第54話 テスト期間の夜と、ルナの小さな足跡
明日が最終日だった。
テスト四日目を終えて帰り、夕飯と風呂を済ませて自室に戻ると、時計の短針はもう十時を回っていた。
六畳間は朝の出がけのまま散らかっている。
机の上には模試の解説冊子と書き殴ったノートが重なり、消しゴムのカスが白い粉のようにキーボードの隅に溜まっていた。
飲み干したカフェオレの空き缶が二つ、机の端で傾きかけている。
そのうちのひとつに袖が触れて、かん、と乾いた音がした。
椅子に沈み込んで、両腕を頭の後ろで組んだ。
肩甲骨のあいだが、ぱきりと軋む。
四日ぶんの疲れが背中の底に溜まっていて、動かすたびに重たく揺れた。
深く息をつくと、六月の夜のぬるい空気が、カーテンの隙間から滑り込んできた。
下のキッチンから、とん、とん、と包丁の音が聞こえる。
遠い音だった。
顔は見えないけれど、階下に人の気配があるというだけで、部屋の静けさが少しだけやわらぐ。
時おり蛇口をひねる音が混じって、それからまた、規則正しいリズムに戻っていく。
机の上に目を戻した。
散らかった教材のあいだに、見覚えのある紙束が挟まっている。
二葉さんの手書きの要点まとめだった。
テスト前日の放課後、昇降口で黙って差し出された、あの束。
赤と青と緑の色分けが、蛍光灯の冷たい光に鮮やかだった。
ページの角が少し折れていて、何度も開いた跡がくっきり残っている。
束をめくると、赤ペンで引かれた下線のひとつひとつに力がこもっていた。
書き込みの文字はどれも小さくて、けれど丁寧で、急いだ形跡がない。
最後のページの隅に、小さな字で、苦手な順に並べてあるから上から確認しなさい、とある。
マイナス符号注意——緑の蛍光ペンの注意書きの横に、赤い丸がひとつ添えてあった。
あの赤い丸が、いちばん効いた。
自分でも呆れるほど同じ間違いを繰り返していた解と係数のマイナスが、昨日の数Ⅱでは一発で出た。
正答を書き込んだ瞬間、あの丸が頭の隅でちかりと光った気がした。
赤ペンの点々と、そっけない声と、耳だけ赤かった横顔。
俺の間違いの回数まで覚えていて、苦手の順番まで把握していて。
普通、ここまでやるか、と思いかけて、口の中で苦笑した。
普通かどうかで測るような相手じゃない、二葉さんは。
あの数枚を、二葉さんはひとりで準備したのだろう。
何色ものペンを使い分けて、文字のひとつひとつに、ためらった跡がどこにもない。
その手間の重さに、今さらのように胸の底がじんと温くなる。
ふと、今朝の通学路が頭をよぎった。
一花さんが隣を歩きながら、今日と明日でしょ、頑張んなよ、と言った声。
言葉だけなら、いつもの調子だった。
軽く背中を叩くようなトーン。
けれどそのとき、声の輪郭がほんの少しだけ硬かった。
六月の朝の光は白くて、並んで歩く影が短くアスファルトに落ちていた。
一花さんはそのまま前を向いて、こちらを見なかった。
肩が近いのに、横顔の口元がわずかに引き結ばれていた。
いつもの、ぱっと火の点くような勢いが足りない。
あの放課後の空き教室で聞いた響きが、夜になってまた耳の奥で揺れる。
あたしのこと、ちゃんと見てる?
あのとき漏れかけた、仮面の外れかけた声。
今朝の硬さの奥にも、たぶん同じものが潜んでいた。
何が、とは言葉にできない。
ただ、一花さんの笑顔がふいに途切れる瞬間を、俺はまだうまく受け止められずにいる。
それだけが少しずつ、輪郭を持ち始めていた。
休み時間のことも思い出す。
三桜さんが、チャイムが鳴るたびに、そっと隣に座っていた。
何を話すでもなく、ただ椅子を寄せて並んで参考書を開いているだけ。
分からないところがあれば肩をつついてくるし、解けたらえへへと小さく笑う。
けれど基本は、ただそこにいてくれた。
消しゴムを落としたとき、何も言わず拾って戻してくれた手が、やけに温かかった。
ありがとう、と言ったら三桜さんは小さく首を傾けただけで、もう参考書に目を落としていた。
言葉の少ない子じゃない。
ただ、必要なときには、その首の傾け方ひとつで充分らしかった。
弁当のことで曇った顔が、今日はどこにもなかった。
それが、ただ素直に嬉しかった。
椅子の背にかけたままの制服が目に入って、ポケットに手を入れた。
指先に、かさりと紙の感触が当たる。
チョコレートの空袋だった。
昨日の屋上で、篠崎がくれたビターチョコの最後のひと粒。
帰り道に食べて、空袋だけがポケットの底に残っている。
あと二日、頑張ってください——あの弾ける声が、耳の端にまだ引っかかっていた。
あのときのあと二日が、今夜、あと一日に減っている。
屋上の風と日陰の涼しさが、指先の記憶みたいに残っていた。
