第55話 ご褒美の綱引き、四つめの手
終了の予鈴が鳴った瞬間、二年B組が沸いた。
あちこちで歓声が弾ける。
隣の席では男子が答案用紙を裏返したまま天井を仰いでいるし、後ろのほうでは早くも答え合わせの輪ができて、やばいあれ三番だったとか終わった終わったとか、悲喜こもごもの声が飛び交っている。
窓の外は六月の午後の白い日差しで、木曜の空がどこまでも広かった。
机に突っ伏していた身体を起こして、大きく伸びをした。
背骨がこきりと鳴る。
五日ぶんの張りつめが、肩から首を抜けて、天井へ溶けていくみたいだった。
——ようやく、終わった。
それだけだった。
気の利いた感想なんて、出てこない。
鞄に問題用紙を突っ込みながら、知らず肩の力が抜けていく。
「やったぁ! 誠、約束通り、デートしてよね!」
背後から弾ける声と足音が重なって、右腕にがしっとしがみつかれた。
振り向く暇もなかった。
一花さんが駆け寄りざまに、俺の腕へ両手で絡みつき、体重ごとぶつかってくる。
椅子が軋んで、机のうえの消しゴムが転がり落ちた。
腕を引かれるまま、中途半端に腰を上げさせられる。
「あ、赤点、回避できたのか?」
「当ったり前じゃん! 二葉の要点まとめ丸暗記したんだから。あたしの暗記力なめないでよねー」
胸を張る一花さんの耳が、ほんのわずかに赤い。
近くの席の男子がこちらを振り返って、おっ、と口笛まじりの声を上げた。
「おい相沢、そこ代われ!」
「綾瀬さーん、見せつけすぎー」
答え合わせの輪から女子の茶化す視線と声も飛んできて、背筋がこわばる。
「い、一花さん、腕……。みんな見てるから」
「やだ。ご褒美なんだから、絶対離さないもーん」
一花さんが、さらにぐっと体重を預けてくる。
制服越しの密着した熱に、心臓がうるさかった。
くすくす笑いが、教室のあちこちから聞こえてくる。
「ねえ誠、今日このあとさ、どっか寄ろ? パーッと打ち上げしよーよ」
「……私もデートしたい」
左の袖を、きゅっと引かれた。
指先で生地をつまむような、控えめな力加減。
右腕を全力で占拠している一花さんとは正反対の、ためらいがちな引力だった。
見下ろすと、三桜さんが上目遣いでまっすぐこちらを見つめている。
「休み時間、ずっと隣にいたんだから」
声は小さいのに、引く気配がまるでなかった。
テスト期間中、休み時間のたびに隣で静かに参考書を開いていた三桜さんの姿が頭をよぎる。
誰かのそばに座り続ける形で、たぶん本人にも自覚のないまま寄り添ってくれていた人だ。
「三桜さんまで……」
「だって、ずるいもん。一花お姉ちゃんだけ」
袖を引く力が、ほんの少しだけ強くなった。
拗ねた声なのに、まっすぐこちらを見る目は揺れていない。
「毎日、ずっと隣にいたのに……。誠くん、一番頑張ったの私だよね?」
上目遣いで念を押してくる必死さに、思わず頷きそうになる。
「あーっ! 三桜、そういうの反則!」
右腕に絡みついた一花さんが、抗議の声を上げた。
そのまま、俺の腕をぐいと自分の方へ引き寄せる。
「誠はあたしと遊ぶの! 三桜、勉強会だってさ、途中で寝落ちしてたじゃん!」
「うぅ……そ、それは……」
痛いところを突かれたのか、三桜さんが頬を赤く染める。
「ね、寝てても……起きたときに、誠くんがちゃんと見ててくれたもん」
聞き取れるぎりぎりの声で抗議して、さらに左の袖を両手で包み込んでくる。
服越しに小さな体温が伝わってきて、言葉に詰まった。
「ちょっと三桜! なんか二人だけの世界に入ってんじゃないよ!」
一花さんが、負けじと肩ごと寄せてくる。
