第50話 唐揚げの匂い、広い家に無いもの
テスト四日前の勉強会が二時間で一段落しても、四人は誰も帰ろうとしなかった。
初めて上がる俺の家、六畳間しかない狭い部屋で、座卓を囲んだまま動く気配がない。
鍵を開けるときは、あれだけ身構えていたのに。
母さんに呼ばれて大皿を取りに行き、戻ってくると、参考書はもうきれいに端へ寄せられていた。
揚げたての唐揚げは、五人で、あっという間に半分になった。
一花さんが「うっま」と目を丸くして、二葉さんが、静かに二つめを取り、三桜さんはもう三つめに手を伸ばしている。
篠崎が「センパイのお母さん、お店みたいです」とほくほく頬張るのを見ていると、別に自分が揚げたわけでもないのに、口元がゆるむ。
「お母さんのお手伝い、してきます!」
篠崎が突然立ち上がった。
空いた皿を両手で持って、にっと笑う。
「片付けとか洗い物とか、得意なんです。ごちそうになったし!」
「いいのに、篠崎」
「ダメです! ちゃんとお礼しないと」
そう言って、篠崎は、ぱたぱたと部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
廊下を小走りに駆けていく足音が遠ざかって、階下で母さんの「あら、いいの?」という声が、かすかに聞こえた。
――急に、静かになった。
さっきまで五人でぎゅうぎゅうだった六畳間が、ひとり減っただけで、ぽっかりと広い。
座卓の上には、唐揚げの残りと使いかけのノート、篠崎の消しゴムのかす。
さっきまでの賑やかさだけが、空気の中に残っている。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
夕暮れの茜色はとうに消えて、向かいのマンションの窓明かりが、ぽつぽつと浮いている。
一花さんが座卓に頬杖をついて、部屋を見回していた。
「ねえ」
声のトーンが、ひとつ落ちていた。
「誠って、あのプラモ自分で作ったの?」
視線の先を追うと、本棚の上の隅に、埃をかぶった戦闘機のプラモデルがあった。
小学四年のとき、母さんと一緒に買いに行ったやつだ。
デカールが一枚足りなくて、尾翼だけ、白いまま放ってある。
「ああ。小学校のとき。ちゃんと完成してないけど」
「ふうん」
一花さんが立ち上がって、本棚に近づいた。
指先で、そっと機首をなぞる。
灰色の埃が指についた。
「汚っ」
「触るなよ」
「いやいや、埃すごいんだけど。何年モノよこれ」
笑いながら指を振って、でも視線は戦闘機に残ったままだった。
白い尾翼を、もう一度だけ指でなぞる。
「……お母さんと買いに行ったんだ」
「ん。まあ」
「いいじゃん」
語尾だけが、すうっと消えた。
茶化す声の形はそのままなのに、中身がどこかに抜けている。
一花さんはしゃがみ込んで、棚の下の段に目を落とした。
俺からは、表情が見えなかった。
階下から、食器を洗う水音が聞こえた。
篠崎と母さんが、何か話しているらしい。
笑い声が遠く混じって、また、水音に溶ける。
二葉さんがその音に、ふと顔を上げた。
本棚の横の壁に背を預けて、座っている。
文庫本と参考書と漫画と攻略本が隙間なく詰まって、どの背表紙も、手垢で色が変わっていた。
読み込まれて膨らんだ文庫の隙間に、母さんの字で名前を書いた古いノートが、一冊挟まっている。
二葉さんの指が、その背表紙に触れかけて止まる。
階下で、足音がした。
母さんの足音だ。
台所からリビングへ歩いて、何かを棚にしまって、また台所へ戻る。
何気ない生活の音が、薄い床越しに、ここまで届く。
「……いつも、こうなの」
二葉さんが呟いた。
俺を見ていない。
階下の気配を、聞いている。
「何が?」
「家のどこかに人がいて、足音や食器の音がする。そういう家なのかと聞いているの」
いつもの、淡々とした声だった。
でも問いかけではなかった。
確かめるように、言葉を置いている。
「普通だろ。母さんが台所にいるだけだ」
「……そう。普通、なのね」
二葉さんが小さく頷いて、目を伏せた。
「私は、整然とした場所のほうが好きだけれど」
誰に言うでもなく、そう付け足す。
膝の上に載せた手が、スカートの布を、きゅっと握っている。
階段を上がる足音がして、ドアが、こんこんと鳴った。
「誠、おかわりあるわよ。皆さんまだいるでしょう?」
母さんがドアを少し開けて、顔を覗かせた。
追加の唐揚げを載せた小皿と麦茶のグラスを四つ、お盆に並べて運んでいる。
油のいい匂いが、ドアの隙間から流れ込んだ。
「遠慮しないでね。揚げすぎちゃったから、食べてもらえると助かるの」
