第44話 月曜日の雨と、相合傘の素顔
月曜の朝は、今にも泣き出しそうな鉛色の空だった。
窓の外を確かめても雨はまだ落ちていなかったが、念のため鞄の底に折りたたみ傘を放り込んで家を出る。
空は一面に雲が低く垂れ込めて、切れ目ひとつ見えなかった。
案の定、駅に着くころにはぽつぽつと来て、校門をくぐる前には本降りになっていた。
昇降口で靴を履き替えていると、背中のほうから、ぺたぺたと湿った足音が近づいてきた。
「……おはようございます、センパイ」
振り返って、思わず動きが止まった。
篠崎が、頭のてっぺんからつま先まで、まるごと水を被ったみたいに濡れていた。
半袖ブラウスは雨を吸って肌に張りつき、毛先からぽたぽたと雫が落ちて、タイルの上に小さな水たまりを作っている。
濡れた前髪が額に張りついて、いつもの弾けるような笑顔はどこにもない。
捨て猫みたいに濡れそぼって、しょんぼりと肩を落としていた。
「……どうしたんだ、その格好。傘は」
「忘れちゃいました。……朝はまだ降ってなかったから」
「天気予報くらい見ろよ」
「それが、見なかったんですよね……。そしたら途中で急に降ってきて、雨宿りする場所もなくて……」
えへへ、と笑ってみせるけれど、語尾はすっかりしぼんでいた。
六月の雨は生ぬるいとはいえ、ここまで濡れれば冷える。
鞄の中から予備のタオルを引っ張り出して、篠崎の頭にバサッとかけてやった。
体育の授業で使っているものだが、洗濯はしてある。
「ほら、自分で拭け。髪もびしょびしょだ」
「あっ……ありがとうございます。でも、せっかくのタオルが濡れちゃいますよ」
「いいから拭け。風邪引くぞ」
篠崎はタオルを両手で握って、おずおずと髪を拭きはじめた。
「……冷たっ。服が、体にくっついちゃって」
濡れて張りついた制服が、ボーイッシュな見た目には似合わない胸の輪郭をはっきりと拾っていて、俺はとっさに視線を逸らした。
「へっくちゅ!」
篠崎が小さくくしゃみをして、それから恥ずかしそうに肩をすくめる。
「……ほら見ろ。冷えてるじゃないか」
「だ、大丈夫です。タオル貸してもらったので、もうぽかぽかですよ」
そう言って気丈に笑おうとするけれど、いつもの勢いはどこにもなかった。
濡れた肩がかすかに震えているのを、本人は隠しているつもりらしい。
「濡れてるのに、ぽかぽかなわけあるか。……無理すんな。着替えられるなら、早く着替えてこい」
「はい……。ありがとうございます、センパイ」
篠崎はタオルを握りしめたまま、ぺこりと頭を下げて、とぼとぼと教室のほうへ歩いていった。
その背中は、いつものぱたぱた跳ねるような足取りとはまるで違って、雨に濡れた分だけ重たそうに見えた。
◇
六限が終わっても、雨は一向にやむ気配がなかった。
窓の外では灰色の雲が低く垂れ込めて、校庭は水を含んだ土の匂いを立ちのぼらせている。
教室では放課後の帰り支度が早い。
期末テストが近いせいか、部活を切り上げて帰る連中が多かった。
「じゃーね、誠。あたし今日ミサキたちと買い物行くからさー」
一花さんがひらひらと手を振って出ていき、入れ違いに二葉さんが席を立った。
「私も失礼するわ。提出物をまとめておきたいの」
小さくうなずいて、鞄を手に静かに教室を出ていく。
廊下を折れて、職員室のあるほうへ消えていった。
三桜さんはもっと早く、五限が終わった時点で家の用事があると帰っていた。
金曜に見たあのすこし沈んだ背中を思い出す。
今日の三桜さんは笑っていたけれど。
三人が揃って別の予定を入れている放課後は、思い返してみてもそう多くない。
いつもは誰かしらが机のそばに残っているから、こう誰もいないと妙に勝手が違う。
鞄を持って昇降口に降りると、ガラスの向こうは相変わらずの雨だった。
折りたたみ傘を開こうとしたところで、下駄箱の陰から声がした。
「あ」
篠崎だった。
ローファーに履き替えたまま、昇降口の軒下から雨を見上げている。
「……篠崎、まだいたのか?」
「えへへ……朝、傘忘れたの覚えてます? 結局一日このままで」
「覚えてるも何も、ずぶ濡れだったからな」
「あはは、そうでした。——あ、タオル、ありがとうございました。洗って返しますね」
「ああ。……いや、わざわざ洗わなくても、そのままでいい」
