第53話 三日目の昼、ふたり分の追い風
午前の最後のチャイムが鳴った瞬間、二年B組にため息が降った。
テスト三日目。
現代文と数Ⅱを終えて、昼休み。
シャーペンを置いた指先が、まだわずかに汗ばんでいる。
三桜さんは机に突っ伏して動かない。
一花さんは「脳みそが蒸発した」と言い残して教室を出ていった。
二葉さんの姿も見えない。
午後に備えて、ひとりで仕上げに入っているのだろう。
スマホが震えた。
篠崎からだった。
「屋上、空いてます! 来てくださいっ」
笑顔のスタンプが三つ並んでいる。
鞄に財布だけ突っ込んで、教室を出た。
階段を二つ上がって、屋上への防火扉を押し開ける。
六月の陽射しが目を刺した。
コンクリートの床が太陽に灼かれて白く光っていて、風が思ったより強い。
テスト期間で部活は休みだから、校庭に人影はなかった。
誰もいない屋上の、金網のそばに、篠崎が座っていた。
膝の横にコンビニの袋をきちんと並べて、隣の日陰を最初から空けている。
こちらに気づいた途端、ぱっと顔が弾けた。
「センパーイ! こっちです!」
手を大きく振って、ぱたぱたと隣のコンクリートを叩く。
金網の影に腰を下ろすと、焼けた日向との温度差がそのまま肌に触れた。
コンクリートはひんやりとしていて、頭上を吹き抜ける風が汗をさらっていく。
「はい、どうぞっ。テスト中だからこそ、糖分です!」
篠崎が袋の中身を広げた。
紙パックの冷たいカフェオレ。
瓶のラムネ。
小袋のチョコレートが二つ。
袋の底には、小さな保冷剤が敷いてあった。
紙パックの表面に結露が浮いていて、指先で触れるとひやりと冷たかった。
六月の屋上で受け取る冷たさが、思いのほか気持ちいい。
「今日は冷たい方面で攻めてますっ」
テスト前夜は温かい肉まんとホットココアだった。
今日は全部、冷たいもの。
きっちり反転させてくるあたりが、この子らしい。
「今朝、来る途中で買っておいたんです。三日目がいちばんきつい頃かなって」
「三日目?」
「だって、初日はまだ気合が残ってるし、最終日はゴールが見えてるじゃないですか。三日目って、どっちもないんですよ。中途半端にしんどいやつ」
妙に的確だった。
今の俺の状態を、朝の時点で言い当てていたことになる。
あるいは自分も同じところにいるから、分かるのかもしれない。
「あ、そうだ。センパイ、この前のマフィン、ちゃんと食べてくれましたか?」
「食べた。うまかった」
「ほんとですかっ。よかったぁ」
篠崎がにぱっと笑って、両手を胸の前でぎゅっと握った。
確かめたかっただけらしい。
それ以上は押してこなかった。
篠崎がラムネの瓶を手に取って、ビー玉をこんっと押し込む。
炭酸が弾ける音が、だだっ広い屋上の空に吸い込まれていった。
一口飲んで、ぷはっと息をつく。
「あー、おいしい。脳に染みますぅ」
「もう終わったんだろ」
「応援で疲れてるんですよぉ。センパイの教室の前、三回通りましたからね」
「応援なのか巡回なのか」
「応援です。念を送ってました」
まったく効いた覚えはなかったが、黙っておいた。
紙パックにストローを差して飲む。
冷たい甘さが喉の奥にすうっと落ちて、午前の試験で焦げついた頭をほんの少しだけ冷ましてくれた。
金網越しの校庭はしんと静かで、テスト期間の昼の空気が、屋上を広く満たしている。
「現文、どうでしたか?」
「評論のほう、半分しか分からなかった。途中から、日本語の形をした別の言語に見えてきた」
「えっ、センパイでもそうなんですか?」
「普通に難しかったんだって」
「あはは。頭からぷすぷす煙が出てますよ」
篠崎がチョコの小袋をひとつ差し出した。
「はい。大事に食べてくださいね。カカオは脳にいいらしいですよ」
「どこ情報だ?」
「ネットです」
堂々としたソースだった。
受け取って一粒つまむと、ビターチョコの苦みがじわりと舌に広がって、あとから甘さが追いかけてくる。
頭の芯が、ほんのわずかに緩んだ。
風がさっと吹いて、篠崎のスカートの裾がふわりと揺れた。
片手でさっと押さえて、何事もなかったように次の話題に跳ぶ。
「午後は何があるんでしたっけ?」
「古典と英語」
「じゃあ絶対、助動詞ですよ。助動詞!」
「……古典も英語も助動詞なのか?」
「だって、どっちにもあるじゃないですか。出る確率二倍です」
確率の計算としてどこかがおかしかったが、自信満々に人差し指を立てる篠崎に、訂正する気が起きなかった。
「ちなみに古典は、る・らる・す・さす・しむ、ですからね!」
「いきなり具体的だな」
「私の勘は当たりますからねっ」
「それ範囲なのか?」
「うっ。じゃ、じゃあ……む・むず・じ・まし・まほし、です!」
「急に自信なくなっただろ」
ぱっと目線を泳がせて、すぐにえへんと胸を張り直す。
範囲も知らないくせに当てずっぽうの羅列で攻めてくる胆力に、こちらの口の端が緩んだ。
「私のテストはもうないので、応援に専念です!」
「一年は今日午前までか?」
