第59話 三姉妹の夜、方向だけは同じ
靴を脱いで、リビングの灯りをつけた。
広い。
いつものことなのに、三人で帰ってくるとなおさら広く感じる。
吹き抜けの天井が高くて、声を出さなくても足音だけが響く家。
あたしたちの家。
三人だけの、静かすぎる家。
カラオケの帰り道、三人とも何も言わなかった。
駅前を抜けても、いつもの道に入っても、マンションのエレベーターの中でも。
沈黙が痛いわけじゃない。
ただ、いつもの沈黙とは種類が違った。
いつもの帰り道なら、三桜が階数表示を見上げたままぼうっと押し忘れて、二葉が黙ってボタンを押す。
今日はどちらも黙ったまま、階数表示の数字だけが変わっていった。
「……お風呂、先に入るね」
三桜が小さく言って、廊下のほうへ消えていった。
逃げるように、というほどじゃない。
でも、あたしたちの顔を見ないように視線を落としていたのは気づいていた。
タオルを引き抜く音がして、脱衣所のドアが静かに閉まった。
二葉がキッチンに向かって、ポットに水を入れている。
無言のまま、お湯を沸かす所作だけがやたらと丁寧だった。
茶葉を選ぶ手つきまで迷いがない。
手持ちぶさたを隠すには、お茶を淹れるのがいちばん楽だ。
あたしだって同じことをしたかもしれない。
ソファに座った。
カラオケボックスの席よりずっと広いのに、背中がどこにも預けられない気がした。
さっきの声が、まだ耳に残っている。
篠崎さんの——あの子の、あの声。
後輩の甘えた声じゃなかった。
女として、正面から、あたしたちに宣戦布告した声だった。
それに返した自分の声も。
——自分の中身、ちゃんと見てもらったこと、たぶん、ないんだよね。
なんであんなこと言ったんだろう。
言うつもりなんかなかった。
出る予定のなかった言葉が勝手に口から零れて、自分でびっくりした。
慌てて笑いでごまかしたけど、二葉の目は見えた。
三桜の目も。
ごまかしきれてなんかいないことくらい、わかってる。
あの部屋の空気が、まだ肌に貼りついている。
「紅茶と、緑茶」
二葉がマグカップを二つ、テーブルに置いた。
ことん、ことん。
わざと音を立てないように置くのが、二葉らしかった。
紅茶があたし。
緑茶は——三桜がいつも座る場所の前。
いないのにちゃんと用意してある。
聞かなくても知っている。
そういうところが、二葉だ。
「ありがと」
短く返して、マグカップを両手で包んだ。
湯気の匂いが甘い。
二葉は何も言わず、自分のカップを持ってあたしの向かいに腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
時計の秒針の音と、遠くでシャワーの水が流れる音。
三桜がまだ浴室にいる。
いつもより長い。
泣いてるんだろうな、と思ったけど、口には出さなかった。
「——言っておくけど」
二葉が先に口を開いた。
いつもの静かな声。
感情を注意深く棚に上げたような、あの声。
「今夜のことは、篠崎さんが正しかったとか間違っていたとか、そういう話はしない」
「しないの?」
「しない。……そんなことを言い合っても、どこにも進めないでしょう」
二葉の指先がカップの縁をなぞっている。
あの癖。
考えをまとめるときは、いつもああする。
「問題は、あの子が本気だということ。それだけよ」
「知ってるよ。あたしだって見ればわかる」
「なら——内輪で足を引っ張り合っている場合じゃないわ」
足を引っ張り合う、か。
二葉らしい。
冷静で、合理的で、正しくて——自分の揺れは全部、正論の裏側に仕舞い込む。
あの子に言われてたよね。
自分の気持ちが重すぎるのを、理屈で隠したいだけじゃないですか、って。
カップの縁をなぞる速度が、ほんの少しだけ速くなった。
二葉はたぶん気づいていない。
そのことには触れなかった。
触れたら、二葉は黙ってしまう。
「二葉はさ」
「何?」
「……ううん。なんでもない」
聞きたかったことが、うまく形にならない。
二葉がどれくらいリオンのことを想っているかなんて、聞くまでもなかった。
あたしたちは姉妹だ。
同じ屋根の下で、同じ人を好きになって、それでも毎朝、おはようを言い合ってきた。
廊下から足音がして、三桜が戻ってきた。
髪がまだ湿ったまま、タオルを肩にかけて。
