↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第2章 後輩ヒロイン襲来と、期末テスト包囲網

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/111

第45話 刺さらない手管、演技の外側

昨日の雨が嘘のように、火曜の空には薄日が戻っていた。

 放課後の二年B組は、足早に人が引いていく。

 廊下のほうから、湿りの残った風がゆるく流れ込んでくる。

 窓から差す光が空っぽの席だけを照らして、もう誰もいないのに教室だけが明るい。

 俺も鞄に教科書を詰めていたところで、不意に手首をつかまれた。


「ちょっと、誠。付き合って」


 一花さんだった。

 返事を待たずに俺の手首を引いて、廊下へ出る。


「え、一花さん? どこに——」


「いーから。黙ってきなって」


 有無を言わさぬ勢いで、二つ隣の空き教室に連れ込まれた。

 がらんとした室内には夕方の薄い光が差し込み、昨日の雨に洗われた空気が、埃っぽいはずのその場をどこか澄ませていた。

 片手にひっつかんだままだった鞄を、一花さんは手近な机の上に放り出した。


 ドアが閉まる音がして振り向くと、一花さんがドアを背にして立ちふさがっていた。

 腕を組んで、唇の端をつり上げて、見上げるような角度でこちらを見ている。


「逃がさないからね?」


 ——なんだこの状況。

 低く甘い声だった。

 誰もいない空間では、一花さんの柑橘系の香りがやけに鮮明に届く。


「に、逃げるつもりはないんだけど……」


「ほんとにー? 最近の誠さぁ、あたしのこと避けてない?」


「避けてないって」


「じゃあなんで目が合うと、すぐどっか見るの?」


「それは、一花さんが変に距離詰めてくるから……」


「へえ、あたしのせいにすんならさ。もっと近くで確かめてあげよっか」


 一花さんがドアから離れて、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 後ずさった腰に、固いものが当たった——教卓の縁だ。

