第42話 図書室の沈黙、乱れる足並み
木曜の放課後、図書室に着くと、二葉さんはもう奥の席に陣取っていた。
色分けされた付箋が教科書の縁にきれいに並び、参考書が三冊、予備のルーズリーフまで卓上に揃っている。
期末テストまで、あと二週間ほど。
その準備の完璧さが、正直すこし怖い。
「座って。今日は高次方程式から片づける」
二葉さんが引いてくれた右隣の椅子に、おとなしく腰を下ろした。
放課後の図書室は静まりかえっていて、遠くの席でだれかがめくるページの音だけが、やけに大きく響いている。
窓から差し込む西日が、テーブルの天板をゆっくりと橙色に染めていた。
二葉さんの赤ペンの先が、こちらが鉛筆を構えるより早く、俺のノートの一行を軽く叩いた。
「ここ。符号が落ちてる。先週と同じ箇所」
——先週の間違いまで、覚えているのか。
ささやき声なのに、妙な圧があった。
「……よく覚えてるな」
「当然。あなたの癖は、だいたい把握してるから」
さらりと言い切って、二葉さんは次の問題を指した。
指導そのものは的確で、無駄がない。
——その一言の奥にあるものには、いまは触れないでおこう。
赤ペンが余白を埋めていくにつれて、さっきまで引っかかっていた公式が、不思議とすんなり頭に入ってくる。
二葉さんに教わっていると、テストそのものは怖くなくなるから不思議だ。
——怖いのは、教える側のほうだけど。
解き直しをノートに書き込んでいると、入口のほうから軽い足音が近づいてきた。
「センパイ! ここだったんですね」
篠崎だ。
鞄を肩にかけたまま、まわりの席を気にする素振りもなく、まっすぐこちらへ歩いてくる。
カウンターの図書委員が、すかさず人差し指を立てて「しーっ」とやった。
篠崎はぺこりと首をすくめてから、俺たちの正面の席に、すとんと腰を下ろす。
その動きに、ためらいというものがまるでなかった。
「勉強会、ですよね? 私も混ぜてください」
声はちゃんとひそめているのに、上目遣いの目だけは、まったくひそんでいない。
教科書と筆箱を、ぱたぱたと正面に広げていく。
その横で、二葉さんの赤ペンが一瞬だけ止まった。
「……どうぞ」
短く返事をして、すぐに視線はノートへ戻ったけれど、ペンを置き直す手つきが、ほんのわずかに固い。
テーブルの空気が、一度だけ、すっと冷たくなった気がした。
篠崎が座って三分と経たないうちに、今度は三桜さんが小走りでやってきた。
入口でテーブルをちらりと見渡すと、まだ空いていた俺の右隣に、迷わず鞄を置く。
席を確保する手際が、やけに早い。
篠崎のほうを一度だけうかがってから、安心したように腰を下ろした。
「えへへ、私もここで、一緒に勉強しよっかなって」
左に二葉さん、右に三桜さん、正面に篠崎。
残る空きは、もう俺の背後しかない。
いやな予感がした、そのときだった。
「あれ、誠じゃん。みんないたんだ」
最後にやってきた一花さんは、驚いた声を出しているわりに、鞄からはもう筆記用具が顔を出していた。
偶然にしては、ずいぶん準備がいい。
両隣が埋まっているのを見てとると、一花さんは一瞬だけ唇を尖らせ、それからするりと俺の背後に椅子を寄せてきた。
「誠のノート、見せてよ。後ろからでも見えるしさ」
肩越しにぐっと身を乗り出され、背中に柔らかい感触が押し当てられる。
頬のすぐ横に、彼女の髪がひと房こぼれ落ちてきた。
気がつけば、前後左右をすっかり塞がれている。
逃げ場が、ない。
「一緒に教科書見たほうが、効率いいでしょ?」
耳元でささやかれると、うまく反論が出てこない。
——効率という単語の使い方が、明らかに間違っている。
「それは効率じゃない。ただの密着でしょう」
