第52話 校門の一時間、夜食にそえた願い
三人の背中が、通りの向こうに遠ざかっていく。
鞄の中には、さっき二葉さんが渡してくれた手書きの要点まとめが入っている。
手を振ってから、校門のそばで足を止めた。
六時を過ぎた校門前。
空はまだ完全には暮れていなくて、西の端に、うっすらと茜が滲んでいる。
街灯がぽつりと灯って、足元にぼんやりした円を落としていた。
下校する生徒の姿はもうほとんどなく、校門の向こうのバス通りを、たまに自転車のライトが横切るだけだった。
さて、帰って明日の仕上げだ。
「センパイ」
声のしたほうを向いて、足が止まった。
篠崎が、校門の柱のそばに立っていた。
制服のまま、紙袋を両手で抱えている。
街灯の光が横顔を淡く照らして、小柄な影が地面に長く伸びていた。
「……篠崎? なんでここに?」
「えへへ。待ってました」
篠崎が紙袋を胸の前で揺らして、にっこりと笑った。
いつもの弾けるような笑顔だが、頬がほんのり色づいているのは、夕焼けのせいだけではなさそうだった。
「待ってたって……遠慮するって、メッセージ送ってきただろ」
「はい。勉強の邪魔はしてないですよ? ちゃんと外で待ってましたから」
それは確かに邪魔をしていないが、根本的に何かがおかしい。
「外って、いつから」
「えーと……五時くらいから、ですかね」
一時間以上、校門の外で待っていたことになる。
六月の夕方とはいえ、日が陰れば空気はじわりと冷える。
校門前には屋根もベンチもない。
「一時間もか?」
「全然平気ですよぉ。スマホで動画見てたし、向かいの自販機であったかいお茶も買ったし。サバイバルは得意なんです、私」
サバイバルの意味がだいぶ違う気がしたが、篠崎は自信満々に胸を張った。
「……向かいに自販機なんてあったか?」
「ありますよぉ。角を曲がったとこのコインランドリーの横の」
角を曲がった先はもう校門前とは言えない気がするが、篠崎にとっては誤差なのだろう。
「篠崎だって、明日からテストだろ」
「そうですけど、待ってる間に単語やってたので大丈夫です」
「……ここでか」
「立ってても覚えられますよ?」
立ったまま一時間、単語帳を睨んでいたということだ。
サバイバルどころの話ではない。
篠崎の手が、紙袋をこちらに差し出した。
「はい、これ。差し入れです」
「……俺に?」
「明日からテストじゃないですか。今夜もきっと、追い込みするんだろうなーって思って。夜食と、あと温かいの」
受け取った紙袋は、ほんのりと温もりを帯びていた。
ずっしりとは言えないが、確かな重さがある。
中を覗くと、ペットボトルのホットココアと肉まんが二つ。
そのあいだに、小さなタッパーが収まっている。
蓋の隙間から、甘い匂いが漏れていた。
「タッパーのは手作りです。ホットケーキミックスで作ったマフィンなんですけど……甘いもの食べると頭が回るって聞いたので」
「マフィンまで作ったのか?」
「簡単なやつですよぉ。混ぜて焼くだけですから」
あまりにも軽く言うので、かえって引っかかった。
「……何回作った?」
「えっ」
「簡単なら、一回で済んだだろ」
「…………三回、です」
観念したように、篠崎が指を三本立てた。
「一回目は粉がだまになって、二回目は膨らまなくて。三回目で、やっとちゃんとできたんです」
「簡単じゃないだろ、それ」
「三回目は簡単でした」
篠崎はそう言って笑ったが、タッパーの蓋には、ラップの上から油性ペンで小さく、丸っこい字が書いてあった。
がんばれ、と。
油性ペンのインクが、一箇所だけ少し太くなっていた。
たぶん、書くときに手が止まったのだ。
「ちょっと焦げたのもできちゃったんですけど、それは自分で食べました。ましなのだけ入れてあります」
「焦げたやつは自分で食べたのか?」
「もちろんです。焦げたのをセンパイに渡すわけにいかないじゃないですか」
当然でしょう、という顔をされた。
タッパーの蓋を少しだけずらすと、不揃いな焼き色のマフィンが三つ、ひとつずつ紙カップに入って並んでいた。
「肉まんは駅前のコンビニのなんですけど、ちゃんと温め直してもらいました。ちょっと冷めちゃったかもですけど」
「……一時間前に温め直したのか?」
「あっ」
篠崎がぽかんと口を開けて、それから自分の失敗に気づいたように頬を膨らませた。
「……計算ミスです」
「計算以前の問題だろ」
「うぅ、でもほんのりは温かいはずです。紙袋の中であったかいお茶と隣に置いてたから……保温作戦です」
保温作戦の名称はともかく、紙袋に手を入れたとき、確かにほんのりとした温みがあった。
ホットのお茶を隣に置いて温度を保とうとした、という理屈はたぶん正しい。
正しいが、それは一時間待つことが前提の発想だった。
「……まあ、実際ほんのり温かいから、作戦成功だな」
「でしょう?」
篠崎がぱっと顔を輝かせた。
成功判定を出しただけでこんなに嬉しそうにされると、こっちの方がたじろぐ。
