第57話 四者四様の歌、廊下の静けさ
デュエットの余韻も冷めないうちに、篠崎が身を乗り出した。
照明が少し落ちて、次の曲を待つあいだの、居心地の悪くない空白。
その静けさを一番先に破るのが篠崎という並びは、もうこの部屋の暗黙のルールみたいになっていた。
「次、二葉先輩ですよね? 歌ってください!」
篠崎がマイクを差し出す。
二葉さんは受け取らずに、視線だけをそちらへ向けた。
「私はパスするわ。歌う必要性を感じないもの」
「はい出たー、二葉の合理武装」
一花さんがソファの背に肘をついて、にやりと笑う。
「もしかしてさ。本当は音痴だから逃げてるだけだったりする?」
二葉さんの眉が、ぴくりと動いた。
「……私が音痴?」
「じゃあ証明してみせてよ。はい、多数決。二葉に歌ってほしい人ー?」
一花さんが真っ先に手を挙げ、篠崎が勢いよくそれに続く。
三桜さんも、おずおずと手を上げた。
俺と目が合って、口だけがごめんねと動いたけれど、手は下ろさない。
「……卑怯よ」
細く息を吐いて、二葉さんが篠崎の手からマイクを取り上げた。
「一曲だけよ」
選んだのは、古いバラードだった。
正直、意外だった。
もっと理知的な——たとえばジャズとか、クラシカルなものを予想していた。
二葉さんが歌い始めた瞬間、部屋が静まった。
低めの声が、驚くほど澄んでいる。
感情を抑えた歌い方なのに、ひとつひとつの音が透き通って、胸の奥に落ちてくる。
急がず、言葉をひとつずつ丁寧に置いていくような歌い方だった。
サビの高音をあっさりと拾い上げた声が揺れもしないのを聴いて、一花さんが小さく目を見開いた。
誰も手拍子を打たなかった。
打てなかった、が正しい。
篠崎が口を開けたまま固まっている。
三桜さんは膝の上で両手を組んで、息をするのも忘れたみたいに画面を見つめていた。
リモコンを置いた一花さんが唇を噛んでいるのが、視界の端に映る。
——音程が正確であることが、こんなに胸を締めつけるものだとは知らなかった。
最後の音が消えて、数秒だけ沈黙が続いた。
それから篠崎が「……すごい」とぽつりとこぼした。
弾かれたように拍手が起きて、三桜さんの手のひらの音がいちばん大きかった。
「二葉ちゃん、すっごく綺麗だった……! 聞き入っちゃったよ」
「……大げさね。普通に歌っただけよ」
「二葉、なんで今まで隠してたのよそれ」
一花さんの声が、わずかに掠れていた。
俺も、まだ歌の余韻から抜け出せずにいた。
「二葉さん、本当にすごかった。なんていうか、引き込まれた」
「隠していたわけではないわ。機会がなかっただけ」
マイクをテーブルに戻す二葉さんの耳の先が、ほんのりと色づいている。
指がリモコンにかちゃりと触れて、手が行き場を失ったように膝の上に戻った。
「……別に。合理的に、練習しただけよ」
「練習でこれなの? ねえ二葉、どんだけ歌い込んでるのよ」
「そんな大層なものではないわ。入浴中の反響効果を利用して、少し発声のテストをした程度よ」
「それ、お風呂で熱唱してたってことじゃん」
「……やかましいわ」
三桜さんが小さく吹き出して、慌てて口を押さえた。
——合理的に練習しただけでは、たぶん説明がつかない。
あの歌声の奥で揺れていたものは、練習量とは別の場所から来ている。
練習は、きっとしたのだろう、と思う。
でも、その練習を始めた動機のほうは、たぶん二葉さん本人もまだ、明確には自覚できていない。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
「よーし、じゃあ次は私です!」
篠崎がソファから跳ね起きて、マイクを両手で掴んだ。
「みんな、ノリは任せてくださいね!」
選んだのは、テンポの速いアニメソングだった。
イントロが鳴った瞬間から、篠崎の空気が変わる。
小柄な体が弾むように揺れて、大きめのシャツの裾がひらひら舞う。
声量がこの部屋には過剰なくらいで、壁が振動しそうだった。
間奏でくるりと振り返って、こちらに指を突きつける。
「センパイ! ここ、コール入れてください!」
「コールって何を——」
「いいから! せーのっ!」
何がなんだかわからないまま「はい!」と叫ばされた。
三桜さんもつられて「はいっ!」と叫び、一花さんが笑いながら手を振り、二葉さんまでタンバリンを手に取っていた。