左隣から、ひんやりした声が差し込んできた。
二葉さんは単語帳から目も上げないまま、的確な一突きを放ってくる。
「だいたい、そのページはもう終わったところでしょう。くっついて、指導の邪魔をしないで」
「うっ……ぐ、偶然だし。たまたま、後ろが空いてただけだし」
「偶然で、腕は絡まない」
二の句を継げず、一花さんが頬をうっすら染めて身を引いた。
建前を正面から刺されてうろたえる横顔を見て、俺はほんの少しだけ息をつく。
——刺したほうも、このあと人のことは言えなくなるのだが。
最初の十分は、奇跡的に静かだった。
二葉さんが淡々と解法を示し、俺がノートに書き取り、篠崎は自分の教科書と見比べている。
背後の一花さんは教科書を開いてはいるものの、ページがいっこうに進んでいない。
右隣の三桜さんは、真面目に問題と格闘しつつ、ときどき俺の手元をちらちらと窺ってくる。
——静かだったのだ。
本当に、十分だけは。
こつん。
机の下で、俺のふくらはぎに何かが触れた。
正面の篠崎を見ても、当人は涼しい顔でノートの一行を指している。
「センパイ、ここの変形が、わかんなくて」
いつのまにか、篠崎は机の下で片方の靴を脱いでいたらしかった。
白い靴下越しのつま先が、俺のふくらはぎをつうっと撫で上げてくる。
柔らかくて小さい、確信犯みたいな足先だ。
天然なのか狙っているのか、篠崎の表情からはまるで読めない。
おかげで俺は、足を引っ込めるタイミングを完全に見失った。
仕方なく身を乗り出して、机の向かいから、篠崎の教科書を覗き込んだ。
近づいた拍子に、シャンプーの甘さがほのかに届く。
途中式を指でたどりながら説明すると、篠崎が大きくうなずく。
「そっか、順番に崩していくんですね。センパイの説明、すごくわかりやすい」
まっすぐ嬉しそうな顔を向けられると、どうにも悪い気がしない。
——左右と背後から視線が突き刺さっている気がしたが、気のせいだと思うことにした。
「あと、ここも。この問題もお願いしていいですか?」
全然遠慮がない。
けれど嫌味がないのが、篠崎の厄介なところだ。
その隙を逃さず、一花さんがまた背中にもたれてくる。
「ねえ誠、こっちも見てくれない? わかんないとこ、あってさ」
「動かないで。指導の途中なの」
二葉さんの赤ペンが、横からすっと伸びてきて、ぴたりと俺の解答欄を押さえた。
声は静かなのに、刃物みたいによく通る。
「マコトに勉強を教えるのは、私。横から手を出さないで」
「うわ、独占欲」
一花さんがにやりと笑った。
「二葉ってさ、誠のこと見すぎじゃない? ちょっと怖いって」
「……ちゃんと見ていないと、つまずく前に気づけないでしょう」
「だいたい、指導にしちゃ顔が近すぎない?」
「……距離は、関係ない」
「あるでしょ」
言い返す言葉は出てこないまま、二葉さんの耳の先が、じわりと赤くなっていく。
理屈できっちり武装しても、照れまでは隠しきれないらしい。
ノートの上に置かれた赤ペンが、かすかに震えたのを、俺は見なかったことにした。
カウンターのほうから、図書委員がまた「しーっ」と人差し指を立てる。
四人がてんでばらばらに、首をすくめた。
二葉さんは何ごともなかった顔で赤ペンを持ち直したが、耳はまだ赤いままだ。
しばらくは、誰も口を開かなかった。
ペンが走る音だけが、静かに重なっていく。
——この一分足らずが、今日いちばん勉強の進んだ時間だった気がする。
不意に、三桜さんが俺の手元へそっと栞を差し出してきた。
「誠くん、これ、ここに挟んでおくと後で見やすいよ」
……挟む必要のあるページではなかったが、その控えめな差し出し方に、何も言えなかった。
