第49話 狭い我が家、五人の勉強会
放課後の教室で二葉さんが提案したのは、俺の家に集まっての勉強会だった。
「テストまであと四日。この五人の平均点を最大化するなら、問題を分担して教え合う形式が最も効率的。場所は誠の家がいい」
俺は椅子に座ったまま固まった。
「なんで俺の家?」
「図書室は会話に制限がある。綾瀬家は今日の放課後には間に合わない。消去法よ」
理屈は通っている。
通っているけれど。
いつも淡々としている声が、今日はほんの少しだけ早い。
「……うち、狭いぞ。六畳しかないし、母さんもいるし」
「お母様がいるなら、なおさら健全でしょう。充分よ」
二葉さんが一言で切って、鞄を閉じた。
交渉は終了したらしい。
「やった! 誠くんち行くの初めて!」
三桜さんが机に身を乗り出した。
「あたしも賛成。誠の部屋、ちょっと興味あったし」
一花さんがにやりと笑う。
振り向くと、篠崎まで目を輝かせていた。
「センパイのお家ですか! 行きます行きます!」
全員一致で即決された。
俺の拒否権はどこにあるんだ。
◇
最寄り駅から十分ほど歩くと、築年数のそこそこいった二階建てが見えてくる。
綾瀬家のタワーマンションとは、比べるべくもなかった。
玄関の鍵を開ける手が、われながらわずかに鈍る。
「……まあ、入れよ」
「おじゃましまーす!」
三桜さんの声が明るく響いて、四人分の靴が三和土に並んだ。
狭い。
女物のスニーカーやローファーが整然とひしめいて、それだけで玄関がいっぱいになる。
篠崎のハイカットだけ少し場所を取っていて、三桜さんが「わ、かわいい靴」とかがみ込んだ。
「へえ、ちゃんと家って感じじゃん」
「一花。失礼よ」
「褒めてんの。エレベーター乗らないで家に着くの、なんか新鮮」
構えていたのは、俺のほうらしい。
廊下はすれ違うのもやっとの幅しかない。
進んでいくと、奥のキッチンから油の跳ねる音がした。
「あら、誠? お友達?」
母さんの声が壁越しに聞こえる。
姿は見えないが、唐揚げの匂いが廊下に流れてきた。
「今日ちょうど多めに揚げてるから、あとで持っていくわね」
「……ああ、ありがとう」
四人の視線が一斉に俺へ集まった。
三桜さんが小さく鼻を鳴らして「いい匂い」と呟いている。
俺の部屋は二階の六畳間だ。
ドアを開けて中に入ると、五人分の空気で一気に狭くなった。
壁際にベッドとデスク、本棚。
椅子はゲーミングチェアが一脚きりで、とても全員ぶんはない。
結局、押し入れから低い座卓を引っ張り出して、床に広げることになった。
「思ったより片付いてる」
一花さんが部屋を見回して、少し意外そうに言った。
「散らかしてたら呼ばないだろ、普通」
「あたしの友達の男子とか、もっとカオスだよ? 誠、偉いじゃん」
偉いとかそういう話じゃない。
二葉さんが、デスクの前で足を止めた。
俺も一瞬遅れて気づく。
デスクの端、モニターの横に――【ルナ】のアクリルスタンドが立っている。
ゆったりとしたローブをまとった、銀髪の魔法使いふうの少女。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
二葉さんが一瞬だけ固まって、それからそっと視線を外した。
指先が、スカートの裾を軽くつまんでいる。
一花さんは「へえ」と声を漏らして、唇の端をくっと持ち上げた。
楽しげな、それでいてどこか満足そうな笑みだった。
三桜さんは小さく息を呑んで、両手で口元を覆った。
指の隙間から覗く頬が赤い。
三人とも、てんでばらばらの反応だった。
――まあ、男の部屋にゲームのグッズが飾ってあるのが珍しいんだろう。
気まずいといえば気まずいけど。
「センパイ、ネトゲやるんですね!」
篠崎が屈託なく声を上げた。
「あ、ああ。まあ、少し」
「かっこいいキャラですね。魔法使い系? センパイ、そういうの好きなんだ」
……少し、じゃないし、好きの度合いもだいぶ控えめに言った。
でもそれ以上ツッコまれる前に、二葉さんが場を動かしてくれた。
「始めましょう。座卓は狭いから、使う教材だけここに広げて」
そう言いながら、二葉さんはごく自然に俺の右隣へ腰を下ろした。
参考書を開いて俺との間に置き、指先でページの端を押さえる。
「この位置なら、私が解法を指しながら説明できる。効率的でしょう」
肩が触れそうなほど近い。
二葉さんの髪から清潔なシャンプーの匂いが届いて、頭が少しぼうっとする。
ふと横を見ると、耳が赤い。
当人は平然と数式を指しているのに、耳だけが正直だった。
「この恒等式、係数を求めてみて。解き方は任せるわ」
適当な数を代入して連立させる手もあるが、俺は両辺を展開して、同じ次数の項をそろえた。
二葉さんの視線が、俺の手元を追っていた。
「……そうね。あなたの解き方は、無駄がなくて好きよ」
シャーペンを持つ手が止まった。