左右から違う力に挟まれて、俺の身体がまた傾いた。
「労われるべきは、計画を立てて指導した私のはずよ」
冷ややかな声が、正面から割り込んだ。
二葉さんが腕を組み、顎をわずかに上げている。
声色は、授業の板書を解説するように落ち着き払っていた。
「あなたたちの一夜漬けの回路が焼き切れない程度に留めておいてあげたんだから、感謝しなさい」
「そんなの、気合いでなんとかなったっしょ!」
二葉さんが、ふっと細い息を吐く。
「投資対効果を考えなさい。あなたたちの赤点回避に、どれだけの工数が注がれたと思っているの」
「でたー、二葉のコスパ論。テスト終わったのにまだ計算してんの?」
「事実の確認に、時節は関係ないわ。マコトのために私が何時間——」
そこで二葉さんの声が、ぴたりと止まった。
言いかけた続きを、自分で飲み込んだのが分かる。
腕を組んだまま、顎の角度は変わらない。
けれど耳がじわりと赤く染まっていた。
工数だの効率だのと言っておきながら、いま出かかったのは、そういう種類の言葉ではなかった。
——全方位に、申し訳ない。
右に一花さん、左に三桜さん、正面に二葉さん。
完全な三角形の真ん中で、俺は赤面するしかなかった。
ご褒美をねだるのにそれぞれの作法があって、どれを選んでもどれかが角を立てる仕組みになっている。
「ねえ誠、悩むってことはさ、あたしが一番ってことだよね?」
一花さんが腕に絡みついたまま、にんまりと笑う。
「ずるい。一花お姉ちゃん、いつもそうやって先に言う」
「別にずるくないもーん。あたしは素直なだけだし」
「むぅ……誠くんは、私と一緒がいいもんね?」
三桜さんが、負けじと左の袖をきゅっと引っ張る。
下から覗き込んでくる潤んだ瞳に、喉の奥がつかえた。
「論理に飛躍がある。悩んでいることと序列は、因果関係がないわ」
二葉さんが、ぴしゃりと遮った。
「一番効率が良いのは、計画立案者である私に還元することよ。マコトもそう思うでしょ?」
「論理に飛躍があるって、それ自分が言いたいだけでしょ二葉ー。だいたい還元ってなによ」
「……事実を述べているだけよ」
二葉さんの耳がまだ赤いまま、声だけが澄ましている。
横目で見つめられて、俺は視線のやり場に困った。
「理屈でごまかしてもダメ! 誠はあたしの隣がいいに決まってるっしょ!」
一花さんが胸元を押し付けるように、右腕をぐっと抱え込む。
腕越しに伝わる柔らかさが主張してきて、思考が一瞬だけ止まった。
「隣は譲らないわ。譲らないうえで、この五日間に誰が何をどれだけ注いだかの話をしているの」
二葉さんが一歩近づいた。
腕を組んだまま、顎の先だけで俺の机を示す。
まるで俺の逃げ場を封じるような、静かな圧があった。
「もう、二人とも強引だよぉ」
「三桜だって、ちゃっかり袖掴んでるくせにー!」
三人の火花が、軽やかに散った。
本格的にぶつかる手前の、まだ、笑いで済むぎりぎりの温度。
教室のあちこちで、解放された生徒たちの笑い声が上がっている。
その賑やかさが、ありがたかった。
この修羅場を、ほどよく薄めてくれている。
「センパイ、テストおつかれさまでしたー!」
教室の戸ががらりと開いて、弾ける声が飛び込んできた。
篠崎だった。
胸の前でぎゅっと拳を握り、敬礼するような姿勢でぴょこんと頭を下げている。
額に薄く汗が滲んでいて、ここまで階段を駆け上がってきたのがわかった。
一年生が二年の教室に堂々と現れた非日常に、近くの席の連中がざわりと振り返った。
「……篠崎? なんでうちのクラスに?」
