第51話 そっけない声と、まだ温かいプリント
教室の机を四つ寄せた島の上に、参考書とノートとプリントが、砦のように積み上がっていた。
放課後の二年B組。
西日が窓から差し込んで、黒板の隅に二葉さんが書いた要点一覧を、橙色に染めている。
明日から期末テスト。
逃げ場はない。
「はい、ここ。符号が逆」
二葉さんの赤ペンが、俺のノートの上をすべった。
解と係数の関係の計算、その三行目。
和の符号を、プラスのまま突き進んでいた。
「……ああ、ほんとだ」
「解と係数の和はマイナス。もう三回、同じ間違いをしている」
咎める色はない。
ただ事実を並べているだけで、それが一番堪える。
「三回……」
「四回目はないと思いたい」
二葉さんが赤ペンのキャップを閉じて、次のページを開いた。
ノートの余白には、俺の間違いを拾った赤い点々が、行儀よく並んでいる。
いつの間に、ここまでチェックしていたのか。
すぐ隣では、一花さんが机に突っ伏していた。
「無理。あたしもう無理」
シャーペンが指先でくるくる回って、ぽとりと床に落ちた。
「まだ数列が残っている」
二葉さんが、振り向きもせずに言った。
「数列ぅ? 一般項とか言われても、ぜんっぜん一般じゃないんだけど」
「日本語がおかしい」
「合ってるし。あたしの中では一般じゃないし」
一花さんが頬を机に押しつけたまま、こっちに手を伸ばした。
伸びてきた指先が、俺の腕をつんつんと突く。
「誠ぉ、ここ教えて。二葉の説明こわい」
「怖くはないだろ」
「こわいの。間違えたら赤ペンが飛んでくるんだもん」
「飛ばしていない。置いているだけ」
二葉さんの声が、一段低くなった。
俺の腕を突いていた指先が、そのまま滑って、シャーペンを握った手の甲に重なる。
「ね、誠。一緒に解こ?」
「一緒にって、自分で解かないと意味ないだろ」
「誠の手が動けば、あたしの頭にもスッと入ってくる仕組みなの」
「どんな仕組みだよ」
乗せられた手を、そっと押し返す。
明日の本番で、俺の手が一花さんの分まで動いてくれるわけでもない。
「ちぇー。誠、真面目すぎ」
向かいの席では、三桜さんが両手で頭を抱えていた。
問題集のページを睨みつけて、うんうんと唸っている。
シャーペンの先がノートに当たったまま、一ミリも進んでいない。
消しゴムを何度もかけたせいで、ノートの紙が毛羽立っていた。
「三桜さん、大丈夫?」
「……大丈夫、です。大丈夫」
目が泳いでいた。
全然大丈夫ではない。
「等比数列の和の公式のところ?」
「あの、公比が一じゃない場合の式と、一の場合の式が、頭の中でぐるぐる混ざって……」
三桜さんの声が、だんだん小さくなる。
こめかみを押さえて、うぅ、と唸った。
頭から、湯気が出そうだった。
「公比が一のときは、ただ同じ数をn回足すだけだから。初項かけるnでいい」
「……あっ」
三桜さんが、ぱっと顔を上げた。
目が輝いている。
「そっか、同じ数だから……! 誠くんすごい、分かった!」
「いや、教科書にも書いて……」
「誠くんの説明のほうが分かりやすいの!」
嬉しそうにシャーペンを走らせる三桜さんの横で、一花さんが、むくりと身を起こした。
目が据わっている。
「ちょっと。あたしも教えてって言ったんだけど」
「一花さんのはまだ見てない」
「えー、三桜ばっかずるい」
「先に聞いたの私だもん。……えへへ」
三桜さんが小さく笑って、ノートを胸元に引き寄せた。
一花さんの目が、すうっと細くなる。
「三桜さぁ、さっきからずっと誠に張りついてるよね」
「してないよ? たまたまだよ?」
「たまたまが続きすぎなんだけど」
「……一花お姉ちゃんだって、誠くんの真横に陣取ってるくせに」
テスト前日に何をやっているのか、この姉妹は。
「はい二人とも。手を動かしなさい」
二葉さんが赤ペンで、机をこつんと叩いた。
一花さんと三桜さんが、びくりと背筋を伸ばす。
