第45話 刺さらない手管、演技の外側
昨日の雨が嘘のように、火曜の空には薄日が戻っていた。
放課後の二年B組は、足早に人が引いていく。
廊下のほうから、湿りの残った風がゆるく流れ込んでくる。
窓から差す光が空っぽの席だけを照らして、もう誰もいないのに教室だけが明るい。
俺も鞄に教科書を詰めていたところで、不意に手首をつかまれた。
「ちょっと、誠。付き合って」
一花さんだった。
返事を待たずに俺の手首を引いて、廊下へ出る。
「え、一花さん? どこに——」
「いーから。黙ってきなって」
有無を言わさぬ勢いで、二つ隣の空き教室に連れ込まれた。
がらんとした室内には夕方の薄い光が差し込み、昨日の雨に洗われた空気が、埃っぽいはずのその場をどこか澄ませていた。
片手にひっつかんだままだった鞄を、一花さんは手近な机の上に放り出した。
ドアが閉まる音がして振り向くと、一花さんがドアを背にして立ちふさがっていた。
腕を組んで、唇の端をつり上げて、見上げるような角度でこちらを見ている。
「逃がさないからね?」
——なんだこの状況。
低く甘い声だった。
誰もいない空間では、一花さんの柑橘系の香りがやけに鮮明に届く。
「に、逃げるつもりはないんだけど……」
「ほんとにー? 最近の誠さぁ、あたしのこと避けてない?」
「避けてないって」
「じゃあなんで目が合うと、すぐどっか見るの?」
「それは、一花さんが変に距離詰めてくるから……」
「へえ、あたしのせいにすんならさ。もっと近くで確かめてあげよっか」
一花さんがドアから離れて、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
後ずさった腰に、固いものが当たった——教卓の縁だ。
退路がない。
一花さんが目の前に立つと、腕一本ぶんの距離もなかった。
呼吸のたびに胸元が浅く上下するのが視界の隅に入って、俺はとっさに目線を上へ逃がした。
「ねえ、誠」
一花さんが首をかしげて、俺のネクタイに指をかけた。
人差し指と中指で生地を挟んで、くるりと一巻き。
引かれた分だけ、顔が近づく。
「あたしの顔、こんな近くで見るの久しぶりじゃない?」
「近いって、一花さん。まだ学校だし——」
「誰もいないよ? それとも誰か来たら、困る理由でもあんの?」
「別に困らないけど、そんな引っ張ったら——」
「ほら、またそうやって理屈ばっか。逃げるの上手だよね、誠って」
——近すぎる。
睫毛の一本一本まで数えられそうだった。
整った顔にはいたずらの色が浮かんで、唇に乗った薄いグロスが、窓からの光を弾いている。
不意に一花さんが体重を預けるように半歩詰めて、肩が俺の胸に触れた。
薄い半袖ブラウス越しでも伝わる柔らかさと体温に、背筋が強張る。
「ほーら、目ぇ逸らしちゃだめだよ?」
「逸らしてない。だから、ちょっと離れ——」
「いや。まだ離してあげない」
一花さんがネクタイをもう少し引いて、教卓の縁を掴んだ俺の手のすぐ横に、自分の手を置いた。
完全に囲い込まれた形だ。
「待って、一花さん。本当に近いって」
「知ってる」
耳元に唇を寄せて、囁いた。
吐息が首筋をくすぐり、髪先が頬をかすめた。
心臓がうるさい。
「……ねえ、誠。今、どんな気持ち?」
息がかかるほど近い位置で、一花さんが俺の顔をじっと覗き込んでくる。
「どんなって……驚いてるよ。いきなり連れ出されて、こんな——」
「それだけ? ドキッとしてる? それとも、迷惑?」
「迷惑なわけないだろ。ただ、加減ってものがあると思う」
こっちの動揺を見透かしたみたいに、一花さんがくすりと笑う。
「心臓の音、聞こえちゃうかもよ?」
「聞こえてるなら、なおさら離れてほしいんだけど」
「えー、もっと聞かせてよ。あたしがどれくらい誠に効いてるのかさ」
一花さんは心底楽しそうに俺の反応を見ている。
こちらの目から、視線が一度も外れない。
「ほらほら、顔赤い。耳まで赤いよ、誠」
「……気のせいだ」