母さんは三人に、ぺこりと会釈して、お盆を座卓に置いた。
三桜さんの前のグラスに麦茶を注ぎながら、ふと、目が合う。
「あなたが三桜ちゃんね。誠から聞いてるわよ」
「えっ、誠くんが私のこと!?」
「テスト範囲が分からないって困ってたって」
「……そっち」
三桜さんの肩が、がくっと落ちた。
母さんが、くすっと笑って、一花さんにもグラスを差し出す。
「たくさん食べてね。好き嫌いある子いる?」
「ないです。おいしいです、おばさま」
一花さんの声が、さっきまでの軽口とは別人のように、かしこまっていた。
母さんは「おばさまなんて、やめてよぅ」と手をひらひら振って、二葉さんにも目を向けた。
「二葉ちゃんも遠慮しないでね。暑かったらエアコンつけてもらいなさい」
「……ありがとうございます」
二葉さんが、わずかに頭を下げた。
低く、少しだけ掠れた声だった。
「みんな、いい子ねえ。誠にはもったいないくらい」
「余計なこと言わなくていいから」
「本当のことでしょう」
母さんは笑って手を振って、ドアの向こうに消えた。
スリッパが階段を下りていく、ぱたぱたという軽い音。
それだけの足音が、不思議と、部屋に残った。
三桜さんがグラスを両手で包むように持って、しばらく、黙っていた。
唐揚げにも手をつけない。
窓の外を見ている。
向かいのマンションの明かりが、三桜さんの横顔を、ぼんやり照らしていた。
「……ねえ、誠くん」
いつもの、弾むような声ではなかった。
「ん?」
「うちってね、広いんだ」
グラスの縁を指先でたどりながら、三桜さんが言った。
「リビングも自分の部屋も、全部広くて。でも……」
言葉が途切れた。
一花さんが本棚の前で顔を上げて、二葉さんが、静かにこちらを見ている。
「広い家って、静かなの。誰の足音もしないし、壁の向こうに誰かがいる気配もしない」
三桜さんがグラスから手を離して、膝の上に置いた。
指先が、かすかに震えている。
「お母さんの鼻歌とか、唐揚げの匂いとか、おかわりあるよって声とか。こういうのが、ずっと欲しかった」
笑おうとした。
うまくいかなかった。
唇の端だけが持ち上がって、すぐ力を失くす。
一花さんが黙ったまま、視線を落とした。
二葉さんは壁に背を預けて、天井を見上げている。
三人が同じことを感じているのだと思いかけて、やめた。
多分、少し違う。
一花さんが触れていたのは、埃をかぶったプラモの向こう側にある、子どもの頃の手触りだ。
二葉さんが耳を澄ましていたのは、壁越しの足音がつくる温度だった。
三桜さんが欲しかったのは、そのどちらよりもっと手前にある。
ただ人がいて、音がして、声がする。
何でもない家の、何でもなさだ。
気の利いたことなんか出てこなかった。
この六畳間が、俺が当たり前だと思っていた狭さと騒がしさが、三人にとってはそうじゃなかった。
それだけが、じわりと胸の底に沈んだ。
「……唐揚げ、冷めるぞ」
ようやく絞り出したのは、そんな一言だった。
三桜さんが目をぱちぱちさせて、それからふっと笑った。
今度は、ちゃんとした笑顔だった。
「うん。食べる」
三桜さんが唐揚げをひとつ取って、ぱくりと頬張る。
一花さんが「あ、あたしも」と手を伸ばして、二葉さんも無言で、麦茶に口をつけた。
静けさが少しほどけたとき、階段をどたどたと駆け上がる足音がした。
「お腹空いた〜!」
ドアが勢いよく開いて、篠崎が飛び込んできた。
袖をまくったまま、髪の先に、泡がひとつついている。
「お皿全部洗いました! おばさまが杏仁豆腐もあるって言ってます! 皆で食べましょう!」
三桜さんが吹き出した。
一花さんが「篠崎さん、泡ついてる」と笑って、指さす。
二葉さんがそっとハンカチを差し出して、篠崎が「わっ」と慌てて頬を押さえた。
「先輩たちも早くしないと、私が全部食べちゃいますよ」
「あんた、どんだけ食べる気なの」
「育ち盛りですから!」
「マコトの分は残しておきなさい」
「行こ行こ! 誠くん、キッチン!」
三桜さんが俺の袖を引っ張って、立ち上がる。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、また六畳間が騒がしくなった。
廊下に出ると、階下から、母さんの声が聞こえた。
「誠ー、お椀足りないから出してー」
「はいはい」
五人ぶんの足音が、狭い階段をばたばたと下りていく。
その音を聞きながら、三桜さんがちらりと振り返った。
何も言わなかった。
ただ笑っていて、目がほんの少しだけ赤かった。
この家の狭さと騒がしさが、今夜だけは、誰かをほんの少し温めている。
そんな気がした。