「はいっ。今日は午前で終わりだったんです。だからセンパイのこと、全力で応援できますからね」
「そっちの出来は?」
「国語はまあまあです。生物は……」
ぐっと言葉に詰まった。
「生物は?」
「ノートに書いた語呂合わせが、全部飛びました」
「それは痛いな」
「痛いです。覚える歌まで作ったのに、試験中に別の曲と混ざっちゃって」
どんな歌なのか、聞くべきか迷った。
「……歌で覚えてたのか」
「歌にすると頭に入るんですよ! ……入ったはずだったんですけど」
唸りながら、篠崎が膝の上のラムネ瓶を握り直す。
その姿を見ていたら、午前の疲れがどうでもよくなってきた。
落ち込んでいたのは一瞬だった。
すぐに顔を上げて、けろりと言い放つ。
「まあ、終わったものは仕方ないです。次で取り返しますっ」
にぱっと笑った横顔に、六月の光が当たっている。
小柄な輪郭が午後の陽射しにふちどられて、やけに眩しかった。
ふと、あの夕暮れの校門前がよぎった。
テストが全部終わったら──あの声。
胸の奥でざわめいた、行き場のない後ろめたさ。
だけど今、目の前の篠崎は六月の光の下で屈託なく笑っていて、その明るさに自然と肩の力が抜けた。
「……飲み物、もう一本買ってくるわ。篠崎は何かいるか?」
「え、私は大丈夫ですよ? まだラムネ残ってますし」
「すぐ戻る」
甘いものばかり詰め込んだ口に、塩気のあるものが欲しくなった。
立ち上がって、屋上の扉をくぐった。
階段を降りて、購買の前に出る。
昼休みも半ばを過ぎて、カウンターの前には数人の列が残っていた。
冷えた麦茶のペットボトルを手に取ったところで、声がかかった。
「あ──マコト」
二葉さんだった。
片手におにぎりが二個とサンドイッチ、もう片方にペットボトルの水。
視線が一秒、こちらを測る。
「ちゃんと食べてる?」
開口一番がそれだった。
挨拶でもなく世間話でもなく、栄養状態の確認。
「……それなりには」
「それなりが一番信用できない」
「……チョコと、カフェオレ」
「それは糖分であって食事じゃない」
言うが早いか、手に持っていたおにぎりを一個、こちらに押しつけてきた。
梅昆布。
俺がいちばんよく買う味だった。
「余分に買ってある。最初からマコトの分」
最初から。
俺の昼食に備えがないことを、見越していたらしい。
「午後は英語があるでしょう。炭水化物が足りないと頭が回らない。無理しないで」
短く言い切って、二葉さんはサンドイッチの包装を破きながら歩き出した。
去り際に一度だけ振り返る。
「関係代名詞の非制限用法、見直しておきなさい。マコトは二回間違えている」
背中越しに飛んできた一言が、やけに具体的だった。
俺の間違いの回数まで覚えているのかと呆れかけて、まあ二葉さんだからなと納得した。
手の中のおにぎりを見下ろして、小さく息をつく。
世話を焼かれたという感覚が、じんわりと温かい。
麦茶を買って、屋上に戻った。
「遅いです〜」
篠崎が頬を膨らませて待っていた。
空のラムネ瓶が、膝の横に行儀よく並べてある。
「すまん。購買で二葉さんに会った」
「二葉先輩ですか?」
「おにぎり押しつけられた。これ」
梅昆布のおにぎりを見せると、篠崎がぱちぱちとまばたきした。
それから、ふわっと笑う。
「お姉さんですねぇ」
その声に、含みはなかった。
二葉さんの心配を、素直にお姉さんの優しさとして受け取っている。
「半分食べるか?」
「いいんですか? じゃあ、いただきますっ」
おにぎりを半分に割って渡すと、篠崎が小さな手でそっと受け取った。
海苔の匂いが風に乗って鼻先をかすめる。
並んで座って、梅昆布のおにぎりを頬張った。
「おいしいですね、これ」
「購買のおにぎりだぞ」
「購買でも、屋上で食べるとおいしいんですよ。空が広いから」
もぐもぐと頬を動かしながら、篠崎が空を見上げた。
六月の空は高くて、薄い雲がゆっくりと東へ流れている。
金網越しの街並みの向こうで、鉄塔の上にトンビが一羽、風に乗って旋回していた。
テスト期間の昼休みとは思えないくらい、のどかだった。
チャイムが鳴った。
午後の試験開始、十分前の予鈴。
篠崎がぱっと立ち上がった。
スカートの裾を軽く払って、こちらを振り向く。
「あと二日、頑張ってください!」
手を振った。
頭ひとつぶん低い位置から見上げてくる目がまっすぐで、声はいつもの弾けるトーンのまま、少しだけ温かかった。
「……ああ。ありがとう、篠崎」
「任せてくださいっ。応援と差し入れは私の仕事ですからねっ」
ぴしっと片手で敬礼してみせてから、ぱたぱたと階段のほうへ駆けていった。
ショートヘアが風に揺れて、防火扉の向こうに小さな背中が消える。
紙パックの空容器とラムネの瓶をコンビニの袋にまとめて、立ち上がった。
屋上に風だけが残っている。
金網が午後の光を受けて白く光って、篠崎が座っていた場所のコンクリートに、ラムネの瓶の結露の跡が丸く残っていた。
少しだけ軽い足取りで、階段を降りた。
ポケットの中で、チョコの小袋の最後の一粒が、かさりと鳴った。




