第40話 教室に乗り込む後輩、崩される駆け引き
水曜の四時間目が終わると同時に、二年B組の空気がいつもと違う色に変わった。
昼休みのざわめきは、本来ならもっと散り散りになるはずだった。
購買へ走る者、弁当を広げる者、机をくっつけて駄弁る者。
それが今日にかぎって、視線の矢印が一方向にそろっている。
全部、俺のほうを向いていた。
「……なあ相沢。今日も来るのか、あの後輩」
斜め後ろのやつが、弁当箱の蓋を開けながら恨めしそうにこっちを見た。
「知らない」
「知らないわけないだろ。毎日来ますって、堂々と宣言してたじゃねえか」
後ろの席からも、低い声が飛んでくる。
「一年のかわいい子が、手作り弁当を持って、わざわざ二年の教室まで通ってくるんだぞ」
「屋上で二人きり、密着して『あーん』までしてもらったって話だ」
「いや、密着とか『あーん』とかは完全に尾鰭がついてるだろ。ただお弁当を分けてもらっただけで……」
「分けてもらった時点でアウトだろ!!」
「そうだそうだ! 俺なんか女子の手作り弁当すら見たことないのに!」
四方から声が飛んできて、俺は誰を見て答えていいのか分からなくなる。
俺から頼んだわけじゃないし、あーんに至っては事故みたいなものだ。
とはいえ、殺気立った連中に弁解が届くはずもなかった。
「膝枕は?」
「してない」
「口移しは?」
「するわけないだろ!」
「じゃあ、肩ぐらいは貸したんだろ!?」
質問の粒度がだんだんおかしな方向に向かっていって、こめかみが熱を持つ。
「貸してないっての。ただ隣に座って食っただけだ」
「くそっ、なんでお前なんだよ!」
「三姉妹に囲まれてるくせに、後輩まで侍らせてんのか」
「侍らせてない。弁当をもらっただけだ」
弁明すればするほど深みにはまっていく気がして、俺は諦めて肩を落とした。
「弁当もらうために屋上で二人きりになる時点で普通じゃないんだよ」
「あれは成り行きで――」
「正直、殺意しかない」
「同じく」
その一言に、周囲の男子たちが揃って深く頷いた。
昨日の昼休み、俺が篠崎と一緒に屋上へ向かったのは事実だが、どうやら一晩の間に噂が恐ろしいスピードで増殖し、歪曲されて学年に広まっているらしい。
嫉妬と殺意の入り混じった空気が、教室の温度を無駄に上げている。
しかも朝は朝で、通学路で一花さんに待ち伏せされ、片耳にイヤホンを突っ込まれたまま登校する羽目になった。
おかげで俺の精神力は、昼の時点ですでに残量が心許なかった。
「綾瀬さんたち三姉妹だけでも許せないのに、他クラスの後輩ちゃんまで……! お前、前世で国でも救ったのか!?」
「そんな覚えはないっての。ただの偶然だ」
「偶然で可愛い後輩が弁当作ってくるかよ!」
どう弁明したものかと口を開きかけた、その時だった。
「センパーイ! 宣言通り、今日も来ました!」
教室の戸口から明るくよく通る声が響いた。
ぴたりと男子たちの動きが止まり、全員の首が一斉にドアの方へ向く。
視線の先には制服のシャツの袖を少しだけラフにまくった、ボーイッシュなショートヘアの少女――篠崎心花が立っていた。
その両手には淡いピンク色の弁当箱が、しっかりと抱えられている。
「うおっ……マジで来たぞ」
「かわいい。なんで相沢なんだよ」
「神様は不公平だ……」
「センパイ、お弁当、今日も作ってきちゃいました! 一緒に食べましょ!」
周囲のざわめきなど気にも留めず、俺が声を漏らすより早く篠崎はぱあっと顔を輝かせた。
一直線にこちらへ小走りで近づいてくる。
教室の空気が一瞬にして凍りついた。
背後から、男子たちの殺意が限界を突破するギリギリの音が聞こえた気がした。
机の横までやってきた篠崎が上目遣いで覗き込んでくる。
小柄な彼女が見上げる形になり、少し前傾した姿勢のせいか、ラフに着崩した制服の襟元がわずかにたわむ。
