第60話 月曜の昼、変わらない宝物
月曜の朝は穏やかに晴れていた。
土曜日のことを、ときどき思い出す。
飲み物を取りに戻った廊下で、ドア越しに聞いてしまった声。
部屋に戻った俺を迎えた、あの完璧すぎる四つの笑顔。
日曜は溜まった課題に費やして、あのときの空気のことは考えないようにしていた。
それでもふとした瞬間に——プリントをめくったときとか、窓の外をぼんやり眺めたときとか——あの笑顔の下にあった張り詰めた声が耳の奥に蘇った。
通学路の風が制服のシャツを通り抜けていく。
いつもの月曜、いつもの朝——のはずだった。
「おっはよ、誠!」
背後から、甘い柑橘の匂いがして、腕を取られた。
一花さんだ。
「朝から元気だな」
「当然でしょ? 月曜なんて気合入れないとやってらんないし。それに、あたしは誠の顔見ないと一日が始まんないから」
「だからって、朝から人に突撃してくるなよ。びっくりするだろ」
「えー? 誠の背中が無防備だったからつい、ね」
「……で、いつまで腕組んでるつもりだ?」
「学校着くまで! ほら、急がないと遅刻するよー」
笑って、さらにぎゅっと腕を抱えてくる。
いつもの距離感——のはずなのに、指先にかかる力がいつもより強い。
絡みつくのではなく、掴むように。
手放さないように。
腕を組むというより、しがみつくことに近かった。
「なあ、一花さん。腕、ちょっと痛いんだけど」
「え? ……あ、ごめん」
ぱっと力が抜けた。
一花さんは自分の指先を不思議そうに見下ろして、それからすぐにいつもの顔に戻る。
「ごめんごめん、そんなに力入ってた?」
「入ってた。もう少しで折れるところだった」
「大げさだなぁ、誠は」
けれど数歩も行かないうちに、袖を掴む指はまた同じ強さに戻っていた。
「ねぇ、土曜は楽しかったよね」
「ああ、楽しかったな」
「でしょー? またみんなで行こうよ」
声は明るい。
でも腕にかかる力の入り方が、笑い方と噛み合っていない。
ふだんなら相手の反応を見てからかう余裕のある子だ。
今朝はその余裕がなかった。
何を抱えているのかはわからない。
ただ、いつもと違うことだけはわかった。
校門が近づくと、一花さんは自然に腕をほどいた。
指が離れる瞬間、爪の先がシャツの袖をかすめて、ほんの一拍だけ名残が残った。
「じゃね、先行くよ!」
振り返ったときにはもう笑顔で手を振っていた。
変わらない笑顔だった。
でもその声が——大切なものを確かめるように響いたのは、気のせいじゃない。
腕を取られた感触だけが、しばらくシャツの袖に残っていた。
◇
昇降口で、二葉さんが靴箱の前に立っていた。
靴をとうに替え終えているのに、まだそこにいる。
手には小さなコンビニの袋がぶら下がっていた。
「おはよう、二葉さん」
「マコト。朝食はちゃんと摂ったの」
問いかけというより確認だった。
俺が答える前に、小さなコンビニの袋が差し出される。
「いや、まだだけど」
「やはりね。昨日は夜更かししていないでしょうね」
「してないよ。普通に寝た」
「ならいいわ」
袋の中身はおにぎりが二つ。
梅昆布——俺がいつも選ぶやつだ。
「……わざわざ?」
「テスト期間の管理は終わったけれど、放っておくと食生活が崩れるのは目に見えているわ。義務よ」
「これ、いくらだった?」
「不要よ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「いいから。ついでに買っただけだから、気にしないで」
義務。
二葉さんの好きな言葉だ。
でも義務で、人の好みのおにぎりまで覚えるだろうか。
コンビニの棚の前で、何種類も並ぶ中から迷いなく梅昆布に手を伸ばす横顔が浮かんだ。
たぶん、迷いすらしなかったのだろう。
袋を受け取ると、二葉さんの指先が一瞬だけ触れた。
手を引くのが、わずかに遅い。
耳の先が、かすかに赤い。
本人は、たぶん気づいていない。
「ありがとう。助かるよ」
「当然のことよ」
それだけ言って、二葉さんは先に歩き出した。
背筋のまっすぐな後ろ姿。
