俺の前に現れた。
本物のルナを名乗った。
——そして、あの三人を「偽物」と呼んだ。
それが事実なのか嘘なのか、今の俺には確かめる術がない。
家までの道を、一歩ずつ踏みしめた。
夕焼けが沈んでいく。
さっきまでと同じ道のはずなのに、自分の足音だけがひどくよそよそしく聞こえた。
◇
同じ日の夜。
少女は、鏡の前に座っていた。
広い自室の化粧台だった。
三面鏡に、ブラウス姿の自分が映っている。
制服のブレザーは椅子の背にきちんと掛けてあった。
皺ひとつなく、アイロンの折り目が残っている。
広い部屋に、人の気配は自分だけだった。
唇の端を持ち上げた。
今日、あの人の前で浮かべたのと同じ笑顔。
角度を確かめる。
目元の力加減を、少しだけ変える。
何百回と繰り返した、笑顔の練習だった。
鏡の中の少女は、完璧に微笑んでいた。
けれど、鏡から目を逸らした瞬間——笑みが、音もなく剥がれ落ちた。
空調の低い唸りだけが、広い部屋に流れている。
手の甲を見下ろした。
スカートの脇で、ずっと握りしめていた手。
爪の跡が、うっすらと赤く残っている。
力を抜いたつもりだったのに、指は、まだかすかにこわばっていた。
やっと会えた。
名前を呼んで、声を聞いて、同じ道の上に立った。
それなのに胸の奥にあるのは、望みが叶ったという手応えではなかった。
息をするのが億劫になるほどの重たい疲れだけが、肩に残っている。
もう一度、鏡を見た。
少女が、もう一度だけ笑ってみせる。
完璧な笑顔。
誰に見せるためでもない、練習のための笑顔。
明日も、この顔で会いに行く。
その目だけが、笑っていなかった。




