第58話 誠のいない数分、女たちの本気
ドリンクバーのカウンターは、廊下の突き当たりにあった。
トレーにグラスを四つ並べる。
氷を落とすと、からん、と乾いた音が鳴った。
コーラ、ウーロン茶、メロンソーダ、カルピス。
指折り数えたはずなのに、不安になってもう一度並びを確認した。
コーラは一花さん。
ウーロン茶が二葉さんで、カルピスが三桜さん。
メロンソーダは篠崎。
別にメモなんて取っていない。
いつの間にか、迷わずに注げるようになっていた。
——いや、いつの間にか、じゃない。
覚えようとしたのは、俺のほうだ。
四人ぶん。
たったそれだけの注文が、やけに嬉しい。
蛇口からコーラの黒い液体が泡を立てて落ちるのを眺めながら、息を吐いた。
——楽しかったな。
テスト明けの祝い、とか。
打ち上げ、とか。
理由なんて何でもよかった。
五人でただ馬鹿みたいに歌って笑って、それだけの土曜日の午後が、こんなに胸を満たしてくれるとは思わなかった。
四人が笑っている。
それだけで、全部報われた気がした。
メロンソーダの緑が泡を吐き、カルピスの白がグラスに沈んでいく。
ウーロン茶を注ぎ足して、最後にコーラの泡が収まるのを待った。
グラスの表面に結露が浮き、指先からトレーへ水滴が一筋伝っていく。
トレーを持ち上げて、廊下を戻る。
——異変に気づいたのは、自分たちの個室の前に差しかかったときだった。
音楽は流れている。
モニターからの曲はかすかに聞こえるのに、歌声がしない。
さっきまであれだけ騒がしかった部屋が、曲だけを空回りさせている。
ほんの数分前まで、扉一枚でも抑えきれないほど賑やかだったのに。
足が止まった。
扉の隙間から——声が、漏れていた。
「だからさ、誠が戻ってきたら、次はあたしが隣ね」
一花さんだった。
「ずるいよ、一花お姉ちゃん。さっきデュエットしたばっかりじゃん。次は私が隣にいくの」
「二人とも、いい加減になさい」
二葉さんの、溜息の混じった声。
「座席の配置ひとつで、みっともないわ。そんなことでマコトの評価が変わるとでも思っているの」
——いつもの光景だ。
扉の前で、口元が緩みかけた。
開けた瞬間には、三人とも素知らぬ顔でこっちを見るのだろう。
「……綾瀬先輩」
篠崎の声が、三人の応酬を断ち切った。
低い声だった。
言い争いの熱ではない。
たったそれだけの呼びかけで、扉の向こうの空気が入れ替わったのがわかった。
トレーの端を握り直し、息を潜めた。
「——センパイがいない今だから、はっきり言わせてください」
俺の知っている篠崎の声では、なかった。
はしゃぐような弾みも、人懐っこい甘えも、きれいに消えている。
芯だけで立っているような響き。
聞き間違いであってほしかった。
けれど、足が動かなかった。
「私、後輩だからって遠慮しません」
一拍の間があった。
誰も、茶化さなかった。
「相沢センパイのこと、本気で好きです。三姉妹そろっていても、私は私で、勝ちにいきます」
——心臓が、跳ねた。
周りの音が、すっと遠のいた。
いや——たぶん、耳が勝手にそれ以外を消していた。
声を荒げていない。
だからこそ、芯が太い。
いつもの人懐っこい後輩の鎧を、完全に脱ぎ捨てた声だった。
あの「センパイ、センパイ」とはしゃいでいた篠崎が——こんな声を、持っていたのか。
「……あはは。なに急に、冗談キツいんだけど」
一花さんの声だった。
笑い飛ばそうとして、語尾が上滑りしている。
「後輩ちゃん、可愛いけどさ。ちょっと背伸びしすぎじゃない?」
余裕を、纏おうとしている。
けれど声の端が、かすかに震えていた。
「あたしは別にいいのよ。こういうの、慣れてるし」
慣れている。
そう言い切る声は、もう余裕を纏っていなかった。
「あたしたちは、ずっと——」
言いかけて、止まった。
数秒の沈黙が落ちる。
それから、搾り出すように。
「……あたしさ、自分の中身、ちゃんと見てもらったこと、たぶん、ないんだよね」
一花さんの声が、急に小さくなった。
言ってしまってから自分で驚いたように、言葉が途切れる。