けれど歩調がいつもより丁寧で、振り返りたいのを堪えているぎこちなさが背中に透けていた。
手のひらの中で、おにぎりの袋がかさりと鳴った。
受け取った袋の持ち手には、ほんのりと彼女の体温が残っていた。
ずっとこれを握りしめて、ここで待っていてくれたということだ。
梅昆布の味を想像しながら、靴を替える。
帰りにでも、ちゃんとお礼を言おう。
◇
教室に入ると、三桜さんはもう席にいた。
珍しい。
朝が弱いから、ふだんなら予鈴ぎりぎりに駆け込んでくるのに。
「おはよう、誠くん!」
振り向いた三桜さんの目がまっすぐだった。
ふだんの三桜さんなら、こちらに気づくと照れて視線を泳がせてから笑う。
今朝は迷いがない。
何かを決めた後の、すっきりした顔をしていた。
寝坊助のこの子を、ここまで早起きさせた何かがあったのだろう。
「おはよう。今日は早いな」
「えへへ、ちょっとだけ早く目が覚めちゃって」
「三桜さんが朝から起きてるなんて、明日は雪かもしれないな」
「むー、失礼だなぁ。私だって、やるときはやるんだよ」
照れたように前髪を指でいじった。
でもその奥にある目の光が、以前より強い。
「あのね、誠くん。今日、お弁当作ってきたの」
「お、本当に? それはすごいな」
「うん、がんばったんだよ! 中身は、開けてからのお楽しみ!」
鞄から弁当箱をちらりと覗かせた。
包みの布が、三桜さんらしい淡い花柄だった。
その手つきが、やけに自信に満ちている。
「お昼、中庭で一緒に食べてくれる?」
「ああ、もちろん」
三桜さんの頬がぱっと明るくなった。
嬉しいのが全身から溢れている。
目が細くなって、口元がゆるんで、肩まで嬉しそうに上がっていた。
それがこの子のまっすぐさで、ときどき眩しくなる。
一花さんの強い指。
二葉さんの丁寧な歩調。
三桜さんのまっすぐな目。
三人とも、土曜の前とは何かが変わっている。
何があったのかは知らない。
聞いても、きっと教えてもらえないだろう。
でも——嫌な変化じゃなかった。
どこか覚悟を決めたような、そんな空気だった。
◇
昼休み、中庭のベンチで三桜さんの弁当を広げた。
蓋を開けると、彩り豊かにおかずが綺麗に並んでいた。
さっそく卵焼きを箸でつまんで、一口食べる。
——出汁が利いていて、甘くない。
俺の好みに、ちゃんと合わせてくれていた。
「おいしいよ」
「ほんと……!? えへへ、よかったぁ」
「しょっぱいの、覚えててくれたんだな」
「うん、誠くん、卵焼きは甘くないほうが好きって言ってたから」
「助かるよ。すごく、好みの味だ」
三桜さんが両手を胸の前で握って、嬉しそうに目を細めた。
こちらの箸の先を、じっと見ている。
「センパーイ! お昼ですかー!」
篠崎が、一年の校舎のほうから駆けてきた。
手には、コンビニの袋を揺らしている。
「メロンパンと、カフェオレです! 月曜は元気出さないとですよね!」
「また差し入れか。テスト期間はもう終わっただろ」
「テスト関係ないです! センパイに元気でいてほしいだけです!」
真正面から、駆け引きなんかない。
この子の好意は、いつだって剥き出しだ。
テスト前夜に校門の前で一時間も待っていてくれた日のことを、まだ覚えている。
あれは、後輩の懐きなんかじゃなかった。
差し入れのたびに俺の好みをちゃんと選んでくるのは、もう偶然では済まないと、とっくに気づいていた。
ふいに二葉さんが現れた。
教科書を抱えたまま。
「外の空気が吸いたかっただけよ」
偶然にしては、視線がちらりと篠崎の袋に触れている。
教科書を抱える腕に、わずかに力が入ったのが見えた。
「おっ、奇遇じゃん! あたしもー」
一花さんも、スマホ片手に反対側から歩いてきた。
「……三人揃って奇遇ってことあるか?」
呆れて呟いた俺に、一花さんは悪びれもせず笑う。
「いいじゃん、細かいことは気にしないの。ほら、ちょっと詰めて」
偶然が三つも重なるわけがないけれど、それ以上は突っ込まないでおく。
ベンチの端に腰を下ろしながら、篠崎が少しだけ唇を尖らせた。
「センパイと二人でお昼したかったんですけどー」
