第36話 重すぎる愛と、輪の外の席
放課後の二年B組は、まだざわついていた。
机を寄せて談笑するグループや、慌ただしく鞄に荷物を詰め込む者たち。
それぞれが、放課後の自由な時間を謳歌し始めている。
そんな喧騒の中心に、二葉さんはいた。
「綾瀬さーん、この出欠表、まとめてくれない? 部活のミーティング始まっちゃってさ」
「ええ。構わないわ。そこに置いておいて。名前の照合は私がやっておくから、あなたは早く行きなさい。その方が、お互い早く片づくでしょう」
「やったー! 助かるー!」
女子がぱっと手を振って、廊下で待つ友達のもとへ駆けていく。
入れ替わりに、今度は男子がひとり、ノートを抱えて近づいてきた。
「綾瀬、ここの範囲って期末に出るか?」
「出るわ。教科書の百二十三ページから百三十一ページまで」
「さすが。助かるわ」
二葉さんは短く答えて、自分の鞄に教科書を詰めていく。
男子は素早くノートを確認して、俺に軽く手を挙げると、部活のジャージ姿の連中の輪に戻っていった。
転校してまだ一ヶ月ちょっと。
なのに、二葉さんの席は、いつのまにか、クラスの情報が集まる交差点になっていた。
出欠の整理。
テスト範囲の確認。
委員でもないのに――いや、だからこそかもしれない。
頼まれてもいないのに、二葉さんは黙って、そういうものを引き受けていく。
俺は少し離れた自分の席から、その様子を眺めていた。
……奇妙な光景だった。
誰もが彼女を頼りにしているのに、用件が終われば感謝の言葉を口にして、すぐに離れていく。
頼みに来た生徒たちが去ると、二葉さんはひとりだった。
雑談の輪には混ざらない。
友達同士で固まる席の間を、するりと抜けていく。
頼られている。
けれど、彼女自身は、どの輪の中にもいない。
やがて周囲の人だかりが散ると、二葉さんは机の上に残っていたプリントの束を綺麗に揃えて鞄に収め、俺の席へと歩み寄ってきた。
「……待たせたわね、マコト」
「お疲れ。今日も大人気だな」
「からかわないで。ただの事務処理よ。あの子たちが不慣れな手つきで時間をかけるより、私がやったほうが、全体が早く片づく。それだけ」
二葉さんは小さく息を吐いて、鞄を持ち上げた。
それが彼女なりの気遣いなのだろうが、言葉の響きだけを受け取れば、酷く冷たく聞こえてしまう。
実際、クラスメイトたちも彼女に感謝しつつ、それ以上踏み込んではこない。
「行くわよ。今日は数学の重点対策。先週の小テストの復習も兼ねて、基礎からやり直すから覚悟しておいて」
「はいはい。スパルタ指導、よろしくお願いします」
俺が立ち上がると、二葉さんの唇の端が、ほんの少しだけ得意げに持ち上がった。
「ええ。私に任せておけば、問題ないわ」
俺たちは連れ立って、放課後の図書室へと向かった。
◇
夏の初めの西日が窓から斜めに差し込んで、図書室の空気を、まるごと琥珀色に染めていた。
放課後の図書室は利用する生徒も少なく、古い紙の匂いと静寂だけが満ちている。
窓際の、いちばん奥の席。
並んで座ると、二葉さんが鞄からノートを取り出した。
俺の過去のテスト結果や間違えた箇所を、完璧に分析してまとめた、俺専用の特製の一冊だ。
「まずは、ここよ。この公式の応用パターン、マコトはよく引っかかるから。基礎の公式は頭に入っているみたいだけど、少し数字をいじられると、途端に手が止まる癖があるわ」
そう言って、二葉さんがノートを指差すために身を乗り出してきた。
すぐ隣の席だ。
ただでさえ近い距離が、彼女の動きによって、さらに縮まる。
肩が触れ合いそうな距離から、清涼感のあるシャンプーの匂いがほのかに立つ。
甘すぎない、彼女らしい清潔な香りだ。
同時に、腕へ、柔らかな重みが押し当てられる。
薄い夏服のブラウス越しに伝わる、予想以上の柔らかさと、確かな質量。
肌の温もりまでが、ダイレクトに伝わってくるようで、俺は思わず身体をこわばらせた。
二葉さんは、きっちりと制服を着こなしているせいで普段は着痩せして見える。
こうして密着すると、そのギャップに、こっちがひどく動揺させられる。
しかも本人は、密着していることなど気にも留めていない様子で、真剣な眼差しでノートを見つめている。
心臓の音がうるさくなって、それが彼女に伝わってしまうんじゃないかと焦りながら、俺は必死にノートの数式へ視線を固定した。
「……マコト? 聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてる。ここだろ」
「本当に? じゃあ、この一問、途中式を口で追ってみて」
「……えっと。まず両辺を、こうして」
「そう。そこまで来たら、あとは符号を取り違えなければ、迷わないはずよ」
「……うっ、了解」
二葉さんが、俺の答案の隅を指さす。
「一度書いて間違えたところは、記号を丸で囲んでおいて。次に同じ場所で詰まらないように」
「はい、先生」
「茶化さない」
俺が頷くと、二葉さんは満足そうに、次の単元用の参考書を鞄から取り出そうとした。
その拍子に――参考書と一緒に押し込まれていた紙の束が、ばさりとテーブルに滑り落ちる。
出欠表のまとめ。
クラス費の集計メモ。
小テストの採点補助のようなもの。
どう見ても、五枚や六枚じゃきかない。
教室で押しつけられていたはずのものが、そっくりそのまま、図書室まで持ち込まれていた。
