第37話 後輩の襲来、二年B組の視線
二葉さんに渡された苦手範囲の対策プリントに付き合わされたせいで、ひどい寝不足だ。
火曜日の朝。
初夏のまぶしい日差しが照りつける通学路を、俺は半分まぶたを落としながら歩いていた。
期末テストが近いという現実は、ただでさえ重い足取りをさらに容赦なく削っていく。
ようやく賑やかな校門が見えてきたところで、ふあ、と大きなあくびが漏れた。
早く教室に行って机に突っ伏したい。
そんなことばかり考えていた、その時だった。
「センパイ、おはようございますっ」
ぱたぱた、と軽い足音が近づいてきたかと思うと、目の前に小柄な影が飛び出してきた。
真新しい一年生の夏服姿の篠崎が、太陽みたいな笑顔で俺を見上げている。
少しボーイッシュなショートヘアが、朝の風にふわりと揺れた。
その両手には、大事そうに抱えられた淡いピンク色の布包みがあった。
顔を近づけられると、ふわりと、食欲をそそる出汁の匂いが鼻をくすぐる。
「篠崎……おはよう。ずいぶん早いな」
「えへへ、センパイを待ってたんですよぉ。だって昨日、メッセージ送ったじゃないですか。今日のお昼、一緒に食べるって」
そういえば、昨日の夜にそんなメッセージが来ていた気がする。
半分くらいは勢い任せの冗談だとばかり思っていたが、どうやら本気だったらしい。
篠崎は、両手で持っていた布包みを少しだけ持ち上げてみせた。
ずしりとした重みのありそうなその四角い形は、どう見ても自分一人分のものではない。
「二人分、ちゃんと作ってきたんですからねっ」
「わざわざ悪いな。……何時に起きたんだよ、それ」
「えーっと、四時、ですかね? 電車も六時二十分のに乗って」
「四時? 電車って……篠崎、家、どっち方面なんだ?」
「あっ、駅名を言ってもセンパイ、たぶん知らないと思うんですけどぉ。乗り継いで、片道一時間ちょっと、かなーって」
「一時間……」
思わず声が漏れた。
朝の四時に起きて、片道一時間以上かけて、しかもその朝の隙間で二人分の弁当まで作って。
いま俺の目の前にいる小さな後輩は、それを全部やってのけて、ここまで走ってきたことになる。
行動力がすごいのか、体力がおかしいのか。
「お前、それ、ちゃんと眠れてるのか」
「へーきです、へーきっ。お弁当のこと考えたら、目覚まし要らずでしたっ」
「……普通は四時なんて、目覚ましが鳴っても眠い時間だろ。ちゃんと寝ないと倒れるぞ」
「センパイ、お説教モードは、あとにしませんかっ?」
「説教じゃない。心配してるんだよ、俺は」
言った途端、篠崎の目がまんまるに見開かれた。
それから、ふにゃ、と溶けるみたいに口元がほころんでいく。
「……じゃあ、なおさら、いいんですっ。センパイのためなら、わたし、いくらでも早起きできちゃいますからっ」
にぱっ、と笑うその顔は、見ているこっちが眩しくなるくらいに真っ直ぐだ。
登校してくる他の生徒たちが、ちらちらとこちらを振り返って通り過ぎていく。
だが、俺の顔をじっと見つめていた篠崎が、ふと小首を傾げた。
背伸びをするように顎を上げて、大きな瞳が至近距離で覗き込んでくる。
小さな鼻先が、俺の顎のすぐ下にあった。
「あれ? センパイ、ゆうべ、あんまり寝てないですか」
「えっ? ああ、まあな。テスト勉強で少し夜更かしして……って、なんで分かったんだ?」
「分かりますよぉ。目の下にうっすらクマができてますし、さっきから、まばたきの間隔がいつもより長いですからね」
ずばりと言い当てられて、俺は言葉に詰まった。
まばたきの間隔なんて、自分でもまったく意識していなかった。
どれだけ俺の顔を観察していれば、そんな些細な違いに気づけるんだ。
驚いている俺をよそに、篠崎は小さく息をついた。
「もう、ちゃんと寝ないとだめですよぉ。寝不足は、お肌の大敵なんですからねっ」
「男の肌を心配してどうするんだよ」
「だめですっ。センパイって、自分のことだけ後回しにする癖がありますもん」
「そんな癖はない」
「ありますっ。……あ、ネクタイも、ちょっと曲がってますね。ちょっと失礼しますっ」
言うなり、篠崎がつま先立ちになって、俺の襟元にぐっと両手を伸ばしてきた。
細い指先が、結び目に触れる。
突然のゼロ距離。
結び目を覗き込む息が、俺の喉元にふっとかかって、その微かな熱に、体がびくっと強張ってしまった。
――近い。
背伸びで前に傾いた小さな体は、俺の胸元にほとんど寄りかかるような形になっている。
ゆるく着崩したシャツの布地が、その姿勢のせいで前に引かれて張りを帯び、ボーイッシュな外見からは想像がつかない輪郭が、不意に生地の上へ浮かび上がった。
その落差に、一瞬、目の置き場を見失う。
服越しに、予想以上の。
俺は慌てて視線を空へ逸らした。
「……っ、あの、篠崎、自分でやるから」
