第41話 まっすぐな宣戦布告、嫌いになれない後輩
放課後の教室は、とっくに空になっていた。
三桜は机の上に残された紙の束を見つめて、小さく息をついた。
英語の課題プリント、学級通信の余り、進路アンケートの回収分。
そこに美化委員の連絡用紙まで重なって、もはやどれがどれだか分からない。
全部、頼まれたものだ。
日直の子から課題プリントを託された。
引き受けたら、窓際のグループからもついでにと学級通信の束を渡された。
そのあと美化委員の子にも呼び止められて、気がつけば両腕いっぱいの紙の山ができあがっていた。
断ればよかったのかもしれない。
でも新しいクラスにようやく馴染みかけた今、声をかけてもらえるのが嬉しくて——嫌とは言えなかった。
「うぅ……これ、落とさずに運べるかな」
両腕で抱え上げると、紙の山が顎の下まで来る。
三姉妹のなかでいちばん小柄な三桜には、明らかに多すぎる量だった。
前がほとんど見えないまま教室を出た。
廊下の端に上履きの先がつっかかって、危うくよろめきかけた。
放課後の校舎は静まりかえっていて、三桜の上履きだけがぺたぺたと音を立てている。
職員室は一階だ。
階段を降りかけたところで、紙束のてっぺんがぐらりと傾いた。
三桜は慌てて顎で押さえる。
腕がぷるぷると震えて、一番上のプリントが滑り出しそうになる。
このまま崩れたら全部拾い直しだ——そう覚悟した瞬間、腕の中から紙束の半分がひょいと抜き取られた。
「重かったでしょ、それ」
急に身体が軽くなって、三桜はよろめくように顔を上げた。
篠崎さんがいた。
抜き取った紙束を片腕で軽々と抱えて、もう片方の手で鞄のストラップを直している。
紙束を受け取る仕草に迷いがなかった。
まるで最初からそうするつもりだったみたいに、当たり前の顔をしている。
「……篠崎さん?」
「こんにちは、綾瀬先輩」
にこっと笑ったその顔に、遠慮のかけらもない。
三桜は残った半分を両腕に抱え直した。
半分になっただけで嘘みたいに軽い。
さっきまで震えていた腕が、じんわりと血のめぐりを取り戻していく。
「こんなにいっぱい抱えて、罰ゲームですか?」
「わわっ……。あ、ありがとう……篠崎さん」
「危ないですよ。私もちょうど先生に用事があって来たところだったんで。これ、職員室ですよね?」
「う、うん。佐々木先生のところに……」
「じゃあ一緒に行きましょう! 私が半分持ちますから」
篠崎さんはにっこりと笑うと、三桜の返事を待たずにずんずんと階段を降りていく。
三桜は慌ててその後を追いかけた。
小柄な背中なのに、足取りはとてもしっかりしていて頼もしい。
並んで廊下を歩く間、三桜はどう声をかければいいのか分からず、ちらちらと隣を盗み見ていた。
横顔はどこか幼さを残しているが、ピンと伸びた背筋には芯の強さがある。
歩くたびにシャツの生地がわずかに引っ張られ、小柄で引き締まった体つきの中に、女の子らしい柔らかなラインが隠れているのがわかる。
二葉ちゃんみたいに案外スタイルがいいのかもしれないと、三桜は少しだけ羨ましくなった。
「綾瀬先輩って、頼まれたら断れないタイプですよね」
ふいに、前を向いたまま篠崎さんが口を開いた。
三桜は図星を突かれて、肩をびくっと跳ねさせる。
「な、なんでそう思うの?」
「だってこれ、一人で持つ量じゃないですよ。頼まれるまま全部引き受けたでしょ」
反論しようとして、できなかった。
篠崎さんの言っていることは正しい。
正しいから、言葉にならない。
それ以上は追わずに、篠崎さんは紙束を抱え直した。
「便利屋さんにされちゃいますよ。先輩やさしいから、付け込まれちゃう」
声に棘はなかった。
怒りでもなく、見下しでもなく——心配の、色。
出会って間もない後輩に、こうもあっさり見透かされるとは思わなかった。
「……でも、うちのクラスの子たち、みんな良い子なんだよ」
手伝うと言えば、みんな申し訳なさそうにしてくれる。
新しいクラスで声をかけてもらえるのが、三桜にはただ嬉しいだけだった。
「そっか。ならいいんですけど」
篠崎さんはそれだけ言って、ふっと表情をゆるめた。
「先輩、ほんとにいい人なんですね」
「えっ……そ、そんなことないよ。私、けっこうポンコツだし……」
「そんなことありますって。ちゃんと見てたら、わかりますから」
当たり前みたいに言い切って、篠崎さんがふふっと小さく微笑んだ。
「……でも、それだと相沢センパイが心配しますよ?」
不意に誠の名前が出るとは思わず、三桜は素っ頓狂な声を出してしまう。
「えっ、誠くんが?」
「はい。先輩があんなふうにふらふらして危なっかしかったら、絶対放っておけない性格ですから。また世話焼きモードに入っちゃいます」
「あはは……誠くん、お母さんみたいだもんね」
「ですよね! そこがかっこいいんですけど!」
ズバッと言い切る屈託のない笑顔。
本当に、この子は裏表がないのだ。
廊下に西日が斜めに差し込んでいる。
二人の影が長く伸びて、磨かれた床に重なった。
上履きの音が二つ、ぺた、ぺた、とわずかにずれた拍子で響く。
篠崎さんの歩幅に合わせようとして、三桜は少しだけ歩調を緩めた。
それに気づいた篠崎さんが、ちらりとこちらを見上げて、今度は同じだけ歩幅を広げる。
がらんとした廊下に、二人ぶんの足音だけが広がっていく。