空袋をポケットから出して、机の隅に置く。
二葉さんの要点まとめの横に、銀色のしわくちゃの小さな袋が並んだ。
癖で、電源ボタンに指が伸びていた。
ファンが低く唸って、モニターがゆっくり白んでいく。
デスクトップの左下に、見慣れたアイコンがある。
『エデン・オンライン』のショートカット。
マウスに乗せた右手が、無意識にカーソルを滑らせた。
カーソルがアイコンのそばまで届いて——指が、止まった。
テストが終わるまでは、ログインしない。
あの金曜の夜、酒場でルナと交わした約束だ。
指切りの代わりに片手をぴょこんと上げた、小さなアバター。
終わるまではおあずけ、と彼女は打った。
その約束を、俺はまだ一度も破っていない。
二葉さんが俺の苦手を全部拾って要点まとめを作ってくれた。
一花さんが硬い声の奥に何かを押し込みながら、頑張れと言ってくれた。
三桜さんが黙って隣にいてくれた。
篠崎がチョコと一緒に、あと二日と笑ってくれた。
彼女たちがそうやって頑張っている夜に、俺だけ画面の向こうに逃げるわけにはいかない。
自分でそう言い切ってから、少しだけ笑った。
決意というほどのものではない。
当たり前のことを、当たり前に思っただけだ。
マウスから手を離して、背もたれに体を預けた。
背もたれがぎいと鳴って、視界いっぱいに天井が広がる。
蛍光灯がちかちかと瞬いて、六畳間を冷たく照らしている。
……けれど、誘惑は完全には消えなかった。
机の横に放り出していたスマホに、手が伸びた。
画面に触れる前に、一瞬だけ指が宙で止まる。
ゲーム本体ではなく、コンパニオンアプリ。
フレンドの一覧や、プレイヤーの最終ログインが見られるだけの簡易ツール。
これなら本体に入らない。
約束を破ったうちには入らない——自分にそう言い聞かせながら、画面をタップした。
蛍光灯の白の上に、スマホの青がひとまわり冷たく重なった。
フレンドリストが開いた。
並んだ名前の中に、【ルナ】を見つける。
その横に添えられた、小さな表示に目が留まった。
『最終ログイン:昨日 02:17(13分)』
指が止まった。
昨日。
テスト三日目の、未明。
十三分間だけの、短いログイン。
終わるまではおあずけだと、ルナのほうから言ったのに——
一瞬、胸の奥をなにかが掠めた。
うまく飲み込めない、小さな違和感。
ルナがテスト中の真夜中に、ほんの十数分だけゲームに入って、すぐに抜けた。
誰も見ていない時間に、ルナはひとりで画面の前にいた。
入って、すぐに出ていった。
それだけの短い足跡が、画面の中で静かに光っている。
……まあ、息抜きだろう。
俺だって今こうやってアプリを開いている。
夜中にふと、覗いてみたくなる日くらいあるはずだ。
その気持ちなら、わかる。
それだけのことだ。
違和感には自分で蓋をして、それ以上は追わなかった。
アプリを閉じると、スマホの画面が暗くなった。
手元から青白い光が消えて、蛍光灯だけの六畳間に戻る。
スマホを机の端に伏せて、小さく息をついた。
結局一度も触らなかったマウスの横で、電源ボタンを長押しする。
ファンの唸りが尻すぼみに消えて、モニターが黒に落ちた。
椅子から立ち上がって、部屋を見渡す。
六畳間は相変わらず散らかっていた。
蛍光ペンの緑が滲む要点まとめ。
銀色のチョコの空袋。
今朝の通学路の、硬い声。
休み時間の、隣の温もり。
机の上に二つ、頭の中に二つ。
四人の気配が、ばらばらの形で部屋に居座っている。
「……終わったら——」
口をついて出かけた言葉を、自分で止めた。
まだ早い。
何を約束しようとしたのか、自分でもはっきりしない。
ただ、明日が終わったら何かが変わる予感だけが、胸の奥にぼんやりと灯っていた。
小さく首を振って、布団を引っ張り出した。
歯を磨いて戻り、蛍光灯の紐を引く。
ぱちん、と音がして、白い光が消えた。
カーテンの隙間から、街灯のぼんやりした光が天井に細い筋を落としている。
布団に潜り込んで、仰向けになった。
枕に頭を沈めると、四日分の張りつめたものがゆっくりほどけていくのがわかった。
天井を見上げる。
シーツはひんやりしていて、夜の空気が首筋に触れる。
目を閉じると、下のキッチンの水音も、遠くの電車の響きも、少しずつ薄くなっていく。
窓の外で風が枝を揺らす音だけが、かすかに残っていた。
明日が最終日だ。
あと一日。
眠気が静かに降りてくる。
まぶたの裏に、誰の顔も浮かばなかった。
ただ温かくて少しだけ騒がしいものが、胸の奥でゆっくりと静まっていく。
凪いだ水面の、ずっと底のほう。
あの未明の十三分だけが、まだ沈みきらずにいた。