「だめですっ。センパイの結び方、いつもちょっとだけ左に寄るんですよ」
ちょん、と人差し指の先が結び目の中心を押さえて、しゅっと軽い衣擦れの音が立つ。
「はいっ、完了っ。これで、ちゃんとした先輩ですっ」
満足げに頷く篠崎は、俺が硬直していることなんて、まったく気にしていないらしい。
むしろ本人のほうが、頬をうっすら赤くしている。
「えへへ。センパイのネクタイ直すの、なんか嬉しいですっ」
「……どういう感想だ、それは」
「だってぇ。朝いちばんにセンパイに触れたんですから、今日一日、いいこと起きそうですっ」
あっけらかんとした声で、爆弾みたいな台詞を落としてくる。
本当に、子犬みたいに人懐っこくて危なっかしい後輩だ。
俺が小さくため息をつくと、篠崎は布包みを両腕でぎゅっと抱き直して、えっへん、と胸を張ってみせた。
「今日のお弁当、すっごく頑張ったんですよ。楽しみにしていてくださいねっ」
昇降口で靴を履き替えると、篠崎は一年の教室があるフロアへ駆けていく。
階段を数段のぼったところで、くるりとこちらを振り返った。
「お昼、約束ですからねっ! 絶対、逃げちゃだめですよっ!」
「はいはい」
適当に返したつもりだったのに、篠崎は布包みを片腕で抱え直し、空いたほうの手を大きく振ったまま、その場から動こうとしない。
仕方なく俺が軽く手を上げてやると、それでやっと満足したらしく、小さな背中が階段の向こうへ消えていった。
……困ったことに、あの弁当が少しだけ楽しみになっている自分がいる。
俺は寝不足の頭をなんとか切り替えて、二年B組の自分の席へ向かった。
◇
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
いつもなら、ここから三姉妹の誰かしらが俺の席に突撃してくるのがお約束になっている。
だが、今日に限って、俺の周りは奇跡的に静かだった。
一花さんは別クラスの友達に呼ばれてそそくさと出て行き、二葉さんは職員室へ先生の頼まれ事に向かっている。
三桜さんに至っては、購買の争奪戦に出遅れたと言って慌てて廊下へ飛び出していったばかりだ。
三姉妹が揃って席を外すなんて、本当に珍しい。
たまには一人でゆっくり息がつける。
そう思って背伸びをした、その時だった。
「相沢センパーイっ!」
二年B組の教室の入り口から、元気いっぱいの声が響き渡った。
弁当箱を開けようとしていたクラス中の視線が、一斉にそちらへ向く。
朝と同じ夏服姿の篠崎が、ピンク色の布包みを抱えて、堂々と立っていた。
一年の教室から全力で駆けてきたのか、額にはうっすらと汗が滲んで、ゆるく結んだネクタイの下で鎖骨が忙しなく上下している。
二年の教室に、他クラスの一年生が単身で乗り込んでくるだけでも目立つ。
しかも彼女は一切の躊躇なく、一直線に俺の席までやってきた。
教室が一瞬、しんと静まり返る。
次いで、ざわめきが波のように広がっていった。
あちこちからヒソヒソという囁き声が聞こえてくる。
「迎えに来ましたっ。さあ、お昼にしましょう!」
「お、おい、篠崎。ここは二年の教室だぞ……」
「関係ないですっ。センパイはわたしと約束したんですからね」
周囲の男子たちから、親の仇でも見るかのような痛い視線が突き刺さってくる。
綾瀬家の三姉妹に囲まれているだけでも目立つのに、さらに可愛い一年生の後輩まで押しかけてきたのだから、当然の反応だろう。
このままここにいたら、嫉妬の炎で焼き殺されかねない。
「いい場所、見つけたんですっ。行きましょう、行きましょ!」
篠崎が俺の右腕に、両手でぎゅっと絡みついてきた。
細くて華奢な指なのに、意外なほど力が強い。
だが、手首を握られた感触よりも先に、腕全体に押し当てられた別の感触のほうが、意識の全部を奪ってしまう。
薄い夏のシャツを一枚挟んで、ボーイッシュな体格には不釣り合いなほど、たしかな重みと、柔らかさ。
しかも、抱え込むように弁当を大事にした姿勢のせいで、その感触は俺の腕を挟むように、両側から寄ってきている。
――逃げ場が、ない。
「あ、おい、篠崎。腕、離してくれ」
「やですっ。走って逃げちゃったら困りますもん」
「逃げないから、な、な?」
「だーめーですっ」
ぐいぐいと引っぱられるままに、俺は半ば連行されるような形で教室を後にした。
クラス中の視線を全身に浴びながら、心の中でだけ深く合掌する。
――すみません、皆さん。
俺も、何がなんだか、わかりません。
これは明日には、学年中に広まっているやつだ。
腕を占領されたまま、それをまったく気にしていない後輩の無邪気な笑顔に引かれて。
俺は抵抗する術を完全に失ったまま、二年B組の教室から引きずり出されていく。
あとに残されたクラスがどんな騒ぎになっているかなど——振り返って確かめる余裕は、もうどこにもなかった。




