第38話 後輩の手作り、初めて曇る妹
腕をホールドされたまま、俺は階段を上らされていた。
密着した部分から伝わってくる柔らかすぎる感触に動揺しつつ、なすがままに上の階へと連行されていく。
やがて、篠崎が勢いよく重たい鉄扉を押し開けた。
たどり着いた先は、まぶしい日差しが降り注ぐ屋上だった。
初夏の生ぬるい風が吹き抜けて、よく晴れた空の青さが目に染みる。
コンクリートの床に座り込み、給水塔の影に並んで身を寄せる。
ここまでくれば、教室の喧騒も届かない。
「じゃーんっ! どうですか、わたしの特製お弁当っ」
篠崎が布包みを解くと、中から立派な二段重ねの弁当箱が現れた。
蓋を開ければ、行楽気分になりそうなくらい色鮮やかなおかずがぎっしりと詰まっている。
大ぶりの唐揚げに、綺麗な黄色の卵焼き、彩りのプチトマトやブロッコリー。
白いご飯には黒ごまが散らしてあって、端にちょこんと梅干しが乗っている。
どれも手作りであることがひと目でわかる、手の込んだものだった。
「すごいな。これ、全部朝から作ったのか?」
「はいっ。センパイに美味しいって言ってもらいたくて、気合入れて作りましたからっ。あ、この唐揚げ、下味に一晩つけたんですよぉ。ちょっと油はねしちゃって大変でしたけど」
「油はねって……お前、大丈夫だったのか」
「平気ですよぉ。ちょっと跳ねただけですからっ」
言いながら、篠崎はさっと右手の指先を握り込んだ。
その拍子に、人差し指の付け根へ小さく巻かれた絆創膏が、ちらりと見えてしまう。
朝の四時から、この量を、たった一人で。
俺が黙り込んだのには気づかないまま、篠崎は照れくさそうに笑って、割り箸を二膳取り出した。
そして、ひときわ分厚い卵焼きを一つ、自分の箸でつまみ上げる。
「はい、センパイ。あーん、ですっ」
卵焼きが、俺の口元へと差し出された。
湯気の立つ黄色い一切れが、箸先で、ぷるぷると揺れている。
いや、さすがに後輩からあーんをされるのは、色々とハードルが高い。
「自分で食べられるから。箸、貸してくれよ」
「だーめーですっ。あーんは、約束ですっ」
「約束した覚えはないんだが」
「わたしの中では、約束なんですっ。それに……わたしが、食べさせたいんですっ」
頬をぷうっと膨らませて、篠崎は一歩も引こうとしない。
こうなったら、この子は絶対に譲らないだろう。
俺は周囲に誰もいないことを二度確認してから、観念して小さく口を開けた。
「あー……ん」
ぐいと身を乗り出してきた篠崎が、俺の口元に箸先をそっと寄せてくる。
腕を伸ばした反動で夏服の短い袖が引き上がり、白くて細い二の腕が日差しの下で無防備にあらわになった。
覗き込んでくる至近距離の顔は、こちらの動揺には気づく気配もない。
箸の先が、ちょん、と俺の下唇を掠める。
ぱくり、と卵焼きを口に含む。
舌の上でほろりとほどける柔らかい食感のあとに、じんわりと出汁の旨味が広がった。
……ん?
甘くない。
しっかりと塩気の効いた、出汁巻き卵だ。
甘い卵焼きも嫌いじゃないが、俺が本当に好きなのは、ご飯によく合うしょっぱい味付けのほうだった。
「これ……出汁が効いてて、しょっぱいんだな」
「はいっ。センパイは、甘いお弁当のおかずより、しょっぱいほうが好きですよね?」
「なんで味付けの好みまで知ってるんだ?」
俺は思わず目を見開いた。
こんな話、篠崎に教えたことは一度もないはずだ。
だが、篠崎は何でもないことのように、満面の笑顔で言い放った。
「だって、わたし、センパイのこと、いーっぱい見てますからっ」
「見てるって……」
「教室でお昼を食べてる時、センパイはいつも、味の濃いおかずから先にお箸をつけてましたよね。それに、購買でパンを買う時だって、甘い菓子パンより、塩気のあるお惣菜パンを選んでるほうが多いじゃないですか。だから、卵焼きも、しょっぱいほうが好きかなって、思ったんですっ」
悪気など一切ない、純粋な後輩の観察結果だった。
けれど。
俺の背筋を、つうっと冷たいものが撫でていった。
教室で箸をつける順番。
購買で選ぶパンの傾向。
そんな些細な日常の癖を、この子は一体いつから、どこで数えていたというのか。
ただ遠くから眺めているだけで、そこまで詳細に人の好みを分析できるものなのだろうか。
言葉だけなら健気な口説き文句なのに、その完璧な把握ぶりに、一瞬だけ背中が凍る。
「……センパイ?」
首を傾げる篠崎の無邪気な瞳を見て、俺は小さくかぶりを振った。
考えすぎだ。
ただ、この子が俺のことを一生懸命に想ってくれているだけのこと。
そこに見返りを求めるような打算は、微塵もない。
好きだから見ている。
好きだから知っている。
それだけの、どこまでも透明な好意だ。
「いや、なんでもない。俺のいちばん好きな味だ。すごく美味しいよ」
「ほんとですかっ!? やったぁっ、すっごく嬉しいですっ!」
ぱぁっ、と顔を輝かせて、篠崎は両手を胸の前でぱんっと合わせて、その勢いのままこちらへ小さく飛び跳ねた。
拍子に、給水塔の陰に並んで座る俺の肩へ、篠崎の肩が、とん、とぶつかる。
薄い夏服のシャツ一枚を挟んで、思いのほかたしかな重みと体温が、俺の腕にじんわりと押し当てられた。
喜んだあとも、篠崎はそのまま姿勢を戻そうとしない。