言い返しながら、視線だけが勝手に横へ滑った。
「気のせいじゃないもん。ほら、こっち向いて」
教卓についていた手がすっと持ち上がって、ひんやりした指先に顎をすくわれ、くいっと正面を向かされる。
近すぎて焦点が合わない。
吐息がかかるほどの距離で笑われると、思考がまともに回らない。
一花さんが目を細めて、満足そうに笑った。
「攻められるの弱いんだから」
「そう見えるなら、一花さんの勝ちだろ」
「……勝ちって」
一花さんの声から、ふっと語尾の跳ねが落ちた。
覗き込んでくる瞳が、答え合わせでもするように俺の顔を見つめている。
「誠ってさ、ほんとに弱い? ただ合わせてくれてるだけなんじゃないの?」
「合わせる余裕なんてないよ。……いつもの、からかいだろ」
精一杯の平静を装って、そう返した。
いつものことだ。
一花さんはこうやって距離を詰めてきて、俺がたじたじになるのを楽しんでいる。
何度もやられた手口で、何度も同じように動揺して、何度も同じように——からかいだと結論づけてきた。
ネクタイに巻きついた一花さんの指が、ぴたりと止まった。
「……」
笑みが消えたわけじゃない。
でも唇の端にあった余裕が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
目が泳ぎ、まばたきがひとつ、多かった。
ネクタイに巻きついたままの指先が、かすかに震えていた。
「一花さん?」
「——べっつにー」
ぱっとネクタイから指が離れ、一花さんが一歩退いて、大げさに肩をすくめてみせる。
「あはは、誠ってほんっとリアクション薄いよねー。もうちょっとドキッとしてくれてもいいのにさ」
「十分してたんだけど」
「うっそだー。ぜんぜん余裕じゃん」
「……さっき、耳まで赤いって言ったのはそっちだろ」
一花さんの笑い声が、半拍だけ遅れた。
「えー、そんなこと言ったっけ。……ま、どっちにしろ言葉だけじゃん、それ。ほんとにドキッとしてたらさ、もうちょっと違う顔すんのかなーって」
一花さんが、わざとらしく口をとがらせる。
「違う顔って、どんなだよ」
「わかんないけどさぁ。あ、もしかしてあたしのやり方、ワンパターンすぎた?」
「ワンパターンとか、そういうんじゃないって」
「じゃあなんでそんな落ち着いてんのよ。つまんないのー。……なんかさ、最近ぜんぶ空振りなんだけど」
茶化すような高い声だった。
でもその早口の端に、返事を急かすような気配が交じっている。
余裕なわけがない。
心臓はまだばくばく言っている。
でも一花さんにとっては、そう見えたのだろう。
一花さんが教卓の横にもたれて、脚を軽く組んだ。
薄日が、明るめの茶髪に淡い光の輪を落としている。
「ねえ、誠」
「うん」
「あたしのこういうの、もう慣れちゃった?」
声の温度が変わっていた。
からかいでも拗ねでもない、確かめるような、でも答えを聞くのが怖いような——そんな声。
教卓にもたれた一花さんの脚が、組まれたまま小さく揺れている。
つま先で床を叩くリズムが、やけに落ち着かない。
「慣れた、っていうか——」
「でしょ。わかってんだ、あたしがどんだけ詰めてもさ、誠って結局、はいはいいつものやつねーって流すじゃん」
一花さんは笑っていた。
けれど、目が笑っていなかった。
「流してないって。一花さんが急に近づいてきたら、そのたび驚いてる」
「驚いてるだけじゃん。で、結局最後はいつものからかいってことにするんでしょ。そうやってまとめられるの、どう思う?」
「どうって……本当にからかってるんだと思ってたから」
「そう見えるよねー。うん、わかるよ」
一花さんの視線が、ふっと窓のほうへ逃げた。
「べつにいーけどさ。あたしってそういうキャラっしょ。ノリいーし、距離バグってるし。はいはい面白いねーって」
「待ってくれ。面白がって見るようなこと、俺はしてない」
「誠はそうかもね。でもさ、結果は同じじゃん」
一花さんは笑ったまま、視線をこちらから外さなかった。
「同じじゃないだろ」