——篠崎のこの巻き込み力は、なんなのだろう。
教室に乗り込んできた時も思ったが、この子の全力には抗えない何かがある。
気づけば五人全員が手を叩いて声を出していて、誰の顔にも歌うとか歌わないとかの壁がなくなっている。
歌い終わった篠崎が、額の汗を拭いながらぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございましたー! ——よし、空気できました!」
「なんでお前もライブなんだよ」
「三桜先輩と被りましたね!」
「もー、心花ちゃん元気よすぎだよ! 私、途中で息切れしちゃった」
「先輩たちが合わせてくれたおかげですよ! あ、でもセンパイ、コールのテンポが半拍遅れてましたからね!」
「無茶振りされて対応できるわけないだろ」
三桜さんと顔を見合わせて、二人で笑った。
同じくらい息が上がっていて、同じくらい顔が赤い。
そこから先は、もう歯止めが利かなかった。
「次はあたしと誠でもう一曲いこ! さっきのリベンジ!」
「じゃあそのあとは、私とセンパイでデュエットですね!」
「……組み合わせの効率を考えなさい。マコトの休憩時間がゼロになっているわ」
「ええーっ、二葉ちゃんも誠くんと歌いたいだけでしょ?」
「……合理的なローテーションの提案よ」
言いながら、二葉さんが俺のグラスを手元へ滑らせてくる。
「あなたたち、マコトの喉をなんだと思っているの。……ほら、水分補給をしておきなさい」
三人が声を揃えて返事をしたのに、五秒後にはもう次の曲が入っていた。
俺はそのたびにアンコールに引きずり込まれて、知らない曲を無理やり歌わされた。
部屋中に笑い声が充満していた。
テスト前の張りつめた空気も、四人のあいだにある火花も、今だけは全部、歌と手拍子と笑い声に溶けて消えている。
三桜さんが二曲目で高音を外して笑い転げ、一花さんがラップに挑戦して盛大に噛み、篠崎がバラードに挑んで「やっぱ無理です!」と叫んで曲を切り替えた。
二葉さんだけが二曲目も完璧に歌い上げて、三人からブーイングされていた。
当人は涼しい顔を崩さないのに、得意げに唇の端がわずかに上がっているのを俺だけが見つけた——つもりだった。
——楽しいな。
当たり前のことを、当たり前に思った。
四人が笑っている。
それだけで、数学も古典も英語も、全部の報いが返ってきた気がした。
——この五人でよかったな、と思った。
この距離感がどこに行き着くのかとか、その先のいろいろとか、そういうことを全部忘れていい時間が、確かにここにあった。
ひとしきり歌い尽くして、グラスの氷が溶けきった頃。
部屋の空気がゆるやかに緩んで、四人がソファの背もたれに沈み込んでいた。
「喉渇いたな……ちょっと飲み物取ってくる。みんな、何か飲むか?」
「あたしコーラ!」
「私はウーロン茶をお願い」
「私はカルピスがいいなっ」
三人が次々とリクエストを飛ばしてくる。
「私、メロンソーダでお願いします!」
「わかった。ええと、コーラ、ウーロン茶、カルピス、メロンソーダ、な」
「誠くん、覚えられた? 一緒に行こっか?」
「大丈夫だ、それくらい覚えられる」
立ち上がると、四人がソファに並んで笑っているのが見えた。
テーブルの上にはタンバリンと空のグラスが散らばっていて、壁のモニターにはスコア画面が残っている。
一花さんが三桜さんの肩にもたれかかり、篠崎が二葉さんのタンバリンを借りてふざけて振り、二葉さんがそれを呆れ顔で取り返そうとしている。
すぐ戻ってくるのに、その光景がやけに眩しかった。
四人が、こちらに気づかないまま笑っている。
モニターの光が、四つの顔を等しく明るく照らしていた。
ドアノブに手をかけて、部屋を出た。
背中で、ドアが閉まる。
楽しげな歌声と笑い声が、一枚の壁を隔てただけで、ぐっとこもって遠くなった。
廊下は空調の低い唸りだけが流れていて、カラオケの喧騒がドア一枚で遮られる。
ドリンクバーまでの短い廊下を歩きながら、まだ耳の奥で手拍子が鳴っている気がした。
足音がやけに響く。
さっきまでの賑やかさと打って変わった静けさに、体が追いつかない。
——さっさと戻ろう。
飲み物を持って、また歌えばいい。