 退路がない。


 一花さんが目の前に立つと、腕一本ぶんの距離もなかった。

 呼吸のたびに胸元が浅く上下するのが視界の隅に入って、俺はとっさに目線を上へ逃がした。


「ねえ、誠」


 一花さんが首をかしげて、俺のネクタイに指をかけた。

 人差し指と中指で生地を挟んで、くるりと一巻き。

 引かれた分だけ、顔が近づく。


「あたしの顔、こんな近くで見るの久しぶりじゃない?」


「近いって、一花さん。まだ学校だし——」


「誰もいないよ? それとも誰か来たら、困る理由でもあんの?」


「別に困らないけど、そんな引っ張ったら——」


「ほら、またそうやって理屈ばっか。逃げるの上手だよね、誠って」


 ——近すぎる。

 睫毛の一本一本まで数えられそうだった。

 整った顔にはいたずらの色が浮かんで、唇に乗った薄いグロスが、窓からの光を弾いている。


 不意に一花さんが体重を預けるように半歩詰めて、肩が俺の胸に触れた。

 薄い半袖ブラウス越しでも伝わる柔らかさと体温に、背筋が強張る。


「ほーら、目ぇ逸らしちゃだめだよ?」


「逸らしてない。だから、ちょっと離れ——」


「いや。まだ離してあげない」


 一花さんがネクタイをもう少し引いて、教卓の縁を掴んだ俺の手のすぐ横に、自分の手を置いた。

 完全に囲い込まれた形だ。


「待って、一花さん。本当に近いって」


「知ってる」


 耳元に唇を寄せて、囁いた。

 吐息が首筋をくすぐり、髪先が頬をかすめた。

 心臓がうるさい。


「……ねえ、誠。今、どんな気持ち?」


 息がかかるほど近い位置で、一花さんが俺の顔をじっと覗き込んでくる。


「どんなって……驚いてるよ。いきなり連れ出されて、こんな——」


「それだけ? ドキッとしてる? それとも、迷惑?」


「迷惑なわけないだろ。ただ、加減ってものがあると思う」


 こっちの動揺を見透かしたみたいに、一花さんがくすりと笑う。


「心臓の音、聞こえちゃうかもよ?」


「聞こえてるなら、なおさら離れてほしいんだけど」


「えー、もっと聞かせてよ。あたしがどれくらい誠に効いてるのかさ」


 一花さんは心底楽しそうに俺の反応を見ている。

 こちらの目から、視線が一度も外れない。


「ほらほら、顔赤い。耳まで赤いよ、誠」


「……気のせいだ」


 言い返しながら、視線だけが勝手に横へ滑った。


「気のせいじゃないもん。ほら、こっち向いて」


 教卓についていた手がすっと持ち上がって、ひんやりした指先に顎をすくわれ、くいっと正面を向かされる。

 近すぎて焦点が合わない。

 吐息がかかるほどの距離で笑われると、思考がまともに回らない。

 一花さんが目を細めて、満足そうに笑った。


「攻められるの弱いんだから」


「そう見えるなら、一花さんの勝ちだろ」


「……勝ちって」


 一花さんの声から、ふっと語尾の跳ねが落ちた。

 覗き込んでくる瞳が、答え合わせでもするように俺の顔を見つめている。


「誠ってさ、ほんとに弱い? ただ合わせてくれてるだけなんじゃないの?」


「合わせる余裕なんてないよ。……いつもの、からかいだろ」


 精一杯の平静を装って、そう返した。

 いつものことだ。

 一花さんはこうやって距離を詰めてきて、俺がたじたじになるのを楽しんでいる。

 何度もやられた手口で、何度も同じように動揺して、何度も同じように——からかいだと結論づけてきた。


 ネクタイに巻きついた一花さんの指が、ぴたりと止まった。


「……」


 笑みが消えたわけじゃない。

 でも唇の端にあった余裕が、ほんの一瞬だけ硬くなった。

 目が泳ぎ、まばたきがひとつ、多かった。

 ネクタイに巻きついたままの指先が、かすかに震えていた。


「一花さん?」


「——べっつにー」


 ぱっとネクタイから指が離れ、一花さんが一歩退いて、大げさに肩をすくめてみせる。


「あはは、誠ってほんっとリアクション薄いよねー。もうちょっとドキッとしてくれてもいいのにさ」


「十分してたんだけど」


「うっそだー。ぜんぜん余裕じゃん」


「……さっき、耳まで赤いって言ったのはそっちだろ」


 一花さんの笑い声が、半拍だけ遅れた。


「えー、そんなこと言ったっけ。……ま、どっちにしろ言葉だけじゃん、それ。ほんとにドキッとしてたらさ、もうちょっと違う顔すんのかなーって」


 一花さんが、わざとらしく口をとがらせる。


「違う顔って、どんなだよ」


「わかんないけどさぁ。あ、もしかしてあたしのやり方、ワンパターンすぎた?」


「ワンパターンとか、そういうんじゃないって」


「じゃあなんでそんな落ち着いてんのよ。つまんないのー。……なんかさ、最近ぜんぶ空振りなんだけど」


 茶化すような高い声だった。

 でもその早口の端に、返事を急かすような気配が交じっている。


 余裕なわけがない。

 心臓はまだばくばく言っている。

 でも一花さんにとっては、そう見えたのだろう。


 一花さんが教卓の横にもたれて、脚を軽く組んだ。

 薄日が、明るめの茶髪に淡い光の輪を落としている。


「ねえ、誠」


「うん」


「あたしのこういうの、もう慣れちゃった?」


 声の温度が変わっていた。

 からかいでも拗ねでもない、確かめるような、でも答えを聞くのが怖いような——そんな声。

 教卓にもたれた一花さんの脚が、組まれたまま小さく揺れている。