二葉さんも一拍遅れて自分の言葉に気づいたらしく、参考書のページを勢いよくめくった。
「解き方の話よ」
「分かってる」
「……なら、いいわ」
「あ、ずるい。二葉が一番いいとこ取ってる」
一花さんの声が背後から降ってきた。
振り向こうとした瞬間、肩に柔らかい重みが乗る。
一花さんが俺の後ろから、肩越しに覆いかぶさるように覗き込んでいた。
髪が首筋にかかって、吐息が耳に触れる。
「ここ、あたしも分かんないんだけど。教えてくんない?」
声が近すぎる。
耳のすぐ横だ。
背中に感じる体温と圧が、明らかに勉強の距離じゃない。
「一花さん、もうちょっと離れてくれ。教科書が見えない」
「えー、だってあたし座る場所ないし。誠の背中、あったかいし」
悪びれない。
ただ、俺の肩に置かれた指先には、かすかに力がこもっていた。
軽口のわりに、この部屋にいることが少しだけ嬉しいのかもしれない。
……気のせいか。
二葉さんの指先が、ページの端をぴくりと押さえ直した。
無言の冷気が右側から立ち昇る。
「……誠くん」
左の太ももに、ことん、と重みが落ちた。
三桜さんが俺の膝に頭を乗せて、上目遣いでこちらを見ている。
「誠くんのおうちの匂いがして、なんだか安心しちゃって……ちょっとだけ休憩」
「まだ始めて十分だろ」
「十分も頭使ったの、すごくない?」
すごくない。
でも三桜さんの頭はもう俺の膝に収まっていて、ベビーパウダーの甘い匂いが立ち上ってくる。
目を閉じかけている。
猫か。
「三桜先輩、それ絶対、勉強する気ないですよね?」
正面から篠崎が指摘した。
「あるよぉ! ここからでもノート見えるもん!」
「上下逆さまですよ」
「うっ……」
言い負かされた三桜さんが、ぽすんと俺の膝に顔を埋める。
右に二葉さんの肩、背中に一花さんの体温、膝に三桜さんの頭。
俺の身体のどこに空きスペースがあるんだ。
「センパイ、私もここ分からないんですけど」
あぶれた篠崎が座卓の端から身を乗り出して、ノートを突き出してきた。
顔が至近距離にある。
「この二次関数の頂点なんですけど、平方完成ってどこで使うんですか?」
「……ああ、それはこの係数を括り出してから――」
「ふんふん。ここですか?」
篠崎が顔をさらに寄せて、ノートを覗き込む。
前髪が俺の手に触れそうな距離だ。
「センパイの説明、分かりやすいです。学校の先生より全然いい」
「そりゃどうも」
「もっと教えてください。こっちも、こっちも」
次々ページをめくる篠崎に応じていると、背後から一花さんの声が落ちた。
「ねえ誠、あたしの質問まだなんだけど」
「順番だろ。一花さんのは難しいから後で」
「えー。後輩優先? 先輩泣くよ?」
泣かないだろ。
「綾瀬先輩こそ、さっきから質問のふりして引っついてるだけじゃないですか」
篠崎にじとっと見られて、一花さんが「うっ」と短く詰まった。
二葉さんが小さく溜息をつく。
「騒がしすぎる。このままでは誰一人として期末を突破できない」
「二葉が一番の原因では? その密着距離で効率とか言わないでくんない?」
一花さんに指摘されて、二葉さんの耳がさらに赤くなった。
「……これは、教えるのに必要な距離よ」
「真正面からでも見えますけどね」
篠崎にまであっさり刺されて、二葉さんが「むっ」と口を引き結ぶ。
「はいはい」
一花さんが笑って、俺の肩に顎を乗せ直す。
三桜さんは膝の上で、もう完全に目を閉じている。
篠崎は正面で、次の問題を書き込んでいた。
建前を並べては誰かに刺され、顔を赤くして言い返す。
その応酬が、六畳間のなかをぐるぐる回っている。
窓の外では夕暮れの空が茜色に沈みはじめて、階下から母さんが「唐揚げできたわよー」と声を上げた。
いつもは一人きりの部屋が、人の声と熱気で膨らんでいる。
面倒を見て振り回されてばかりだけど、不思議と嫌な気はしなかった。
二時間ほど経つと、教科書とノートの散らばった座卓の上に、篠崎の消しゴムのかすが積もっていた。
一花さんがぐっと伸びをして、三桜さんが目をこすりながら俺の膝から起き上がる。
二葉さんが参考書を静かに閉じた。
なんとなく、終わりの空気が流れる。
「……綾瀬家と違って、狭くてうるさかっただろ」
俺は窓に目をやりながらこぼした。
照れ隠しだ。
分かっている。
二葉さんが静かに首を横に振った。
その横で、一花さんが肩をすくめて笑う。
「うるさいのはあたしたちでしょ。部屋のせいにすんなって」
「そんなことないよ、誠くん。あったかくて……すごく、よかった」
三桜さんが両手を胸の前で握って、小さく笑う。
「私も楽しかったです、センパイ。また来ていいですか?」
篠崎がこてんっと首をかしげて聞いてきた。
四人の声と視線と温度が、狭い六畳間を満たしている。
散らかった座卓も、立ちのぼる唐揚げの匂いも、階下から聞こえる母さんの鼻歌も。
全部ひっくるめて、悪くなかった。