「一花。シグマは後でいい。まずこの等差数列の一般項が出せていない」
二葉さんが一花さんのノートを引き寄せて、ページをめくった。
「だってわかんないもん」
「分からないのではなく、途中で飽きている。二行目まで合っている。三行目で計算をやめている」
図星だったらしい。
一花さんが口をとがらせて、渋々、シャーペンを拾った。
二葉さんの指導は、容赦がなかった。
一花さんの計算放棄を一瞬で見抜き、三桜さんが混乱している箇所を察すれば、参考書の該当ページをぱっと開いて見せる。
俺の苦手な単元には、あらかじめ付箋を貼った問題が、用意されていた。
全員の弱点を、把握している。
いつ、どこで、そこまで見ていたのか。
黒板の隅の要点一覧は、二葉さんの字で、色分けされていた。
赤が重要公式、青が間違えやすいポイント。
そして緑──俺専用の注意書きで、小さく『マイナス符号注意』とだけ添えてある。
「……すごいな、二葉さん」
思ったことが、そのまま口から出ていた。
「何が?」
「教え方。二人がどこで詰まるか、先に分かってるだろ」
「姉妹だもの。思考の癖くらい把握しているわ」
赤ペンを持つ手は、止まらない。
「俺は姉妹じゃないけどな」
ペンの先が、一度だけ止まった。
「……感心している暇があったら、自分の手を動かしなさい、マコト」
そう言って差し出されたのは、新しいプリントだった。
手書きの、解と係数の関係の練習問題。
問題の横に、ヒントが一行ずつ添えてある。
「これを解いてみて。次のページは数列。苦手な順に並べてある」
「いつ作ったんだこれ?」
「……昨日」
ほんの少しだけ、耳が赤い。
すぐに視線をそらして、三桜さんのノートを覗き込みに行った。
数学が一区切りつくと、二葉さんは手提げから、古典の単語帳を取り出した。
付箋がびっしりと貼られて、本来の倍ほどの厚みに、膨らんでいる。
「数学はここまで。次は古典をやる」
「えー、もう脳みそに空きがないってば」
一花さんが机に頬を押しつけたまま、抗議の声を上げた。
「文句は明日の自分に言いなさい。『ゆかし』の意味は」
「ゆかし……えーと、見たい、聞きたい、知りたい!」
「正解。用例を作ってみなさい」
一花さんがにやりと笑って、ちらりと俺のほうを見た。
「誠の素顔が、ゆかし」
「……またマコトに構いたいだけでしょう」
二葉さんが赤ペンの先で、一花さんの額を、こつんと小突いた。
図星を刺された一花さんが、ぶうと頬を膨らませる。
「ちゃんと用例になってるじゃん。減点しないでよ」
「内容が不純。三桜、次は『あはれ』」
「あはれ……しみじみした趣がある、可哀想、とか……」
「では、今の状況を『あはれ』で言ってみなさい」
三桜さんが、うーんと宙を見上げて、しばらく考え込んだ。
それから、ぽつりと真顔で言った。
「誠くんが、一花お姉ちゃんに構われすぎて、あはれなり……」
「誰が構いすぎだって!?」
一花さんが、ばっと顔を上げて、三桜さんに食ってかかる。
「だって誠くん、ちょっと困った顔してるもん」
「これは愛情表現なの! あはれじゃないし!」
「はい、そこまで。用例は二つとも合格。減点は態度の分」
二葉さんが、淡々と告げて、パタンとそれを閉じた。
代わりに出てきたのは、同じくらい厚みの膨らんだ英単語帳だった。
全教科、抜かりはないらしい。
「次は英語。アクセントの位置を答えなさい。一花、カレンダー」
「んー、カレーンダー。レーのとこ」
「不正解。最初のカよ」
一花さんが、えー、と長く声を伸ばした。
「三桜、ギター」
「ギター……ターのほう!」
「正解」
「やったぁ! 私、英語いけるかも!」
三桜さんの声が、今日いちばん明るかった。
「では、オレンジ」
「オレーンジ! レのほう!」
「不正解。最初のオよ」
「えぇーっ、さっきは後ろだったのにぃ!」
「単語ごとに違うわ。理屈ではなく覚えなさい」
三桜さんが、口を半分開けたまま固まってしまった。