「あ。私の温もりがあったほうが、嬉しいですか?」
篠崎はそう言って、からかうようにニシシと笑った。
いつもの調子が一瞬だけ顔を出して、けれどすぐにまた、雨の音に紛れて引っ込んでしまう。
「……変なことを言うな」
軽口を返しながら、篠崎の足元に目をやる。
鞄があるだけで、傘はどこにもなかった。
「誰か友達に入れてもらおうかと思ったんですけど、みんな部活行っちゃったり、さっさと帰っちゃってて」
篠崎はつま先で、意味もなく床をこすった。
「……さすがに、この雨の中を駅まで走るのは、ちょっと厳しいですよね」
朝もずぶ濡れだったのに、このままじゃ帰りもまた濡れてしまう。
放っておくわけにはいかなかった。
「入れよ」
折りたたみ傘を広げて、篠崎のほうへ差し出した。
「え?」
「一緒に帰ろう。方向、途中まで同じだろ」
篠崎は一瞬きょとんとして、それからゆっくりとうなずいた。
「……はい。ご一緒させてください」
その声は、いつものはしゃいだ返事とはどこか違って、静かだった。
折りたたみ傘は一人でさすにはちょうどいいが、二人で入るには心もとない。
並んで歩き出すと、篠崎の右肩が傘のふちからはみ出しそうになる。
無意識に傘を篠崎のほうへ傾けると、今度は俺の左肩に雨が当たり始めた。
「あっ、センパイ、濡れてますよ」
「いい。篠崎のほうが小さいんだから、こっちに寄れ」
「で、でも……」
「いいから」
篠崎がおずおずと半歩寄ってきた。
肩と肩のあいだは、指が二、三本入るかどうかの距離しかない。
傘を打つ雨音のなかで、彼女の息遣いだけがやけに近い。
歩幅を篠崎に合わせると、自然と歩みが遅くなった。
篠崎は俺のすぐ横で、水たまりを丁寧に避けながら歩いている。
雨が傘を叩く音と、二人ぶんの足音だけが、通りに響いていた。
「……すごい雨ですね」
「ああ。今日はずっとだな」
「洗濯物、干せませんね」
「……そうだな」
たわいもないことを話しているはずなのに、いつもより会話が短い。
篠崎はときどき俺を見上げるように首を傾けるけれど、目が合うとすぐに前を向いてしまう。
いつものあの弾けるような笑顔が嘘みたいに、今の篠崎は静かだった。
信号待ちで立ち止まった。
傘を持つ手を少し下げると、雨粒が傘の縁からぽつぽつと落ちて、篠崎のローファーのつま先をかすめる。
「あ、ごめん」
「大丈夫です」
篠崎はそう言って、ちいさく笑った。
けれどその笑顔のどこかに、朝とは違うものが混じっている。
もっと静かで、もっとやわらかくて——すこしだけ寂しそうな。
信号が変わって、また歩き出した。
雨音だけが傘の上で跳ねている。
すぐ脇を車が通り過ぎて、車道の水が大きく跳ね上がった。
「危ない」
とっさに傘を車道側へ倒して篠崎を庇う。
水しぶきは傘の布を叩いて、歩道の縁にぼたぼたと落ちた。
「わ……ありがとうございます」
篠崎は目を丸くして、それからそっと俺のほうへ体を寄せた。
さっきよりも、肩と肩の距離が近い。
「……あの、センパイ」
「ん?」
「雨の日って、なんだか寂しくなりますよね」
ぽつりと、雨音に紛れるくらいの声だった。
篠崎は前を向いたまま、鞄の持ち手を両手でぎゅっと握っている。
「……そうだな」
「人がみんな早く帰っちゃうし、外も暗いし。……傘に入ってると、まわりの音が遠くなって、なんだか自分だけ切り離されてるみたいで」
いつもの篠崎なら、こんなことは言わない。
雨の日だって元気に笑って、水たまりを飛び越えるくらいのことはしそうなのに。
けれど今、隣を歩いている篠崎からは、その勢いがすっかり抜けていた。
「……篠崎」
「あ、すみません。変なこと言いましたよね」
篠崎が慌てて笑顔を作ろうとして、けれどうまくいかなかったのだろう、中途半端なまま口元が止まった。
「変じゃないだろ。雨の日は、俺もすこしそう思うときがある」
「……センパイも、ですか?」
「ああ。ただ、うるさいくらい降ってるほうが、余計なことを考えずに済むときもある」
篠崎がちらりとこちらを見上げた。
頭ひとつぶん低い位置から、濡れた前髪の隙間の目がじっと俺を見ている。
いつもきらきらと動き回っている目が、今はどこか凪いでいた。
「……よかった」
なにが、とは聞けなかった。
篠崎の声が、あまりにも静かだったから。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