そのあと、また篠崎がひとしきり俺を質問攻めにしてから、ぺらりと教科書のページをめくった。
「二葉先輩は、ご自分の勉強しなくて大丈夫なんですか? 他の人のことばっかりで」
「私の課題は、とっくに終わっている」
「ふうん。終わってるのに、わざわざ相沢センパイのお世話をしてるんですね。……相沢センパイって、すごく大事にされてるんですね」
悪びれない一言に、二葉さんの手が一瞬だけ止まった。
張り詰めかけた空気におろおろと視線を泳がせていた三桜さんが、篠崎の広げたノートを見て、思わず口を開く。
「あ、あのね、篠崎さん。その問題なら、こっちの式を先に当てはめると——あっ」
反射的に助け舟を出しかけて、三桜さんがはっと口をつぐむ。
自分が誰に何を教えかけたのか、いまになって気づいたらしい。
行き場をなくした手を膝の上に戻して、気まずそうに視線を泳がせている。
「三桜先輩、ありがとうございます。やさしいんですね」
篠崎がにこっと笑うと、三桜さんは困ったように、それでもどこか安心したように、小さく笑い返した。
——その一瞬の戸惑いに気づいたのは、たぶん俺だけだった。
そのあとも、声を出せないテーブルの上で、静かな攻防は途切れなかった。
俺のノートの端っこに、三桜さんがこっそりペンで落書きをしてきたり。
張り合った一花さんが、また一段と背中から身を乗り出してきたり。
机の下から、篠崎のつま先がまたそっと伸びてきたり。
気がつけば、テーブルの上は四人ぶんの教科書とノートで、すっかり埋め尽くされていた。
正直、まともに勉強が進んだのかは怪しい。
二葉さんの指導は正確で、篠崎の質問もちゃんとしていたのに、左右と背後の密着と机の下の攻防のせいで、俺の集中力は最初の十分以降ほぼ壊滅していた。
それでも不思議と、嫌ではなかった。
窓の外がだいぶ暮れたころ、篠崎が教科書をぱたんと閉じた。
「今日はここまでにします。ありがとうございました、センパイ」
ぺこりと頭を下げて、鞄を肩にかけ直す。
「綾瀬先輩たちも、ありがとうございました」
三姉妹にもにこりと会釈して、篠崎はすたすたと図書室を出ていった。
その足取りが、やけに軽い。
面倒で、疲れて、逃げ場がなくて。
なのに篠崎が去ると、テーブルがほんの少しだけ広くなった気がした。
にぎやかなのが嫌じゃなかった自分に気づいて、俺は小さくため息をつく。
——この感想がいちばん、困る。
◇
図書室を出て、めいめいの帰路につくと、三姉妹だけが連れ立って、夕暮れの道を歩いていた。
夕日が、三つの長い影をアスファルトに落としている。
歩きながらスマホをいじっていた一花が、ふいにその画面を二葉のほうへ傾けた。
打ち込まれていたのは、一行だけだった。
——あの子、本気すぎない?
声に出すには、少しだけ重すぎたのかもしれない。
二葉は画面を一瞥して、静かにうなずいた。
「ええ。私たちがどれだけ壁を作っても、平然と入り込んできたわね」
「……全然こっちのペースに乗ってこないんだけど」
一花は前髪をかき上げて、小さく唇を尖らせる。
その声からは、普段の余裕がすっかり抜け落ちていた。
「……なんかさ、手ごたえないんだよね。いつものが、全然通じない」
二葉は何も返さず、ただ前を見据えて歩く。
恋敵へ向けた静かな警戒だけが、その横顔ににじんでいた。
三桜は、二人の少し後ろを歩いていた。
先に帰っていった小さな背中を、まだ思い返している。
鞄の持ち手をきゅっと握り直して、暮れかけた空を見上げた。
言いたいことはあった気もしたけれど、結局、何も言えなかった。
三人の足並みは、まだ、揃っていない。