一花さんはとっくに答えるのをやめて、消しゴムの側面に顔を描いている。
窓の外で西日が沈みかけて、教室の空気が、だんだん橙から藍に変わっていく。
一花さんが大きく伸びをして、缶コーヒーのプルタブを開けた。
朝のうちに、二葉さんが買い置きしていたものだ。
「ねー、休憩。もう頭パンクする」
「あと三十分」
「鬼」
「鬼で構わない。明日が本番」
一花さんが助けを求める目をこちらに向けてきたが、二葉さんの言い分は、まったく正しい。
俺が首を横に振ると、一花さんが、大げさにうなだれた。
「誠まで二葉の味方ぁ?」
「味方とかじゃなく、事実だろ」
「ひどい。あたしもう知恵熱で倒れる」
「知恵熱は三桜さんのほうだと思う」
向かいを見ると、三桜さんが問題集に顔を近づけすぎて、ほとんど額が紙についていた。
唸り声が、だんだん高くなっている。
「……ここ、初項が、また……うぅぅ」
「三桜。深呼吸」
二葉さんが三桜さんの肩を、ぽんと軽く叩いた。
三桜さんが顔を上げると、二葉さんが問題の横を指で示す。
「ここで初項と公差を読み取ってから一般項に入れる。順番を守ればいい」
「あ……あっ、そっか! ありがとう、二葉ちゃん!」
三桜さんの顔が、ぱっと明るくなって、またがりがりとシャーペンを走らせ始めた。
三十秒後に、また唸り始めるのが目に見えていたが、今はいい。
スマホが震えた。
篠崎からのメッセージだった。
テスト前日に邪魔しちゃ悪いので遠慮します、先輩たち頑張ってください──短い文面に、ガッツポーズのスタンプが添えてある。
後輩のくせに、妙に気が利く。
「篠崎さん?」
二葉さんが、ちらりとこちらを見た。
「うん。邪魔しちゃ悪いからって」
「心花ちゃん、偉いねぇ」
三桜さんが、ノートから顔を上げないまま言った。
「ほんとにな。誰かさんたちとは大違いだ」
「なにそれ。あたしたちが邪魔してるみたいじゃん」
「そこまでは言ってない」
「言外に言ってる!」
一花さんに背中をぺしりと叩かれるのを、二葉さんが黙って見ていた。
「……賢明ね」
それだけ言って、また赤ペンに戻る。
西日が完全に沈んで、蛍光灯だけが白い光を落としている。
ノートも参考書もプリントも、机の上でぐちゃぐちゃに混ざって、どれが誰のものかもう分からない。
缶コーヒーの空き缶が三つ並んで、お菓子の袋がひとつ、ぺしゃんこに潰れていた。
三日前、俺の部屋があんなに静かになった夜が、嘘みたいだ。
「……そろそろ帰るか」
時計を見ると、六時を回っていた。
一花さんが真っ先に「やったぁ」と伸びをして、三桜さんが、名残惜しそうにノートを閉じる。
荷物をまとめて、教室を出た。
廊下はもう薄暗くて、他のクラスの明かりは、全部消えている。
昇降口で靴を履き替えていると、二葉さんが、俺の横に来た。
鞄からなにかを取り出して、黙って差し出す。
ノートに挟まれた、数枚のプリントだった。
表紙に、丁寧な字で期末要点まとめ、と書いてある。
中を開くと、公式と解法のポイントが、簡潔に並んでいた。
赤と青と緑の色分け。
最後のページの隅に、小さな字で『苦手な順に並べてあるから、上から確認しなさい』とある。
さっきの練習問題とは別に、もうひとつ。
俺の間違いを全部拾って、苦手な順に並べて、色まで分けて。
「二葉さん、これ……」
「明日、頑張りなさい」
そっけない声だった。
目も合わせない。
言うだけ言って、一花さんと三桜さんのほうへ歩いていく。
手の中のプリントは、まだほんのり温かかった。
鞄の中で、ずっと体温に触れていたのだろう。
賑やかで、容赦がなくて、鬼だの怖いだの散々言われて、本人は涼しい顔をしている。
でもその手が作るものは全部、こっちを向いていた。
言葉にできないまま、プリントをノートに挟み直した。
前を歩く二葉さんの背中はいつもどおりまっすぐで、夕闇の中に、少しだけ小さく見えた。