むしろ嬉しさに任せて、こちらへほんの少しだけ体重を預けてくる。
――これは、まずい。
嬉しそうに頬を緩めるその顔は、やっぱりどう見ても、ただ恋する乙女そのものだ。
背中を撫でたひやりとした感覚は、その笑顔と、腕に伝わる体温の前で、あっさりと溶けて消えてしまった。
「じゃあ、次は唐揚げですっ! はい、あーんっ」
「だから、自分で食べるって……」
「あー、んっ!」
「……ちなみに、これは、あーんじゃなくて、もう脅迫だからな」
篠崎が悪びれもせず、にこにこ笑って首を傾げる。
「えへへ、脅迫ですかぁ? わたし、そんなに悪い後輩ですかっ」
「うん、悪い」
「じゃあ、罰として、もういっこ食べてもらいますねっ」
「理屈がおかしいだろ、それ」
有無を言わさぬ勢いで唐揚げが押し込まれる。
噛み締めると、じゅわりと肉汁が溢れ出して、これも悔しいくらいに美味かった。
「……どうですか。おいしい、ですか?」
ひと口ごとに、篠崎が下から顔を覗き込んでくる。
頷いてやるたびに、眉尻が下がって、心底ほっとしたような顔になった。
その繰り返しが、なんだかくすぐったい。
三度目でようやく安心したのか、篠崎もやっと自分のぶんに箸をつけ始めた。
ひとくちかじるたびに、にへ、と口元がゆるんでいる。
空の青さと、頬を撫でる生ぬるい風。
隣で嬉しそうに笑う、人懐っこい後輩。
振り回されているはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。
……たぶん、怖いと思うべきなんだろう。
なのに箸が止まらないのは、この弁当が美味いからだけじゃない気がした。
まあ、悪くない。
すっかり毒気を抜かれた俺は、ただされるがままに、篠崎の特製弁当を胃袋へ収めていった。
◇
弁当を綺麗に平らげた頃には、昼休みも残りわずかになっていた。
篠崎は空になった重箱を丁寧に布で包み直しながら、ふんふんと機嫌のいい鼻歌をこぼしている。
二人で屋上を後にして、教室へ戻るため階段を降りる。
「今日は本当に美味しかった。ありがとう、篠崎」
「えへへ、お粗末さまでしたっ。また作ってきますからねっ、センパイ!」
「いや、あんまり毎日は……お前が倒れるだろ」
「倒れませんっ。ちゃんと訓練されてますから」
「なんの訓練だよ」
その布包みを大事そうに胸の前で抱えたまま、篠崎がにぱっと笑う。
隣にぴたりと寄り添って歩いてくるあたりは、朝の校門から変わらない。
そのまま他愛のない雑談を交わしながら、二年の廊下の角を曲がろうとした、その時だった。
「あっ……」
目の前に、見慣れた姿があった。
夏服の半袖から伸びた、細くて頼りない腕。
教室で昼食を済ませたあとらしい、三桜さんだった。
その小さな手には、空になったメロンパンの袋と、飲み終わりのジュースの紙パックが、ひとまとめに握られている。
――甘いものが好きな三桜さんらしい、素朴な昼の残骸だった。
廊下の先の給湯室にでも捨てにいくところなのだろう。
三桜さんの足が、ぴたりと止まった。
まんまるに見開かれた目が、俺の顔を見て、それからすぐ隣に立つ篠崎へと移り。
最後に、篠崎の胸に抱きかかえられた、ピンク色の布包みへと吸い込まれるように落ちた。
その形が、たった今、空になった二人分の弁当箱だということに、気づいたのだろう。
「……ふたり、で」
三桜さんの唇が、かすかに震えた。
その声はひどく小さくて、廊下の喧騒に吸い込まれて消えそうだった。
「綾瀬先輩、こんにちはっ。いま、センパイとお昼ごはん、食べてきたところなんですっ」
篠崎が、朝の校門と同じような無邪気さで、ぺこりと頭を下げて挨拶をした。
隠すそぶりなんて一切ない、真っ直ぐな言葉。
けれど、三桜さんはそれに答えることができなかった。
いつものふわふわとした愛らしい笑顔は、そこにはなかった。
ただ黙って、空になった布包みを見つめたまま、一言も発さない。
握りしめられた空のパンの袋が、くしゃりと音を立てて微かに歪んだ。
「あ、あの……三桜さん、これは、その」
俺は思わず口を挟みかけたが、続く言葉が、うまく出てこない。
嘘をつく話でもないし、隠すような話でもないはずだった。
なのに、三桜さんの一点に注がれた視線を前にすると、なぜだか胸のあたりが、ぎゅっと重たくなる。
「じゃあ、わたし、教室戻りますねっ。予鈴、鳴っちゃいますから」
沈黙の隙間に、篠崎の明るい声が差し込まれた。
こちらの微妙な空気には、まるで気づいていない足取りで、ぺこりともう一度頭を下げる。
「センパイっ、また明日もお弁当持ってきますからねっ! 楽しみにしててくださいっ!」
じゃっ、と軽く手を振って、篠崎は一年の階段のほうへ駆けていった。
ショートヘアが揺れて、角の向こうに消える。
残されたのは、俺と、三桜さんだけだ。
三桜さんは、篠崎が消えていった廊下の先を、まだ、じっと見つめていた。
いや、正確には――さっきまで篠崎の胸の前にあった、空の布包みの残像を、目で追いかけていた。
それが怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか。
俺は、その横顔に浮かんだものの名前を、まだ知らずにいる。
小さな手の中で、空になったパンの袋が、もういちど、頼りない音を立てて歪んだ。