口元を手で押さえたのかもしれない——声がくぐもって、続きは聞こえなかった。
いつもあるはずの笑いの芯が、きれいに抜け落ちていた。
あの放課後の空き教室で聞いた、仮面が外れかけたときの響きが、耳の奥によみがえった。
「あなたはまだ一年生でしょう」
二葉さんの声が、静かに割って入った。
「テスト明けの解放感で、一時の熱を運命だと錯覚しているだけよ。マコトの負担を考えるべきだわ。先輩に余計な重荷を——」
「それ、本当にセンパイのためですか?」
篠崎の声が、二葉さんの言葉を遮った。
刃物のような声ではなかった。
まっすぐな目で見つめているのが、声の質感だけでわかった。
「それとも——自分の気持ちが重すぎるのを、理屈で隠したいだけじゃないですか?」
ひゅっ、と息を吸う音がした。
「いつも先回りして、世話を焼いて、全部を把握していないと落ち着かない。……そういう重さを、効率とか合理性とかっていう言葉に置き換えてるだけですよね」
沈黙が落ちた。
長い、沈黙だった。
冷房の低い唸りだけが、廊下まで聞こえていた。
グラスの氷が、ぱきり、と小さく鳴った。
俺の手の中のトレーのほうだった。
何かがテーブルの上を滑る小さな音がした。
リモコンだろうか。
二葉さんが無意識に手を動かしている気配だけが、微かに伝わってくる。
あの二葉さんが——いつだって的確な言葉を持っていたはずの二葉さんが、言葉に詰まっている。
二葉さんに渡された、手書きの計画表を思い出した。
俺の苦手なところまで拾い上げて、一日単位で刻まれていた。
あれを効率と呼んでいたのは、二葉さん自身だった。
「やめて!」
三桜さんの声だった。
張り詰めたものを、真ん中から裂くような響きだった。
「……心花ちゃんの、こと」
震えていた。
さっき歌っていたときよりずっと小さくて、そのぶん隠すものがなかった。
ひとつ息を飲み込もうとして、飲み込みきれなかった。
「嫌いに、なれない……っ」
鼻をすすり上げる小さな音が、扉越しに聞こえた。
こらえきれずに、ぽろりとこぼれ落ちたものが声の端に混じっている。
「モールで一緒に回ったのも、楽しかったの。……あれ、嘘じゃないよ」
指でグラスを握りしめている音が、かすかに聞こえた気がした。
「でも……っ、誠くんは……っ、譲るなんて、言えないよ」
声が裏返りかけて、三桜さんが唇を噛んだ気配がした。
泣きながら、自分でも整理できていない感情を、初めて言葉にしている。
好きな子を嫌いになれない。
けれど好きな人は渡せない。
その二つが、混ざらないまま三桜さんの中でぶつかっている。
どちらも本物だから、どちらも捨てられない。
篠崎が、ほんの一瞬だけ息を呑んだ気配がした。
それから、何か短く答えた。
声が小さすぎて、言葉までは聞き取れなかった。
けれど一瞬だけ間があいた——あの真っ直ぐな声が、ほんの少しだけ揺らいでいた。
——俺は、廊下で立ち尽くしていた。
いつから呼吸を止めていたのか、自分でもわからなかった。
トレーの上でグラスがかちゃりと鳴って、慌てて手に力を込めた。
胸が締めつけられていた。
息を吸うと、冷房の冷たい空気がやけに鋭く肺を刺した。
返す言葉を、俺は持っていなかった。
返す立場にも、なかった。
これ以上、聞いてはいけない。
俺がいない場所で、俺のために張り詰めている声だ。
聞いていい話じゃない。
静かに一歩、後ろへ下がった。
もう一歩。
トレーを持ち直して、わざと足音を立てた。
聞かなかったことにする。
そう決めた。
数歩ぶんの廊下を、靴底を鳴らしながら戻る。
何食わぬ顔で——作れているかは、わからない——ドアの前に立った。
軽く息を整えて、ドアノブに手をかける。
掌が、少し汗ばんでいた。
「悪い、待たせた」
扉を開けた瞬間。
「おかえりー!」
三桜さんが、笑っていた。
「遅いってばー」
一花さんが、片手を振った。
「次の曲、もう入れちゃいましたよ!」
篠崎が、リモコンを掲げてみせた。
——ついさっきの声が、もうどこにもなかった。
一花さんが伸びをひとつして、ソファにもたれかかる。