パーソナルスペースの詰め方が、異常に早い。
甘いシャンプーの香りが、ふわりと漂ってきた。
「篠崎……お前、本当に毎日来る気か」
「もちろんです。センパイにご飯を作るって、約束しましたから!」
その笑顔には、かけらも裏がない。
裏がないぶん、よけいに始末が悪かった。
「ちょっと待ったぁ!」
「うわっ、綾瀬さんだ」
「長女の一花さんだぞ……」
男子たちがどよめく中、俺が断りの言葉を口にするより早く、横から弾むような声が割り込んできた。
次の瞬間、俺の右腕がぎゅっと抱き込まれていた。
「んふふ。ごめんね後輩ちゃん。わざわざ来てくれたのに悪いんだけどさ」
明るく染めた茶髪を揺らしながら、一花さんが俺の腕にぴったりと身体を密着させてきた。
半袖ブラウスの薄い生地越しに、はっきりとした重みと体温が押し付けられる。
わざと見せつけるように腕を抱き寄せてきたせいで、逃げ場のない感触が強烈に伝わってきた。
一花さんは俺の腕に体重を預けながら、小悪魔のような笑みを篠崎へと向ける。
「あのね、誠、昨日あたしにこっそり言ってたんだ。後輩ちゃんに毎日あそこまでしてもらうの、ちょっと『負担』に感じるかもって。誠ってそういうの気にしちゃうタイプだからさぁ」
一花さんの言葉に、篠崎の表情がさっと翳った。
大きな目に不安がよぎる。
このまま篠崎が一歩引いてくれたら――そんな一花さんの緻密な計算が、透けて見えた。
だが、俺は黙っていられなかった。
「……一花さん、俺、そんなこと言ってないぞ」
「ちょ、誠!?」
「負担になんて思ってない。四時に起きて作ってきてくれたって聞いて、純粋にすごいと思った。迷惑だなんて、一度も思ってない」
俺が素直に事実を口にして否定すると、一花さんの身体が一瞬だけぴたりと硬直した。
「本当ですか……!?」
「ああ。作ってくれたのは本当に嬉しい」
「よかったあ! じゃあ、これからも今まで通りでいいんですね! 明日もお弁当持ってきます。センパイの好きなおかず、ちゃんと研究してきますから!」
ぱあっと表情を明るくして胸をなでおろす篠崎を見て、一花さんは焦ったように次の手を打ってくる。
同時に、爪の先で俺の腕の内側をぎゅむっとつねってきた。
痛いというよりは、「今それ言うな!」という微かな抗議が伝わってくるような力加減だ。
「あ、あー……そ、そうなんだ! でもね篠崎さん、誠、最近ちょっと胃が弱くてさ。手作りのお弁当みたいに重いのは、今日はちょっと――」
「胃、別に弱ってないぞ」
「誠ぉ!」
一花さんの声が、二度目の裏返りを起こした。
恨めしそうにこちらを見上げてくるが、嘘に嘘を重ねられる方が困る。
「そ、そうなんですね! センパイが元気ならよかったです!」
安心しきった篠崎の笑顔に、一花さんは天を仰ぐようにして息を吐き、それでも切り替えの速さで三の矢を放つ。
「あ、あー……そういえばね篠崎さん。うちの姉妹、いっつも誠と一緒にお昼食べてるんだよね。あたしだって今日、誠のためにお弁当作ってきてるんだけどなー」
一花さんは必死に食い下がる。
自分の机の上に置かれた、二段重ねの弁当包みを指差しての牽制。
これならどうだとばかりに、腕を抱え込む力まで無意識に強くなっている。
だが篠崎はぱちぱちと瞬きをして、それからにっこりと笑った。
「一花先輩もお弁当作れるんですか!? すごい! じゃあ、交互にしましょうよ! センパイ、毎日違うお弁当が食べられますね!」
「…………は?」
一花さんの口から間の抜けた声が漏れた。
「ちょ、交互って……あたしたち、毎日一緒にいるんだけど」
「でも、わたしも毎日来たいんです。半分こにすれば、お互い嬉しいじゃないですか」
「半分こ、って」
「はいっ。取り合いより、ずっといいと思いませんか?」
一花さんの笑顔が、ぴきりと固まった。