目が少し赤い。
鼻の頭も赤くて、ごまかすように前髪を引き下ろしていた。
「……お茶、ある?」
「そこ」
二葉が視線だけで示した。
三桜がいつもの場所に座って、マグカップに両手を伸ばす。
指先が震えていることに、あたしは気づいていた。
二葉も気づいているだろう。
でも二人とも何も言わなかった。
三人がリビングに揃った。
いつもなら、ここからテレビをつけるか、誰かがスマホで動画を流すか。
でも今夜は、誰もそうしなかった。
「——三桜」
二葉が名前を呼んだ。
静かだけれど、逃がさない声。
「今日のこと。……あなたは、どう思っているの?」
三桜の手が止まった。
マグカップの中の緑茶が、かすかに波を打つ。
「どう、って……」
「篠崎さんは宣戦布告した。三姉妹がそろっていても勝ちに行く、と。あなたは、あの場で泣いていたわ」
残酷なくらいまっすぐに、二葉は事実だけを並べた。
三桜が唇を噛んだ。
マグカップを握る指が白くなっている。
「……泣いてたよ。泣いちゃったよ。だって——」
声が、震え始めた。
「心花ちゃんは、悪い子じゃ……ないよ」
やっぱり。
あたしは最初から知っていた。
三桜があの子のことを嫌いになれないことも、それが三桜をいちばん苦しめていることも。
「一緒にクレープ食べて、ゲームセンターで遊んで、荷物を半分持ってくれて……。『ライバルです』って言いながら、ずっと優しかった」
三桜の声が、途切れ途切れになっていく。
タオルの端を握りしめていた。
さっき髪を拭いていたそのタオルが、今は泣き顔を隠す盾になっている。
「でも、リオンは……渡せない。渡すなんて、絶対に、言えないよ……っ」
涙がぽたりとテーブルに落ちた。
マグカップの隣に、小さな染みが広がった。
「友達でいたいのに、ライバルで……。ライバルなのに、嫌いになれなくて。……どうしたらいいか、わかんないよぉ……」
あたしは何も言えなかった。
いつもなら軽口で場を回せるのに、三桜の涙の前では、あたしの軽さなんかなんの役にも立たない。
気の利いた一言で空気を変えるのが、あたしの仕事だったのに。
だから、言葉の代わりに立ち上がった。
三桜の隣に腰を下ろして、震える背中に手を回す。
薄くて、思っていたよりずっと小さい背中だった。
一定のリズムで、ゆっくりと撫でる。
「泣きたいだけ、泣きなよ」
いつもの長女のトーンなんて、どこにも出てこなかった。
「三桜は優しいからさ。自分の気持ちに嘘つけない分、苦しいっしょ」
三桜が返事の代わりに、タオルに顔を埋めたまま何度も頷いた。
二葉も何も言わずに立って、カップを持ったまま三桜の反対側に腰を下ろした。
二葉が目を伏せた。
カップの縁をなぞっていた指先が止まって——それから、隣の三桜の頭にそっと乗った。
理屈っぽくて、正論ばかり並べる二葉の手が、今はただ不器用に妹の髪を撫でている。
「……私も」
二葉がそう言ったとき、あたしは少し驚いた。
「篠崎さんに、言い返せなかった」
低く、平らな声。
でも、平らにしようとする力の入れ方が、かえって揺れを見せている。
「理屈で隠しているだけだと言われて。……正しいかどうかは、わからない。でも、何も返せなかった。それは事実よ」
二葉の耳が、ほんの少しだけ赤い。
怒りじゃない。
悔しさでもない。
もっと奥のほうにある、まだ形になっていない何かだ。
「感情と目的は切り離すべきだと、私はいつも言っているけれど」
カップを見つめたまま、二葉が続けた。
「……今夜の私には、言う資格がないわね」
二葉はいつだって、自分の気持ちに名前をつけるのが誰よりも遅い。
それでいて、一度つけてしまったらもう外せないことも、たぶん自分でわかっている。
「……それでも」
顔を上げないまま、声だけが少し硬くなった。
「隣を明け渡す気は、ないけれど」
あ、と思った。
弱いところを認めたばかりの口で、二葉はちゃんと自分の望みを言った。
正論でも計画でもない、ただのわがままを。
「……怖かったよね」
自分でも、なんでそれを声に出したのかわからなかった。
「あの子の目、見たでしょ。何の裏もないの。ただリオンが好きなだけ。あたしたちみたいに、建前とかプライドとか、なんにも挟まってない」
三人とも、あの部屋で何かを突かれた。