 つま先で床を叩くリズムが、やけに落ち着かない。


「慣れた、っていうか——」


「でしょ。わかってんだ、あたしがどんだけ詰めてもさ、誠って結局、はいはいいつものやつねーって流すじゃん」


 一花さんは笑っていた。

 けれど、目が笑っていなかった。


「流してないって。一花さんが急に近づいてきたら、そのたび驚いてる」


「驚いてるだけじゃん。で、結局最後はいつものからかいってことにするんでしょ。そうやってまとめられるの、どう思う?」


「どうって……本当にからかってるんだと思ってたから」


「そう見えるよねー。うん、わかるよ」


 一花さんの視線が、ふっと窓のほうへ逃げた。


「べつにいーけどさ。あたしってそういうキャラっしょ。ノリいーし、距離バグってるし。はいはい面白いねーって」


「待ってくれ。面白がって見るようなこと、俺はしてない」


「誠はそうかもね。でもさ、結果は同じじゃん」


 一花さんは笑ったまま、視線をこちらから外さなかった。


「同じじゃないだろ」


「同じだよ。いくらあたしが頑張ってもさ、結局は、明るくておもしろい一花さん、でストップするんじゃん」


「そんなふうに思ったこと、ないけど」


「思ってなくてもさ、そう扱われんの。慣れてんだ、あたしのほうが」


 軽い口ぶりだった。

 教卓の縁をなぞる指が、同じところを何度も往復している。


「みんな、あたしの楽しいとこしか見ないんだよね。ま、それしか見せてないあたしのせいだけどさ」


「一花さん、それは——」


「別に責めてるわけじゃないってば。ただの愚痴! ほんっと、たまーに思うだけ」


「たまにって、何を——」


「だからさ。……もしあたしが、こういうの全部やめちゃったら——」


 声が、ぴたりと途切れた。

 自分の口から出かかった言葉に驚いたみたいに、一花さんの目が見開かれる。

 唇がわずかに震えて、それから——。


「——なーんてね!」


 大げさに両手を振って、けらけらと笑い飛ばした。

 がらんとした教室に笑い声が反響して、壁に跳ね返り、机と椅子のすき間を抜けて、沈黙のなかに散っていく。


「あっはは、なに真面目な顔してんの誠ー。冗談だって冗談。あたしがそんなマジなこと言うわけないっしょ」


 いつもの一花さんだった。

 いつもの弾ける声、いつもの軽い笑顔。

 ——でも、その笑いは上滑りしていた。

 いつもなら空気に溶けるように軽いのに、今の笑いには力が入りすぎている。

 必死に何かを塗りつぶそうとしているみたいだった。


 一花さんが教卓から離れて、自分の鞄を手に取った。


「やー、暇つぶしに付き合わせちゃってごめんね。帰ろ帰ろ」


「暇つぶしって……本当にそれだけだったのか?」


「そうだよー。ちょっと誠の顔で遊びたかっただけ」


 そのままくるりと背を向けて、さっさとドアへ歩き出す。


「あ、でもあたし寄るとこあったんだ。今日はここまで、解散解散」


「一花さん」


 呼び止めると、ドアに向かいかけた足が止まった。

 立ち止まった横顔に、夕方の光が当たっている。


「誠ってさ」


 一花さんがゆっくりとこちらを向いた。

 いつもの笑みを浮かべたまま、けれどどこか試すような目で。


「あたしのこと、ちゃんと見てる?」


 ——いつもの、ふざけた響きじゃなかった。

 からかいも、茶化しも乗っていない。

 いつもの崩し方が、半分だけ落ちた声だった。

 その響きが、やけに耳に残った。


 さっき教卓にもたれて、もう慣れちゃったかと訊いた時と、同じ目だった。

 言い方を変えて、一花さんはたぶん、同じことを訊いている。


「見てるよ」


 考えるより先に、口をついて出ていた。

 嘘じゃない。

 小悪魔みたいな笑顔も、距離のおかしい密着も、さっきの上滑りした笑いも。

 その奥にいる一花さんも、全部ひっくるめて——ちゃんと見ている。


 一花さんが黙った。

 ほんの一拍、呼吸ひとつぶんの沈黙。

 その短い間に、笑みの奥から、ふだんは決して出てこない表情が覗いた。

 やわらかくて脆くて、いつもの一花さんからは想像もつかないもの。


「……ま、当然だけどね!」


 弾けるように笑って、一花さんはドアを開けた。

 茶色の髪が夕方の光のなかで揺れて、軽い足音が廊下に遠ざかっていく。


 ひとり残された教室で、俺はしばらく動けなかった。

 一花さんの笑顔はいつも眩しくて、明るくて、大胆で、こっちの心臓を好き勝手に揺さぶってくる。

 けれど今日、あの笑い飛ばしの直前に一瞬だけ覗いた顔は、そのどれとも違っていた。


 小悪魔の仮面の奥に、別の顔がある。

 前にも、そう感じたことはあった。

 そのたびに気のせいだと片づけてきたのに、今日はどうしても片づかなかった。


 いつもの小悪魔に揺さぶられた心臓は、とっくに落ち着いている。

 でもあの一瞬に覗いた別の顔だけが、胸の底でうまく冷えてくれなかった。

 俺が見ていたのは、いつも前に出てくる眩しい一花さんで——その後ろにいる一花さんのことを、俺はどれだけ知っているだろう。


 窓の外では、雨上がりの夕日が校庭をやわらかく照らしている。

 別れぎわのあの沈黙だけが、がらんとした教室のなかで、いつまでも消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。