「……んーっ、ほんと、待ちくたびれたっしょ。ペナルティとして、誠のジンジャーエール一口もらうからね」
「やめなさい、一花。……行儀が悪いわよ」
二葉さんが髪を耳にかけて、涼しい顔でこちらを見ている。
ついさっきまで言葉に詰まっていた人間と同じ目では、なかった。
三桜さんの目元がわずかにしっとりしていたが、手の甲でさっと拭って「ありがとう」とカルピスを受け取った。
「えへへ、冷たくて美味しい……。誠くん、ちゃんと覚えててくれたんだね」
「あ、センパイ! 次、私と一緒にデュエットですからね!」
あの宣戦布告と同じ指が、今はリモコンを軽快に叩いていた。
笑っている。
全員が。
完璧な笑顔だった。
示し合わせたわけでもないのに、息の合った切り替え。
明るくて、賑やかで、いつものカラオケの続き。
完璧すぎて、逆に胸が痛んだ。
——気のせいだったら、どんなにいいか。
引きつった笑みを浮かべて、席に戻った。
残りのグラスを配る。
コーラ、ウーロン茶、メロンソーダ。
全部、正しい手に渡った。
何ひとつ間違えていないのに、注いでいたときの浮ついた気分は、もうどこにもなかった。
指が少しだけ震えていたけれど、たぶん誰も気づいていない。
何曲か歌った。
「センパイ、次はコーラスお願いしますね! はい、マイクですっ!」
「あ、心花ちゃんずるい……っ。次は私が誠くんと一緒に歌うんだから」
篠崎がもう一曲、三桜さんがもう一曲。
「はいはい、順番ね。三桜、次はあたしとデュエットっしょ。誠は大人しく拍手係やってて」
「……マコト、手拍子が少し遅れているわ。ちゃんとリズムに合わせて」
一花さんが煽り、二葉さんがタンバリンを振る。
盛り上がりは、あった。
俺も笑っていた。
確かに、笑っていた。
声を出すたびに、廊下で聞いたものが薄紙一枚で隔てられているだけだと思い知らされる。
——笑い方がどこか、ぎこちなかった。
俺だけかもしれない。
俺だけが、おかしいのかもしれない。
そう思おうとしたのに、一花さんの声はほんの少しだけ高すぎたし、二葉さんのタンバリンは刻む音がいつもより硬かった。
三桜さんは笑うタイミングがわずかに遅れて、篠崎だけがいつも通りに見えた。
いつも通りすぎるのも、それはそれで不自然だった。
ひとつひとつは、些細だった。
でも四つ重なると、些細では済まなくなる。
さっきまでの祝祭の空気とは、何かがほんの少しだけずれている。
その正体を、俺は掴みかけて、結局つかめなかった。
フリータイム終了の電話が鳴ったとき、全員がどこかほっとしたように息を吐いた。
俺も——たぶん。
五人で会計を済ませ、カラオケボックスの自動ドアを出ると、傾きかけた西日が駅前のロータリーを照らしていた。
冷房漬けの肌に、ぬるい外気がまとわりついた。
「今日は楽しかったです、センパイ!」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「はいっ! また月曜日、学校で!」
篠崎が元気に手を振った。
反対側の改札口へ小走りに向かっていく背中が、小さく弾んでいる。
——あの声を出した人間と同じだとは、とても思えなかった。
「じゃあ、私たちも帰るわ」
「……ああ。今日は、お疲れさま」
「ええ。マコトも、しっかり休みなさい」
二葉さんが短く言って、歩きはじめた。
「月曜、寝坊しないでよ?」
「うん。……また学校でね、誠くん」
一花さんが「またねー」と片手を振り、三桜さんが小さくお辞儀をする。
三姉妹が、当然のように並んで同じ方向へ歩いていった。
同居だから、当たり前だ。
帰り道が同じなのは、当たり前。
——なのに。
ロータリーから見送った三人の背中は、足取りこそ揃っているのに、三人のあいだの距離だけが、いつもより半歩だけ広く見えた。
理由なんて、わからない。
わかるはずがない。
俺は数分、席を外していただけだ。
ただ、扉の向こう側の声を、聞いてしまっただけだ。
角を曲がるところで、三人の背中が夕暮れの雑踏に紛れて消えた。
その夜、綾瀬家のリビングは、遅くまで灯りが落ちることはなかった。




