第56話 震えるマイクと、重なるサビ
土曜日の駅前は、テスト期間の重苦しさが嘘のように晴れていた。
人混みの声と改札の電子音が入り混じって、空気そのものがどこか浮き足立っている。
頭の上ではアナウンスが流れ、駅ビルの壁面ビジョンがやけに明るく光って見えた。
集合時刻の十分前。
改札を出ると、すでに二葉さんが柱のそばに立っていた。
白いブラウスに紺のスカートという落ち着いた私服姿で、制服のときよりほんの少し大人びて見える。
生地の質感が一目で上等なものだとわかるあたり、二葉さんの私服選びまで律儀だった。
文庫本を片手にこちらを見つけると、栞を挟んで鞄にしまった。
「早いわね」
「二葉さんのほうが先だろ」
「遅刻されると全体の効率が落ちるから、余裕を持っただけよ」
要するに、早く来すぎたらしい。
言い訳が律儀なところが、いかにも二葉さんだった。
「誠くーん!」
弾む声とともに、階段を駆け下りてきた三桜さんが俺の腕にしがみついた。
ベビーパウダーに似た甘い匂いがふわりと広がる。
白いワンピースにカーディガン、胸元にちいさなリボンのブローチ。
駆けてきた勢いのまま胸元のリボンが揺れて、その細部だけで三桜さんが今日のためにどれだけ準備したかが伝わってきた。
息を切らせて見上げる顔が、もう満面の笑みだった。
「今日、すっごく楽しみにしてた!」
「わかったから、ちょっと離れ——」
「やだ。テスト頑張ったもん」
聞く耳を持たない笑顔に反論を諦めかけたところで、反対の腕にべつの重みが加わった。
「あたしも来たよー。誠、なに三桜だけ甘えさせてんの」
一花さんがひょいと右腕に絡みつく。
オフショルダーのトップスから覗く肩に、甘い柑橘の香水が薫った。
デニムのショートパンツに厚底サンダル、教室で見る姿とはまるで別人だった。
たった一日の私服で、こちらの距離感が勝手に揺さぶられる。
「……誠くんずるい、一花お姉ちゃんだけ反応するー」
「だって誠、三桜には『離れろ』って言ってたのに、あたしの時は無抵抗だもんね」
「してない。してないぞ。そもそも一花さんは急に絡みついてくるから——」
「していたわよ」
二葉さんが、感情の読めない声で横から刺した。
文庫本を鞄に入れた手がまだ持ち手を握ったまま離れていない。
「マコトが動揺していたのは、客観的な事実よ」
「だから、びっくりしただけだって」
「へえ? じゃあ、もう一回びっくりさせてあげよっか?」
一花さんがにやにやしながら、さらに腕の密着度を上げてくる。
薄いオフショルダーの布越しに、予想以上の柔らかさと熱が押し当てられて、変な声が出そうになる。
三桜さんが「ああっ、一花お姉ちゃんだけずるい!」と俺のもう片方の腕をきゅっと抱き込んだ。
両側から挟み込まれて、逃げ場がない。
「センパーイ! おまたせしました!」
最後に篠崎が、手を振りながら小走りで駆けてきた。
オーバーサイズの半袖シャツにハーフパンツ、小柄な体が余った布の中で泳いでいる。
飛びつこうとして両腕が塞がっているのを見て、ぴたりと止まった。
「……両腕ふさがってますね」
「すまん」
「じゃあ背中もらいまーす!」
ぽすん、と背中に額を押しつけられた。
やわらかい生地の感触と一緒に、甘いシャンプーの匂いが首筋をくすぐる。
背中にかかる小さな重みが、心地よかった。
「ちょっと篠崎さん、抜け駆けよ」
「抜け駆けじゃありません! 空いてる場所を活用しただけですっ!」
「いいから、三人とも一回離れてくれ……!」
こうして五人が揃った。
夏前の日差しが駅前のタイルに白く照り返していて、五人の影が一つの塊みたいに重なった。
二葉さんが予約していたカラオケは、駅から三分の雑居ビルの四階。
ロビーは週末特有の喧騒で、甘ったるい芳香剤の匂いと、どこかの部屋から漏れてくる低音が、足元をかすかに震わせていた。
受付で受け取った部屋番号の札を握りしめて、エレベーターのボタンを押すまでが、もう小さな冒険だった。
個室のドアを開けて荷物をソファに下ろす。
「誠、あたしの隣座りなよ」
「マコトの左隣は私の指定席よ。一花は反対側にしなさい」
「ええーっ、じゃあ私、誠くんの正面がいい!」
「じゃあ私は、センパイのお膝の上で!」
「篠崎、お前はとりあえずちゃんと座れ」
わあわあ言い合いながら、それでも全員が思い思いの場所に落ち着いた。
二葉さんが部屋をひととおり見渡して、それから顔を上げる。
「先に飲み物を取ってきましょう。歌い出すと、席を立ちにくくなるから」
律儀な仕切りに従って、五人でドリンクバーへ列を作る。
一花さんが真っ先にコーラのレバーを引き、二葉さんが迷いなくウーロン茶のボタンを押した。
篠崎はメロンソーダの緑を、グラスの縁ぎりぎりまで注いでいる。
「うわ、その色。あらためて見るとすごいね」
「テンション上がる色って、大事なんですよ!」
三桜さんはウーロン茶の前でいちど指を止めて、それから隣のカルピスを押した。
「……甘いほうが、好きだから」
言い訳みたいに小さく呟いて、白がグラスに落ちていくのを嬉しそうに眺めている。
グラスを抱えて部屋に戻り、氷の音を鳴らしながらテーブルに並べていく。
それだけのことが、びっくりするくらい楽しかった。
テスト期間の五日間が、もう何週間も前のことに感じる。
浅く腰かけた篠崎の踵が、床から少しだけ浮いている。
