第61話 狩りの夜、弟分と兄貴の約束
週末の夜、俺はひさしぶりにエデンにログインした。
特別な理由はない。
なんとなく、そうしたくなっただけだ。
画面が明るくなって、拠点の酒場に【リオン】が立った。
久しぶりのエデンは、変わっていなかった。
同じ木目のカウンター、同じ暖炉の炎、同じ雑踏のBGM。
現実のほうがずいぶん騒がしかったのに、ここだけはいつも通りだ。
カウンターの上で傾いたジョッキが、NPCの酔っぱらいにぶつかって、かたんと鳴る。
その変わらなさが、少しだけ心地よかった。
フレンドリストを開く。
【ルナ】の名前は灰色で、ログアウト中を示していた。
今日はいないか。
少しだけ残念に思ったが、それだけだった。
会いたくなったら、また来ればいい。
掲示板に目を通したが、特に気になる情報はなかった。
ぼんやり画面を眺めていたら、チャットが飛んできた。
『兄貴ーーッ! ひさしぶりッスね!!』
クロウ。
斥候の弟分が、酒場の入り口から一直線に駆けてきた。
革鎧のアバターが目の前でぴょんぴょん跳ねている。
『兄貴がインしたの見て飛んできたッス!』
『……律儀だな』
『当然ッス! 兄貴と組めるの久しぶりなんスから!』
『何日ぶりだ?』
『一週間は空いてるッスよ! ちょうど素材集め終わったとこで、もう暇してたんス!』
こいつはいつだってこうだ。
誰かが来れば全力で喜ぶし、戦闘になると真っ先に走り出す。
テスト期間にログインを控えていた分、この騒がしさが懐かしかった。
『今夜、二人で狩り行かないッスか? 東の森に中型が湧くようになったらしいッス! 新しい短剣の素材、そこで落ちるって噂なんスよ!』
『ああ、行こう。盾は張れるぞ』
『マジッスか! 最高ッス!!』
パーティを組んで、拠点を出た。
夜のフィールドが画面に広がる。
五人で大型ダンジョンに挑んだ前回とは違う、二人きりの暗い森だ。
松明の灯りがアバター二つぶんだけ周囲を照らして、その外側は闇に沈んでいる。
虫の鳴き声のSEが微かに混じって、風の音がときどき低く唸った。
クロウが先行して、索敵する。
革鎧の背中が暗がりに溶けていく。
斥候の足は速い。
画面の端を小さな影が駆けていって、すぐに報告が返ってきた。
『前方、ガーゴイル二体ッス! 背後に回れるッスよ!』
『先に俺が引きつける。合図で背中を頼む』
『了解ッス!』
【ウォークライ】で挑発をかけた。
二体のガーゴイルがこちらを向く。
石の腕が振り下ろされて、盾ごと押し込まれた。
重い。
大型と比べればマシだが、油断すると体勢を崩される。
五人のときと違って後衛の回復はない。
自分のHPバーを見ながら、受ける角度を微調整する。
一撃目を弾いて、二撃目を盾の端で受け流す。
ぎりぎりまで引きつけて、二体の攻撃が重なる瞬間を待った。
『今だ』
クロウの短剣が死角から飛んで、ガーゴイルの背中の関節を正確に抉った。
一体が崩れる。
残りの一体に盾を叩き込んで怯ませた隙に、もう一度クロウが跳ぶ。
二体目も砕けて、石の破片がばらばらと散った。
『っしゃあ! 兄貴、ナイス盾ッス!』
『お前の入りが速いだけだ。助かる』
『へへっ、息ぴったりッスね!』
弟分が嬉しそうに、ガッツポーズのエモートを出す。
そのまま森の奥を、二人で進んだ。
盾で受けて、クロウが刺す。
単純だけれど、息の合った繰り返しだ。
後衛に気を配る必要がないぶん、前に出る判断が早い。
クロウのほうも、俺の盾が間に合うと信じて躊躇なく飛び込んでくる。
信頼してるやつと背中を預け合う、ただそれだけのことだ。
二人だけの戦いには、五人のときとは違う心地よさがあった。
三体目で、クロウの動きが乱れた。
こちらが引きつけるより早く跳び込んで、石の腕の真下に入った。
いつもならバックステップで抜ける間合いだ。
なのに、革鎧のアバターが一瞬だけ止まった。
『っと』
間に体をねじ込んで、盾で受ける。
石の腕が盾の縁を削って、鈍い音が鳴った。
『……申し訳ないッス、兄貴。ちょっとポーション飲むッス』
『気にすんな。俺が前に出る。少し下がってろ』
『助かるッス』
こいつが素直に下がるのは珍しい。
そのまま一人で崩しきった。
背後で回復のエフェクトが光っている。
『復帰したッス! いやー、今の完全に見えてなかったッスよ』
『たまにはあるだろ』
軽く流したが、少しだけ引っかかった。
危険を先に察するのは、いつだってこいつのほうだ。
その勘が、一拍だけ遅れた。
そのあと何体か崩したところで、クロウがチャットを打ってきた。
『兄貴、回復なしの二人狩りでも全然ビビんないッスよね』
『HPが見えてるからな。見えてれば怖くない』
『やっぱすげーッス。俺なんか残り三割切ったら手ぇ震えるッスよ』
『斥候は避ければいい。当たるほうが悪い』
『それ褒めてるんスか煽ってるんスか!?』