「同じだよ。いくらあたしが頑張ってもさ、結局は、明るくておもしろい一花さん、でストップするんじゃん」
「そんなふうに思ったこと、ないけど」
「思ってなくてもさ、そう扱われんの。慣れてんだ、あたしのほうが」
軽い口ぶりだった。
教卓の縁をなぞる指が、同じところを何度も往復している。
「みんな、あたしの楽しいとこしか見ないんだよね。ま、それしか見せてないあたしのせいだけどさ」
「一花さん、それは——」
「別に責めてるわけじゃないってば。ただの愚痴! ほんっと、たまーに思うだけ」
「たまにって、何を——」
「だからさ。……もしあたしが、こういうの全部やめちゃったら——」
声が、ぴたりと途切れた。
自分の口から出かかった言葉に驚いたみたいに、一花さんの目が見開かれる。
唇がわずかに震えて、それから——。
「——なーんてね!」
大げさに両手を振って、けらけらと笑い飛ばした。
がらんとした教室に笑い声が反響して、壁に跳ね返り、机と椅子のすき間を抜けて、沈黙のなかに散っていく。
「あっはは、なに真面目な顔してんの誠ー。冗談だって冗談。あたしがそんなマジなこと言うわけないっしょ」
いつもの一花さんだった。
いつもの弾ける声、いつもの軽い笑顔。
——でも、その笑いは上滑りしていた。
いつもなら空気に溶けるように軽いのに、今の笑いには力が入りすぎている。
必死に何かを塗りつぶそうとしているみたいだった。
一花さんが教卓から離れて、自分の鞄を手に取った。
「やー、暇つぶしに付き合わせちゃってごめんね。帰ろ帰ろ」
「暇つぶしって……本当にそれだけだったのか?」
「そうだよー。ちょっと誠の顔で遊びたかっただけ」
そのままくるりと背を向けて、さっさとドアへ歩き出す。
「あ、でもあたし寄るとこあったんだ。今日はここまで、解散解散」
「一花さん」
呼び止めると、ドアに向かいかけた足が止まった。
立ち止まった横顔に、夕方の光が当たっている。
「誠ってさ」
一花さんがゆっくりとこちらを向いた。
いつもの笑みを浮かべたまま、けれどどこか試すような目で。
「あたしのこと、ちゃんと見てる?」
——いつもの、ふざけた響きじゃなかった。
からかいも、茶化しも乗っていない。
いつもの崩し方が、半分だけ落ちた声だった。
その響きが、やけに耳に残った。
さっき教卓にもたれて、もう慣れちゃったかと訊いた時と、同じ目だった。
言い方を変えて、一花さんはたぶん、同じことを訊いている。
「見てるよ」
考えるより先に、口をついて出ていた。
嘘じゃない。
小悪魔みたいな笑顔も、距離のおかしい密着も、さっきの上滑りした笑いも。
その奥にいる一花さんも、全部ひっくるめて——ちゃんと見ている。
一花さんが黙った。
ほんの一拍、呼吸ひとつぶんの沈黙。
その短い間に、笑みの奥から、ふだんは決して出てこない表情が覗いた。
やわらかくて脆くて、いつもの一花さんからは想像もつかないもの。
「……ま、当然だけどね!」
弾けるように笑って、一花さんはドアを開けた。
茶色の髪が夕方の光のなかで揺れて、軽い足音が廊下に遠ざかっていく。
ひとり残された教室で、俺はしばらく動けなかった。
一花さんの笑顔はいつも眩しくて、明るくて、大胆で、こっちの心臓を好き勝手に揺さぶってくる。
けれど今日、あの笑い飛ばしの直前に一瞬だけ覗いた顔は、そのどれとも違っていた。
小悪魔の仮面の奥に、別の顔がある。
前にも、そう感じたことはあった。
そのたびに気のせいだと片づけてきたのに、今日はどうしても片づかなかった。
いつもの小悪魔に揺さぶられた心臓は、とっくに落ち着いている。
でもあの一瞬に覗いた別の顔だけが、胸の底でうまく冷えてくれなかった。
俺が見ていたのは、いつも前に出てくる眩しい一花さんで——その後ろにいる一花さんのことを、俺はどれだけ知っているだろう。
窓の外では、雨上がりの夕日が校庭をやわらかく照らしている。
別れぎわのあの沈黙だけが、がらんとした教室のなかで、いつまでも消えなかった。