本人は気にする様子もなく、両手で抱えたメロンソーダを一気に半分まで空にした。
「さーて、誰からいく?」
一花さんがデンモクを掲げて、部屋を見渡した。
「じゃ、じゃあ……私、先に歌っていい?」
三桜さんがおずおずと手を挙げた。
マイクを両手で握りしめて、ちらちらと選曲画面を見ている。
指の関節が白くなるくらい力が入っていて、背中の強張りがソファからでもわかった。
イントロが流れた。
アイドルグループのポップな曲だった。
最初のワンフレーズ、声がかすかに震えていた。
高音が一瞬ひっくり返って、三桜さんの耳がぱっと赤くなる。
けれど、サビに入った瞬間——まっすぐに声が伸びた。
上手くはない。
音程が怪しいところもある。
けれど一音も誤魔化さない、ひたむきな歌だった。
マイクを握る指にはあれだけ力がこもっているのに、出てくる声だけが不思議と柔らかい。
間奏で、三桜さんがちらりとこちらを見た。
目が合って、ぱっと逸らされる。
耳の先まで赤くなったまま、それでも声は途切れなかった。
震えながらも声を逃がさず、ただまっすぐに届けようとしている。
その不器用な真剣さから、目が離せなかった。
上手いから、というわけではなかった。
気づいたら手拍子を打っていた。
「三桜先輩、いけいけー!」
「三桜、かわいいー! 誠ももっと手拍子しなよ!」
「してるだろ」
隣で篠崎が全力で手を叩き、一花さんが口笛まで吹いている。
二葉さんまで小さくリズムを刻んでいた。
歌い終わった三桜さんが、顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げる。
「ありがとう……ございました……」
「ライブかよ」
「なんか出ちゃった……」
照れ笑いが、どうしようもなく三桜さんだった。
マイクを返す手がまだ震えている。
「三桜先輩、いまの、私めちゃくちゃ推せます」
「お、推せる……?」
「はい! ファン一号、名乗らせてください!」
三桜さんが目を白黒させているうちに、横から一花さんが割り込んでくる。
「三桜、可愛かったよ。誠も聞き惚れてたっしょ」
「一花お姉ちゃん、からかわないでよぉ……。誠くん、変じゃなかった?」
「変じゃない。すごくよかった」
「……マコトがそう言うなら、そういうことにしておくわ」
二葉さんが少しだけ口元を緩めて、タンバリンを机に置いた。
「はい次、あたしの番ね」
一花さんがデンモクを奪い取って、すでに入力を終えている。
「——ってことで、誠。デュエットね」
「は?」
「はい、マイク」
有無を言わさずマイクを押し込まれた。
画面に映ったのは、テンポの速い男女のラブソングだった。
——聞いてない。
「ちょっと待て、俺は歌うなんて一言も——」
「えー、誠、あたしのお願い聞いてくれないの?」
一花さんが上目遣いで覗き込んでくる。
ソファが軋んで、肩と肩の隙間が消えた。
「センパイ、男気見せてくださいよ!」
「誠くん、がんばれー!」
篠崎と三桜さんにまで囃し立てられて、逃げ道は完全に塞がれた。
「サビはハモるからね。外したら罰ゲームだから」
「待て、練習も何も——」
イントロが始まった。
逃げ場がない。
画面の歌詞が、猛烈な速さで流れていく。
「ちょっ、これ速すぎないか」
「大丈夫大丈夫、ノリでいけるって」
大丈夫じゃない。
一花さんが最初のフレーズを歌い出す。
軽やかで、少し鼻にかかった甘い声。
ステージの上にいるみたいに、マイクの持ち方まで堂に入っている。
必死で歌詞を追いかけた。
俺のパートが来るたびに一花さんがにやにやと横を向くのが見えて、声が裏返りそうになる。
ワンフレーズ遅れて飛び込むたびに篠崎が手を叩いて笑い、三桜さんが肩を震わせながらも手拍子だけは律儀に続けてくれる。
二葉さんだけは涼しい顔で座っていたが、こちらを見る目が明らかに面白がっている。
あの二人の手拍子がなかったら、たぶん途中で止まっていた。
サビに差しかかる。
ずっと、あなただけを。
その一節に入った瞬間、一花さんの声が、ふいに変わった。
軽さが消えて、まっすぐな熱が乗った。
からかいも演技もない、胸の底から引き上げたような声が狭い部屋に広がる。
睫毛の影がかすかに揺れて、その奥の目が——一瞬だけ、笑っていなかった。
一拍だけ、横顔に目がいった。
いつもの余裕のある笑みの下にある、なにか剥き出しのものが滲んでいた。
——それに気を取られて、俺のハモりは見事にずれた。
「あーあ、罰ゲーム確定」
歌い終わった一花さんが、けろりと笑う。
「だから練習なしじゃ無理だって言っただろ」
「はいはい、言い訳しない。でも意外と声出てたよ、誠」
「死にかけながらな」
「それ、褒めてるんだよ?」
悪びれもせずに言って、一花さんが人差し指を立てる。
「罰ゲームはあとでゆっくり考えてあげるから、覚悟しときなよ?」
「一花お姉ちゃん、誠くんに変なことさせちゃダメだからね!」
「三桜先輩、過保護ですよ! ここは激辛ジュースとかで!」
「……マコトの胃が荒れるような真似は控えるように」
さっきの声と同じ人とは思えない切り替えの速さだった。
ハイタッチを求められて掌を合わせると、指先がほんの少し熱い。
歌の熱なのか、それとも——いや、考えすぎだ。
一花さんの目がほんの少しだけ潤んでいるように見えたのは、たぶんカラオケの照明のせいだ。
そう思うことにした。