『半分ずつだ』
笑いのエモートが画面に並ぶ。
こういう軽口を打ち合いながら狩る夜が、たぶん俺は好きだ。
ひと通り狩り終えた。
目当ての短剣の素材は、一度も落ちなかった。
それなのに、クロウは残念がる素振りもなかった。
森の奥の開けた場所に出た。
木の根元に、腰を下ろす。
焚き火のオブジェクトを置くと、小さな炎が画面に灯った。
二人のアバターが、並んで座る。
炎の揺れに合わせて地面の影がゆらゆらと伸びて、木々の幹が橙に染まっていた。
『いい狩りだったッスねー』
『ああ。お前との二人狩り、久しぶりだったけど楽しかったな』
『兄貴にそう言ってもらえると泣けるッス……!』
そのままチャットが途切れた。
しばらく黙っていた。
けれど気まずくはなかった。
弟分が騒がしいのはいつものことだが、こういう静かな時間もたまにある。
焚き火の炎がちらちら揺れるだけの画面を、ぼんやり眺めていた。
何か打とうかと思ったが、やめた。
こういう沈黙を壊すのは、いつもクロウのほうだ。
先に打ったのは、やっぱりクロウだった。
『……兄貴』
いつもと違った。
感嘆符がない。
ッスもない。
『どうした?』
少し間があった。
文字が一行、ゆっくり灯る。
『どうしても叶わないかもしれない敵がいたら、どうすればいいっスかね』
何の話だろう。
ゲームの敵のことなのか、それとも別の何かなのか。
画面の向こうのことは、俺にはわからない。
画面に映らない何かを抱えたまま、それでもログインしてくる夜がある。
俺にも、覚えがあった。
『正直、ちょっと怖いんスよ』
『お前でも怖いのか?』
『……そりゃ怖いッスよ。俺、逃げ足だけは速いんスから』
詮索するのは違う気がした。
弟分がこういう聞き方をするとき、欲しいのは答えじゃない。
たぶん、隣にいてほしいだけだ。
俺はタンクだ。
前に立って、攻撃を全部引き受ける。
さっきの森でも、そうしてきた。
それしかできないし、それでいい。
『お前が逃げないなら、俺も逃げねえよ』
打ち込んで、一拍置いた。
『いつでも盾になってやる。前に出ろ、クロウ』
チャット欄が止まった。
長い沈黙だった。
焚き火の炎だけが、揺れている。
やがて、一行が灯った。
『……やっぱ兄貴は兄貴っスね』
感嘆符はなかった。
でも、文字の奥に笑っている気配があった。
三年の付き合いで培った勘が、そう言っている。
『当たり前だ。弟分の前で格好つけないでどうする』
『カッコつけてるだけなんスか!?』
『半分はマジだ。残りは気合』
『兄貴ーーーッ! 最高ッスーーーッ!!』
元のクロウが戻ってきた。
ガッツポーズのエモートを三連打して、焚き火の周りをぐるぐる走り回っている。
『あ、でも。俺だって兄貴の背中は守るッスよ。盾ばっか張らせないッス』
『言うようになったな』
『斥候なめんなッス!』
うるさいやつだ。
でも——それくらいがちょうどいい。
もう少しだけ狩りを続けてから、拠点に戻った。
帰り道のクロウは行きの倍くらい喋っていて、新装備の話や素材の相場がチャット欄を埋めていた。
全部に返すのは追いつかなかったが、たまに打つ短い一言で弟分は十分満足するらしかった。
酒場のカウンターに、並んで座る。
弟分はもう完全にいつものテンションに戻っていて、今日の連携がいかに完璧だったかを興奮気味に語っていた。
『今日のガーゴイル戦、兄貴の盾ヤバかったッス! 二体同時に受けてたのヤバいッス!』
『慣れだよ。五人のときと勝手が違うだけで、やることは同じだ』
『そういうとこが兄貴なんスよ……!』
何の変哲もない、いつもの弟分だった。
さっきの静かな問いかけは、もう画面のどこにも残っていない。
ログは流れて消えていく。
けれどあの一行の重さは、俺の中にまだあった。
『じゃ兄貴、俺そろそろ落ちるッス! 今日マジで楽しかったッス!!』
『ああ。また行こうぜ』
『絶対ッスよ! 約束ッス!!』
【クロウがログアウトしました】
酒場に一人、【リオン】だけが残った。
あいつが何に悩んでいたのかは、結局わからないままだ。
ゲームの敵かもしれないし、全然違う何かかもしれない。
でも最後はいつものクロウに戻っていた。
元気出たなら、それでいい。
理由は聞かなくていい。
弟分が笑って落ちたなら、兄貴の仕事は果たせたってことだ。
ログアウトして、モニターの電源を落とした。
暗くなった画面に、ほんの一瞬だけ自分の顔が映る。
笑っていた。
悪くない夜だった。
椅子の背もたれに体を預けて、窓の外を見た。
もう深い夜だった。
街灯の光が遠くにぼんやり滲んでいて、どこかで虫の声がしている。
静かな週末だった。
さっきの焚き火の炎を、ふと思い出した。
あれはただのオブジェクトだ。
けれどあの灯りの前で黙って座れる相手がいるのは、悪くない。
伸びをひとつして、ベッドに向かった。