篠崎さんは気づいていなかっただろう。
自分の言葉が三人の違う場所に、それぞれ別の傷をつけていたことなんて。
あたしだって——中身を見てもらったことがない、なんて。
自分で言うとは思わなかった。
ずっと外側ばっかり磨いてきた。
笑って、からかって、距離を詰めて。
それがあたしの得意技だった。
二葉には理論武装があった。
三桜には飾らないまっすぐさがあった。
あたしには——笑顔があった。
笑顔しか、なかった。
でもあの子が正面からぶつかってくるのを見て、気づいてしまった。
あたしの武器は、リオンに届いていたのか。
その答えに向き合うのは——もう少しだけ、先でいい。
「……ねえ」
自分の声が、思ったより小さかった。
「あたしたちさ、別に仲間割れしたいわけじゃないじゃん」
二葉が顔を上げた。
三桜が涙の滲んだ目であたしを見た。
「篠崎さんが本気なのはわかった。二葉の正論が全部じゃないのも。三桜があの子を嫌えないのも。……あたしが、うまく笑えてなかったのも」
言葉にすると、ぜんぶ情けない。
「あたしの手管なんてさ。あの子のまっすぐさの前だと、紙切れみたいなもんだったし」
何にもまとまっていない。
でも情けないのは三人とも同じだった。
「でもさ、ひとつだけ」
マグカップを置いた。
ことり、と音がリビングに落ちた。
「リオンのこと好きなのは、三人とも同じでしょ」
当たり前のことだった。
当たり前すぎて、今まで声に出す必要すらなかった。
でも当たり前のことをちゃんと声に出すのは、こんなに勇気が要るものだと知らなかった。
三桜が涙を拭いながら、小さく、でもはっきり頷いた。
二葉が目を細めた。
否定の余地がなかったんだろう。
唇がわずかに動いて、何か言いかけてやめた。
それから、ほんの少しだけ顎を引いた。
二葉なりの、精一杯の肯定だった。
「足並みなんか揃わなくていいよ。あたしはあたしのやり方で行く。二葉は二葉の、三桜は三桜の」
自分で言いながら、ちょっとだけ笑えた。
何も決まっていない。
作戦なんかない。
同盟でもない。
「ただ——方向だけ。同じほうを向いてるってことだけ、忘れなきゃいい」
沈黙が、ほんの少し軽くなった。
三桜が鼻をすすって、タオルで顔を押さえた。
「……うん。うん……っ」
二葉がカップを持ち上げて、一口だけ飲んだ。
「……まあ。それくらいなら」
二葉にしては、ずいぶん譲った言い方だった。
それが嬉しくて、あたしはまた少しだけ笑った。
「あ、でも先に言っとくけどさ。抜け駆けは無しだからね」
「……どの口が言うのかしら」
「なにそれ。二葉こそ、テスト前に散々——」
「私、月曜……お弁当、作る」
鼻声のまま、三桜がぽつりと言った。
「気合入れて、いっぱい作るの。リオンの好きなおかず、ぜんぶ入れる」
泣きながら、もう明後日の朝の献立を考えている。
「ちょっと。今のがいちばん抜け駆けじゃん」
「……お弁当は、抜け駆けに入りません」
泣き腫らした顔のまま、三桜がきっぱり言い切った。
二葉が小さく吹き出して、あたしもつられて笑ってしまった。
いちばん泣いていた子が、いちばん先に前を向いている。
夜は深かった。
テレビはつけなかった。
でも、沈黙の色がさっきまでとは違っていた。
少しずつ、ぽつぽつと、どうでもいい話が混じり始めた。
明日の朝ごはんの話とか、洗剤がもうすぐ切れるとか。
何の意味もない日常の言葉が、夜のリビングの温度をほんの少しずつ上げていった。
三桜が先にソファの上でうとうとし始めて、膝を抱えたまま丸くなった。
タオルを肩にかけたまま。
まだ髪が少し湿っている。
風邪ひくよ、と言おうとして、やめた。
二葉がブランケットを取りに行って、黙って三桜の肩にかけた。
あたしが言わなくても、二葉はちゃんと気づいている。
あたしはそれを見ていた。
こういうとき、あたしたちは姉妹なんだと思う。
恋で引き裂かれるかもしれない。
明日からまた三人とも別のことを考えるだろう。
でも、こういう夜があるかぎり、まだ壊れない。
窓の外に、街の灯りがぼんやり見えていた。
足並みは揃わない。
月曜の朝になっても、きっと揃わない。
それでも三人の視線の先には、同じ人がいる。
綾瀬家のリビングに灯りが落ちたのは、ずっと後のことだった。