「おつかれさまを言いに来ました! 理由、いります?」
いらないらしい。
会いたいから来た、以上。
後輩の無敵さが、まぶしかった。
三姉妹の空気が、一瞬で張りつめた。
一花さんの腕にこもる力がわずかに強くなり、三桜さんの袖を引く指がぴたりと止まり、二葉さんの組んだ腕が一段きつく締まった。
さっきまでの笑い混じりの火花が、音もなく凍りついている。
篠崎は三人の変化を一瞥して、それでもまるで怯まない。
むしろ、笑顔が一段明るくなった。
三姉妹を順に見渡してから、俺に視線を戻す。
「全部終わったお祝いに、打ち上げカラオケ行きましょう! みんなで!」
人差し指をぴんと立てて、教室に響くような声で宣言した。
——全部終わったら。
校門前の夕暮れで、篠崎が静かに言った言葉がよぎった。
テストが全部終わったら、私とどこか行ってくれませんか——今、それを回収しにきたのだ。
気づいているのは、たぶん俺だけだった。
「は? あんたも来るの?」
一花さんの声が、刺すように鋭い。
「はい! 綾瀬先輩たちも、いっしょに行きましょ? ね?」
「あのねえ、これはうちらのご褒美なんだけど」
「ライバルですから、当然です」
篠崎がにっこりと微笑んだ。
声は柔らかいのに、一歩も退かない。
目だけが、まっすぐ一花さんを見返している。
「……ライバルってさあ、あたしたちがいつそんなこと認めたわけ?」
一花さんが俺の腕に絡みついたまま、あごを上げて篠崎を見据える。
軽口の形をしているのに、声だけが本気だった。
「認めてもらわなくても、勝手についていきますから!」
篠崎が胸を張って、満面の笑みで言い切った。
遠慮も駆け引きもない言い切りに、一花さんがぐっと言葉に詰まる。
「少し待ちなさい、篠崎さん。論理的な前提が崩れているわ」
二葉さんが腕を組み直して、冷ややかな視線を向けた。
声は少しも荒れない。
淡々と、事実を並べる口調のままだった。
「この打ち上げは、過酷なテスト期間を共に乗り切った当事者をねぎらうための企画よ。当事者でないあなたが加わる必然性はないはず」
「はい、そうですね! 先輩たちがすごく頑張ったの、知ってます!」
篠崎が元気よく頷く。
頷いてから、すうっと息を吸った。
「だからこそ、後輩の私も一緒にお祝いしたいんです! 人数が多いほうが、お祝いも華やかになりますし!」
「華やかさより効率の議論よ。参加人数が増えれば、一人がマコトと共有できる時間は減少するわ。それに、この会合は指導に注ぐ工数を負担した私への還元という目的も兼ねているの。あなたが参入すれば、投資対効果が著しく下がる」
二葉さんが少しだけ前傾して、ぴしゃりと告げる。
「なるほど、投資対効果ですね! すごく勉強になります!」
篠崎が目を輝かせて、うんうんと感心したように頷いた。
理屈で張り合う気なんて、最初から一ミリもない。
「じゃあ、私もこれからたくさん還元できるように、全力で盛り上げますね、二葉先輩!」
「……そういう話をしているのではないのだけれど」
二葉さんの眉が、初めてかすかに寄った。
投げた正論が、片っ端から笑顔で吸収されていく。
しかも篠崎が持ち出したのは、全員で行くカラオケだ。
断れば、こちらが狭量に見える。
本人にその気はまるでないのに、逃げ道だけがきっちり塞がっていく。
人懐っこい後輩の中身を、俺はたぶんまだ半分も知らない。
「だから三桜先輩も、いっしょに行きましょ! ね?」
篠崎の視線が、今度は俺の左袖を掴む三桜さんに向けられた。
「……うぅ」
三桜さんが、困り果てたように左の袖を握り直す。