傘に雨が当たる音だけが、小さな屋根の下に降り積もっていく。
篠崎はときどき歩幅が合わなくなって、俺の腕にかすかに肩が触れた。
そのたびに小声で「すみません」と言うけれど、離れようとはしなかった。
三姉妹の誰かといるときの、押し切られるような密着とは違った。
もっと静かで、雨に冷えた空気のなかで、肩の触れるところだけがほのかに温かい。
不意に、篠崎が足を止めた。
「どうした?」
「……左の肩、ずっと濡れてたんですね」
言われて自分の肩を見ると、たしかに制服の色がそこだけ濃く変わっていた。
傘を篠崎のほうへ傾けたまま歩いていたせいで、左半身がずっと傘の外にはみ出していたらしい。
「これくらい平気だ。すぐ乾く」
「駄目ですよ。私を入れてくれてるのに、センパイが濡れちゃったら意味ないじゃないですか」
篠崎は俺の左腕をきゅっと引いて、自分から傘の真ん中へ身を寄せてきた。
小柄な体がひとつぶん入ってきて、傘の下がいっそう狭くなる。
「ほら。これなら濡れません」
「……あんまり寄ると、歩きにくいぞ」
「いいじゃないですか、少しの間くらい」
篠崎は俺の腕に軽く寄りかかるようにして、また歩き出した。
「センパイ」
「うん」
「センパイって、本当に優しいですね」
唐突だった。
思わず横を見ると、篠崎はまっすぐ前を向いたままだった。
その横顔には照れも勢いもなく、灰色の雨のなかにぽつんと浮かんだ、素の表情があった。
「朝もタオル貸してくれたし、今もこうやって傘に入れてくれるし。……当たり前みたいにしてくれるけど、当たり前じゃないですよ、そういうの」
いつもなら、傘を忘れたお前が悪いんだろ、とでも茶化して返している場面だ。
その軽さが、今は使えなかった。
「……別に、大したことは」
「大したことだと思います」
篠崎の声は穏やかだったけれど、静かに力がこもっていた。
冗談めかした調子ではなく、ひとつひとつの言葉を確かめるように口にしている。
——なんだろう、これ。
いつも、うるさいくらい元気にはしゃいでいる篠崎と、今隣にいる篠崎が同じ人間なのに、まるで別の誰かみたいだった。
元気な後輩の殻の内側に、こんな静かな顔があったのか。
やがて、駅が見えてきた。
駅舎の屋根の下に入り、広げていた折りたたみ傘を畳む。
雨音は遠のき、代わりに帰宅を急ぐ生徒たちのざわめきが響いていた。
「……あ、私、乗るホームこっちなんで。ここで」
改札を抜けた先で篠崎が立ち止まって、下り方面の階段を指した。
「そうか。——これ、持っていけ」
俺は畳んだばかりの折りたたみ傘を、篠崎に差し出した。
「え……でも、センパイが」
「俺は駅から十分も歩けば着くから、走ればどうってことない」
「……いいんですか?」
「また最寄り駅から、朝みたいにずぶ濡れになられても困る」
口に出してから、ちょっと余計なことを言ったかもしれないと思った。
篠崎は傘を受け取って、両手で柄を握りしめた。
「……センパイも、帰ったらちゃんと肩、拭いてくださいね。お風呂にも入って、温まってください」
「ああ。……そっちも、風邪引くなよ」
それだけ言い合って、篠崎はしばらく動かなかった。
「……今日のこと、忘れないでくださいね」
いつもの勢いのない、静かな声だった。
篠崎は俺を見上げて、笑っていた。
寂しさの残り香みたいなものがその笑顔のすみに漂っているのに、元気で塗りつぶそうとはしていなかった。
ただ、静かに、まっすぐに笑っている。
返事をしようとして、喉に言葉がつかえた。
篠崎はちいさく頭を下げると、階段のほうへ歩き出した。
借りものの傘を両手で大事そうに抱えたまま、小柄な背中が雑踏のなかへ遠ざかっていく。
ホームへ降りていく彼女の姿が見えなくなっても、俺はまだそこに立っていた。
——今の、なんだったんだろう。
篠崎の静かな横顔と、あの声が、駅の喧騒のなかでいつまでも消えなかった。
胸の奥でなにかが小さくざわついている。
名前のつけようがない、でもたしかにそこにある、かすかなざわめき。
外ではまだ、雨が降り続けているはずだった。
肩がぶつかるほど近くにいた彼女の体温はもうないのに、冷たさよりも先に、甘いシャンプーの残り香がまだ鼻の奥に居座っていた。