紙袋を受け取った手のひらに、温もりが染みてくる。
それとは反対に、さっき紙袋を差し出した篠崎の指先は、うっすらと冷えて見えた。
一時間、外で待っていたからだろう。
温かいものを用意して、自分の手は冷やして。
そういうことをさらりとやって、本人はそれを我慢だとも思っていない。
「……さっきのお茶は」
「とっくに飲んじゃいました」
だろうな、と思いながら、紙袋からホットココアを取り出して、篠崎の手に押しつけた。
「え?」
「持ってろ。カイロ代わりだ」
「で、でもそれ、センパイのですよ?」
「帰る前に返してくれればいい」
両手で受け取った篠崎が、ペットボトルを胸の前で包み込む。
しばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「……あったかいです」
「……ありがとう、篠崎。わざわざ」
「わざわざじゃないですよ。センパイが頑張ってるのに、私がなにもしないのは嫌だったので」
いつもの軽い調子で返したけれど、語尾がすこしだけ静かだった。
弾むような明るさの奥に、あの雨の日の帰り道で聞いた声と同じ、まっすぐな芯が透けている。
「二葉先輩たちと、たくさん勉強したんですか?」
「たくさんどころか、しごかれた」
「あはは。二葉先輩、すごいですよね。ちゃんとしてて、みんなの弱点が全部見えてて」
笑いながら、篠崎の視線がすっと足元に落ちた。
「私には、ああいう教え方はできないので」
卑下している声ではなかった。
自分にできることとできないことを、静かに測っている目だった。
「篠崎は篠崎でいいだろ」
「はい。だから、こうして待ってました」
紙袋の持ち手を、意味もなく握り直した。
「無理しないでくださいね」
篠崎が、ふっと声のトーンを落とした。
「テスト大事ですけど、身体壊しちゃったら元も子もないですから」
見上げてくる目が、まっすぐだった。
街灯の光が篠崎の髪を淡く縁取って、小柄な輪郭をやわらかく浮かべていた。
その目に、からかいの色はなかった。
冗談でもお世辞でもない。
ただ、こっちを心配している。
──これは、後輩の懐きじゃない。
あの月曜日、雨の帰り道で傘をさして並んで歩いたとき。
胸の奥で鳴った、言葉にならないざわめきを覚えている。
今、同じ場所がもう一度鳴った。
前よりも、ずっとはっきりと。
篠崎の好意は、本気だ。
分かってしまった瞬間、面映ゆさと、それから別の何かが同時に込み上げた。
さっき手を振って見送ったばかりの、三人の背中がよぎる。
体温の残るプリントを渡してくれた二葉さんの、耳の赤い横顔。
あの三人のことを抱えていながら、篠崎のまっすぐな目を見て、胸が跳ねている。
──ずるいだろ、俺。
「センパイ? 顔、赤いですよ?」
「……夕焼けのせいだ」
「もう夕焼け沈みかけてますけど」
篠崎がくすっと笑った。
さっきまでの静かな声のまま、けれど目元だけがいたずらっぽく緩んでいる。
その切り替えが、ずるいと思った。
「まあ、夕焼けってことにしておいてあげます」
わざとらしく頷いてみせたが、口元がにやけているので、ぜんぜん許してくれていない。
言い返す言葉を探しているうちに、篠崎が胸の前のペットボトルを両手で差し出してきた。
「はい。あったまりました」
受け取ると、さっきより少しぬるい。
その分だけ、篠崎の手に移ったのだろう。
紙袋に戻して、口を折り直した。
篠崎が、半歩だけ後ろに下がった。
渡すべきものは、もう渡し終えている。
「じゃあ私、そろそろ行きますね」
「……ああ。気をつけて」
「はい」
篠崎がくるりと背を向けかけて──そこで、ふっと足を止めた。
振り返って、街灯の光を背にしたまま、上目遣いにこちらを見上げる。
頭ひとつぶん低い位置から、まっすぐに。
「あの、センパイ」
「……うん」
「テストが全部終わったら、私とどこか行ってくれませんか?」
笑っていた。
けれど声は静かだった。
弾けるような明るさでも、雨の日のあの寂しさでもない。
ただ本気の温度だけが、夕暮れの空気にまっすぐ乗っている。
言葉が出なかった。
全部終わったら。
テストは明日から数日続く。
それは猶予でもあり、確かな約束の輪郭でもあった。
断るでもなく頷くでもなく、ただ篠崎の目を見つめたまま口を開きかけて、閉じた。
篠崎はそれ以上なにも言わなかった。
小さく頭を下げて、今度こそくるりと背を向ける。
通りを歩いていくその後ろ姿は小柄で、街灯の光を抜けるたびに影が伸びては縮む。
明るい場所を通るとき、ほんの一瞬だけ髪が光って、すぐにまた薄暮に紛れた。
紙袋の温もりが、右手の中にまだ残っている。
マフィンの甘い匂いが、夕暮れの風にかすかに混じって、篠崎の背中が通りの角を曲がるまで消えなかった。
空には一番星がひとつだけ灯っていた。
俺はまだ校門のそばに立ったまま、動けずにいた。