握ったまま、それ以上どちらへも動かせずにいる。
板挟みになった視線が、俺と篠崎の間であわただしく揺れ動く。
「三桜、無理に合わせなくていいんだからね」
一花さんが横から声をかける。
「そうよ。譲歩は累積するわ。ここで一度呑めば、次からは呑むのが前提になるのよ」
二葉さんもサポートを入れた。
姉二人が、妹を守るように盾を構える。
それでも、三桜さんはもう一度だけ小さくうつむいてから、ゆっくりと顔を上げた。
「……本当は、誠くんを独り占めしたかったけど」
消え入りそうな本音が、ぽつりとこぼれる。
俺の左袖を掴む手が、ほんの一瞬だけぐっと強くなった。
「でも……せっかくみんなで集まるんだもん。みんなで行くほうが、きっと……楽しい、かも」
渋々のようで、けれど嘘ではない声だった。
少しだけ寂しそうで、それでも三桜さんは笑ってみせる。
姉ふたりが、同時に黙った。
「……もう。三桜がそう言うなら、まあ……いいけど」
一花さんが、毒気を抜かれたように肩をすくめる。
右腕に絡みついていた力が、ふっと少しだけやわらいだ。
「……多数決なら、否決はできないわね」
二葉さんも短いため息をつき、組んだ腕をそっとほどいた。
「やった! ありがとうございます、三桜先輩!」
篠崎が両手をぱんと打ち合わせた。
その音が、教室の隅まで軽く跳ねた。
「決まりですね! 土曜日、駅前集合で!」
全員の返事を待たずに、堂々と段取りを進めはじめる。
一花さんが不満げに唇を尖らせ、二葉さんが無言のまま腕を組み直す。
三桜さんは俺の袖を掴んだまま、小さく微笑んだ。
誰も、明確にはノーと言わなかった。
俺はといえば、四人のあいだでおろおろするばかりで、何ひとつ決められないまま流されている。
……いつものことだった。
◇
放課後の昇降口は、解放された生徒たちの足音と笑い声で賑わっていた。
「じゃあ土曜日ね、誠くん。……えへへ、楽しみ」
下駄箱の前で、三桜さんが少し恥じらったように小さく手を振った。
「おう、また土曜にな」
「時間と場所は追って連絡するから。……先に着きすぎないように」
二葉さんが律儀な釘を刺して、三桜さんの隣に並ぶ。
二人が歩き出す背中を見送ると、三桜さんがもう一度だけ振り返って、こくりと小さく頷いた。
「また土曜に、センパイ! 絶対ですよ!」
篠崎は悪戯っぽく笑って元気に手を振ると、一年の昇降口のほうへ駆けていく。
上履きの軽い足音が廊下を遠ざかって、あっという間に見えなくなった。
残されたのは、俺と一花さんだけだった。
靴を履き替えて外に出ると、六月の夕方の風がふわりと吹き抜けた。
昇降口の庇から伸びる影が、アスファルトに長く落ちている。
西の空がうすく橙に滲んで、塀の向こうの街路樹の葉がかすかに揺れていた。
一花さんが、いつの間にか隣を歩いていた。
半歩だけ前に出て、ふいに足を止める。
「……ま、土曜は楽しみにしてるよ、誠」
いつもの軽口だった。
けれど声の輪郭に、ほんの少しだけ硬さが乗っていた。
からかいでも拗ねでもない、確かめるような——あの空き教室の響きの、かすかな残り火。
一拍おいて、その横顔を見ようとした。
もう間に合わなかった。
一花さんはくるりと背を向けて、校門のほうへ軽く駆けていく。
制服の裾が風にひるがえって、栗色の髪が夕方の光を弾く。
その背中が、校門の向こうの橙色に溶けていった。
呼べばたぶん、振り返ってくれた気がした。
——週末、何かが変わる。
言葉にならない予感だけが、胸の底でかすかに揺れていた。