「……取り合いとか、そういうんじゃなくてさぁ」
「じゃあ、何なんですか?」
一花さんの言葉が、一拍詰まる。
牽制のつもりが、いつの間にか弁当の当番表を組まされかけている。
篠崎に悪気はない。
むしろ、心の底から嬉しそうにしているだけだ。
その屈託のなさが、一花さんの小芝居を根っこからまるごと崩していた。
「ま、待って待って。あのね篠崎さん、誠ってさぁ……おとなしくて控えめな子が好みなんだよ? ぐいぐい来る子より、静かな子のほうがぐっとくるっていうか」
「そんな好みはないぞ」
「誠っ!!」
篠崎が、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「よかったぁ! わたし、おとなしくするの絶対に無理なので、どうしようかと思ってたんです!」
一花さんが、がくりと肩を落とした。
「私のお弁当と、一花先輩のお弁当、いろんな味が楽しめてお得です! ほらセンパイ、遠慮しないで! あ、そうだ。センパイ、苦手なものだけ先に教えてください。それ以外は全部詰めてくるので!」
「……研究しなくていいって」
「します! じゃあ、私、今日はこれで!」
言うが早いか、篠崎は俺の机の上にピンク色の弁当箱をことんと置いた。
そして一花さんに向かって元気よく頭を下げる。
くるりと背を向けると、彼女は弾むような小走りで教室を出て行ってしまった。
嵐が過ぎ去ったような静寂。
俺の机の上には、篠崎の手作り弁当がぽつんと残されている。
「…………」
一花さんは俺の腕にしがみついたまま固まっていた。
押し付けられた感触はそのままなのに、彼女からは先ほどの余裕や小悪魔のオーラが完全に消え失せている。
篠崎の直球は、一花さんの駆け引きや牽制のすべてを素通りしてしまった。
数秒の沈黙の後、一花さんはゆっくりと頭を抱えた。
「……あの子、私の計算を全部壊す」
ポツリと漏れたその声は、朝の通学路で見せた硬さとは違う、純粋な敗北感に満ちていた。
「……計算って、何をしようとしてたんだよ」
「なんでもないっ! もう、誠のバカ!」
一花さんはぽすんと俺の肩に額を押し付けてから、ぱっと身体を離した。
体温が離れていくのと同時に、彼女は自分の席へと足早に戻っていく。
残された俺は机の上の弁当箱と、周囲の男子たちからのさらに濃くなった殺意の視線に晒されることになった。
自分の席に戻った一花さんは、しばらく動かなかった。
指先に髪をくるくると巻きつけては、ほどいて、また巻く。
その机の上には、さっき指差してみせた二段重ねの弁当包みが、手つかずのまま置かれていた。
「一花さん、その弁当……」
「ん? 大丈夫大丈夫。あたしの分だけ食べるから」
やがて、いつもの調子で「ちょっと顔洗ってくるねー」と手をひらつかせて、一花さんは教室を出ていった。
切り替えの早さが、かえって胸に刺さる。
誰も座っていない席に、二段重ねの弁当だけが取り残されている。
……牽制のために持ち出されたあの中には、たしかに俺の分も入っているはずだった。
なのにあの人は、最後までそれを開けなかった。
軽い声だった。
軽い声のはずだった。
なのに、朝の校門で聞いた「私が一番に決まってるしね」と、どこかで似ている気がした。
◇
そんな騒ぎが繰り広げられていた、二年B組の戸口の外。
廊下の角に、ひとつの小さな人影があった。
少し短めのボブカットを揺らし、細い指先で壁の縁をきゅっと握りしめている、三桜だ。
彼女は教室の中で起きていたやり取りを、ただじっと見つめていた。
最後に姉の口から漏れた小さな呟きは、廊下までは届かない。
その横顔にはいつも俺に見せるような、甘えん坊で無邪気な笑顔はない。
ただ一拍だけ静かに瞳を伏せると、三桜は足音も立てずに、その場から立ち去っていった。