「最初に割り込んできたの、あんたなんだけど」
「……それとこれとは、別ですっ」
篠崎がメロンパンを割って差し出し、一花さんが「あたしも!」と手を伸ばし、二葉さんが「食べすぎよ」と窘めた。
五人分には足りない小さなベンチだ。
肩と肩がぶつかるくらい窮屈なのに、不思議と居心地は悪くなかった。
一花さんが篠崎のカフェオレを横からストローで奪い、篠崎が「あーっ!」と声を上げた。
「返してくださいー!」
「早い者勝ちでしょー」
「ずるいです、綾瀬先輩!」
「いいじゃん、一口くらい。あ、これ甘くておいしー!」
「あっ、それ私がセンパイと半分こしようと思ってたのに!」
一花さんはどこ吹く風でストローから口を離す。
「一花。行儀が悪いわよ」
「二葉だって、さっきから誠のメロンパンじっと見てるくせに」
「……別に、見てなどいないわ」
二葉さんは咳払いをひとつして、今度は篠崎のほうへ向き直った。
「篠崎さん。マコトの栄養管理は私の担当よ。菓子パンと甘い飲み物を並べて渡すのは、感心しないわ」
「ちゃんと考えて選びました! 疲れてるときは甘いものが効くんですから」
「その根拠は?」
「……私の実感です!」
「実感て」
一花さんが噴き出して、篠崎が「なんでですかー!」と抗議した。
三桜さんが「はい、誠くん」と卵焼きをもうひとつ差し出すと、篠崎がすかさず身を乗り出した。
「私にもください! センパイの食べているものは全部チェックします!」
篠崎が堂々と宣言して、あーんと口を開けて待ち構える。
三桜さんは少し迷った末に、照れたように笑ってその口へ卵焼きを運んであげた。
篠崎がもぐもぐと咀嚼する。
三桜さんは、その様子を息を詰めて見つめた。
「あ、しょっぱい。……おいしいです!」
「でしょ……えへへ」
三桜さんがほっとしたように笑う。
「ずるい! 三桜、あたしにも一口!」
今度は一花さんがすかさず身を乗り出した。
「ダメー! 残りはもう絶対、誠くん専用!」
「えー、ケチー」
「じゃあ私は、いつかセンパイの胃袋を丸ごと掴みますから」
「宣言してから掴むやつがあるか」
「……まったく。騒々しいわね」
二葉さんがため息をつきながらも、小さく口元を緩めていた。
騒がしくて、笑い声が絶えない。
六月の風が、ベンチの上を通り抜けていった。
木漏れ日が、五人の膝の上で揺れている。
ふと、思った。
ルナの正体が、気になっていたはずだった。
三姉妹の誰かが本物のルナで、いつか答えを見つけなきゃいけないと思い込んでいた。
でもいま四人の声を聞いていると——あの問いの重さが、以前とは違っていることに気づく。
重さが消えたんじゃない。
目の前にあるものの重さが、いつの間にか上回っていた。
三人のことを大切に思っているのは、ずっと前からだ。
今日わかったのは、そこにもうひとり加わっていたことだった。
四人が笑い合う、この騒がしくて心地よい時間。
全部ひっくるめて——目の前のこの景色が、俺の宝物だ。
謎を解くことより、この日常がずっと大切になっている。
いつからだろう。
たぶん、ずっと前から気づいていた。
ただ言葉にしていなかっただけだ。
予鈴が鳴って、四人が慌ただしく立ち上がった。
「午後もがんばりましょう、センパイ!」
「お前もな。午後の授業、寝るなよ」
「寝ませんよぉ!」
篠崎が敬礼して走っていく。
その後ろ姿を見送りながら、一花さんが楽しそうに笑った。
「あー、面白かった。あたしたちも行こー」
一花さんが大きく伸びをして、二葉さんが教科書を抱え直す。
「マコト。あなたこそ、午後の授業で居眠りしないようにね」
「……はいはい。わかってるよ」
三桜さんが弁当箱の蓋をぱちんと閉じて、こちらを見上げた。
「また明日も、作ってくるね」
「ああ。楽しみにしてる」
三桜さんが小さく頷いて、弁当箱を大事そうに鞄にしまった。
その手つきが、蓋を開けるときよりも丁寧だった。
空を見上げた。
月曜の空は高くて、雲の切れ間から穏やかな日差しが落ちてくる。
この賑やかな日常が、ずっと続けばいい。
心からそう思った。