窓から差す光が床の半分を橙に、もう半分を影に塗り分けていた。
言葉がなくても並んで歩いているだけで、ひとりで抱えていたときの心細さが嘘みたいに遠くなる。
廊下を曲がるとき、三桜の紙束から一枚がするりと滑り落ちた。
篠崎さんがさっと身を屈めて拾い上げ、何も言わずに束の上へそっと戻した。
お礼を言おうとしたけれど、篠崎さんはもう前を向いて歩いていた。
「篠崎さん、なんでここにいたの?」
「一年の教室から帰るとこだったんです。そしたら紙の山が歩いてるの見えて」
篠崎さんはくすっと笑った。
三桜も思わず頬がゆるむ。
「……たしかに、埋もれてたかも」
「完全に埋もれてました」
けらけらと笑う篠崎さんの横顔は、屈託がなかった。
「ねえ、綾瀬先輩。断れないのって、昔から?」
「……うん、たぶん。お姉ちゃんたちは平気なんだけどね、私だけ」
「でしょうね。先輩、顔に出るから」
篠崎さんはそう言って、あっさりと前を向いた。
それ以上は踏み込んでこない。
見透かすくせに踏み込みすぎない——不思議な距離感だった。
昼休みに廊下の陰から覗いた光景がよぎる。
一花お姉ちゃんがあの子に翻弄されて、机の端で頭を抱えていた。
お姉ちゃんを困らせている後輩——そう思えたら楽なのに。
隣を歩くこの子から滲むものには、そんな割り切りを許さない何かがあった。
「……ありがと。助かった」
「荷物ですか? いいんですよ、これくらい」
「ううん。……気づいてくれて、ありがとう」
篠崎さんが、ぱちりと瞬きをした。
それからふわっと頬を緩める。
「まあ、後輩ですからね」
少し照れたみたいに前を向いて、篠崎さんは付け足した。
「困ってる人ほっとけないんで、私」
その言葉に嘘がないことは、声を聞けば分かった。
迷わない。
考えるより先に手が動く。
それは三桜にはできないことだった。
職員室の前で紙束を渡し終えると、手ぶらになった二人は並んで昇降口へ向かった。
手のひらを開いたり握ったりしてしまう。
さっきまでの重さが腕にまだ残っていた。
窓の外では部活のかけ声がかすかに聞こえるだけで、廊下はさっきよりいっそう静かだ。
階段の窓から覗く空が、夕焼けの手前のうすい橙に染まりかけている。
「綾瀬先輩」
篠崎さんが、ふいに足を止めた。
まっすぐこちらを見上げてくる目が、さっきまでの無邪気さとは少し違う色をしていた。
「私、嘘つくの下手なんで。先に言っておきますね」
いつもの軽やかさが、声からすっと抜けていた。
「私、センパイのこと、好きです」
——センパイ。
篠崎さんがその呼び方をする相手は、一人しかいない。
三桜の足が止まった。
篠崎さんの声は静かだったけれど、力がこもっていた。
一切の濁りもない、一直線な告白。
この子は、駆け引きなんて一切しない。
ただ、自分の想いを真っ直ぐにぶつけてくる。
「だから、綾瀬先輩たちにも負けませんよ。私、本気ですから。綾瀬先輩とは——ライバルってことになりますよね」
逃げもごまかしもない。
好きだという気持ちを、てのひらに載せて差し出すような言葉。
嫌いになれたらよかったのに、と三桜は思った。
誠くんのことが好きだと言った。
姉たちをライバルだと言った。
それは宣戦布告のはずだ。
なのにこのまっすぐさを前にすると、敵だと思い切れない自分がいる。
三桜は、きゅっと両手を握りしめた。
ここで引いたら、誠くんの隣にはいられない。
自分も本気であることを、ちゃんと伝えなければ。
「……私も」
声が少し震えたかもしれない。
それでも三桜は、篠崎さんの目を見返した。
「私も、誠くんが好き。だから、譲れないよ。私たち三人は、みんな誠くんのことが好きだから」
言葉が一度つかえて、それから自分でも驚くほどするりと出てきてしまった。
「でも——」
三桜は少しだけ戸惑いながら、本音を口にした。
「篠崎さんのこと、嫌いになれないかも」
篠崎さんが目を丸くした。
数秒の間があって——ふっ、と笑った。
やわらかい笑い方だった。
「先輩って、ほんとに嘘つけないんですね」
「……うるさい」
顔が熱い。
言わなきゃよかったと半分だけ後悔した。
でも嘘はつけない。
それだけは、どうしようもなく自分だった。
二人とも黙ったまま、最後の階段を降りた。
沈黙は気まずいのとは少し違う——言いたいことを全部言ったあとの、不思議に澄んだ静けさだった。
昇降口で靴を履き替えるあいだ、篠崎さんはごく小さく鼻歌を歌っていた。
立ち上がって鞄を肩にかけ直すと、ぺこりと頭を下げる。
「じゃあ、また。綾瀬先輩」
「……うん。また」
篠崎さんは手を振って、弾むような足取りで校門のほうへ歩いていった。
夕日がその小さな背中を赤く照らしている。
宣戦布告をしたあとだというのに、その足取りは少しも重くなかった。
三桜は下駄箱の前に立ったまま、しばらくそこを動けなかった。
弾んだ足音の余韻が、まだ耳の奥に残っている気がした。
好きな人は渡せない。
でも、同じ気持ちでまっすぐぶつかってくるこの子を、どうしても嫌いになれない。
その二つが胸の中で、混ざらないまま並んでいた。
三桜は下駄箱の扉をそっと閉めて、誰もいない廊下を見渡した。
——この気持ちは、お姉ちゃんたちには、言わないでおこう。
静かな廊下に、三桜の上履きの音がひとつだけ響いた。