「あ……」
二葉さんがさっと手を伸ばして隠そうとしたが、俺は思わず、その手を軽く押さえた。
ひんやりとした、細い指先だった。
「二葉さん。これ、さっき頼まれてたやつだよな」
「……ええ。勉強の合間に、片付けるつもりだったから」
「合間って……もしかして、俺の勉強を見ながら、これも一緒にやるつもりだったのか?」
「そうよ。それくらい、造作もないわ。それに、マコトの成績を上げるのが、私にとっては最優先だもの」
二葉さんは平然と答えるが、俺は散らばった紙の量に、眉をひそめずにはいられなかった。
どう考えても、ひとりの生徒が抱え込む量じゃない。
「なあ。二葉さんってさ、みんなに便利に使われすぎてないか? 断ってもいいんだぞ、こんなの」
口から出た言葉に、二葉さんの肩が、ぴくりと跳ねた。
俺に押さえられたままの指先が、小さく震える。
彼女は慌てて手を引こうとしたが、俺がそのまま押さえていると、観念したように動きを止めた。
「……便利」
二葉さんは、その言葉を、苦い薬でも飲み込むみたいに呟いた。
そして、ふいっと顔を伏せてしまう。
「そうよね。私は、便利、だから」
「二葉さん?」
「……ただ一緒に笑ったり、他愛のない話をしたり。そういう普通の距離感が、私にはよく分からないの」
図書室の静寂に吸い込まれそうなほど、細くて、頼りない声だった。
「一度、想い始めると――加減がわからなくなるの。全部を、把握したくなって。何もかもに、手を出したくなる。……私みたいな、重くて、面倒な人間は」
自嘲するようなその響きに、俺は思わず息を呑んだ。
「この重さを見せたら、きっと、みんな引いて離れていくわ。だから、ただの有能なクラスメイトを演じて……頼まれたことを、淡々と処理する便利な存在でいるくらいが、私にはちょうどいいのよ」
いつも完璧で、隙のない彼女が抱えていた、ひどく臆病な本音。
……ああ、そうか。
この人は。
こんなに完璧で、誰からも頼られているのに。
どうしてか、いつも、ほんの少しだけ、寂しそうに見える。
だから、だろうか。
考え抜いた言葉じゃなかった。
ただ、そう思ったから、口を開いていた。
「あのさ、二葉さん。勘違いしてるみたいだから、言っとくけどな」
「……何を」
「俺は、二葉さんが便利だから、一緒にいるわけじゃない」
二葉さんの息が、止まる気配がした。
伏せられた睫毛が、信じられないものでも見るみたいに、小さく震える。
「勉強を教えてくれるからとか、何でもできるからとか、そういう損得の問題じゃない。二葉さんがそこにいてくれること自体が、俺には安心なんだよ。……ただ、一緒にいたいから、いる。他愛のない話をしてるのが、静かな時間を過ごしてるのが、純粋に楽しいから」
うまく言葉にならなくて、視線をつい窓の外に逃がした。
「だから、俺の前でくらい、無理して壁を作って、便利な奴なんて演じなくていい。重くたって、面倒だって、俺はちゃんと受け止めるから」
ゆっくりと、二葉さんが顔を上げる。
揺れる黒曜石みたいな瞳が、俺の言葉の嘘を探るように、じっと見つめてきた。
やがて、耳の裏からうなじにかけて、西日のせいだとは言い切れない朱色が、かあっと染め上げていく。
「……っ、マコトのばか」
二葉さんは、また顔を背けた。
だが今度は、離れようとはしなかった。
むしろ椅子をわずかにずらして、さらに身を寄せてくる。
腕に押し当てられる柔らかな重みが増して、逃げ場がない。
机の下で――二葉さんの細い指先が、俺のシャツの裾を、きゅっと掴んだ。
「……言ったわね」
「え?」
「私が重くても、隣にいてくれるって。……そう、言ったわよね」
普段の淡々とした声とは違う、熱を帯びた、震える声。
隠していた重たい何かの欠片が、ほんの少しだけ、顔を覗かせている。
「ああ。言ったよ」
「……なら、覚悟しておきなさい。私、本当は、すごく重いんだから」
「望むところだ」
何でそう返したのか、自分でもわからない。
ただ、シャツの裾を掴む指先の力が、ほんの少しだけ強くなったのを、俺は感じていた。
そのまま、しばらくの間、俺たちは黙々と問題を解いた。
二葉さんの肩は、ずっと俺の肩に触れたままだった。
じんわりと温かい空気が、二人の間を、静かに満たしていく。
窓の外の西日が、金色からオレンジに傾き始めた頃。
「今日はここまでにしましょう。予定より一単元、先に進んだわ」
「助かった。二葉さんのおかげだ」
「……お礼を言われるようなことじゃないわ」
そう言って、二葉さんが、そっと目を伏せた。
さっきの、ばか、の温度が、まだ耳の縁に、ほんのりと残っているように見える。
鞄に教科書を詰め始めたところで――机の上に置いていた俺のスマホが、ぶるっと短く震えた。
画面が明るくなって、メッセージの通知が浮かび上がる。
ぴったりと身を寄せている二葉さんの視界にも、それは、当然のように入った。
『センパイっ! 明日のお昼、お弁当つくっていきますっ♪ センパイの分もですからねっ! 楽しみにしててくださいっ!』
篠崎からだ。
相変わらず、嵐みたいな勢いだな……と、俺は思わず苦笑しかけて。
その瞬間、俺の腕に押し付けられていた柔らかい重みが、すっと離れた。
隣を見ると、二葉さんが背筋をぴんと伸ばして、姿勢を正している。
つい先ほどまで赤く染まっていた耳は、すっかり元の白さを取り戻して、揺れていた瞳からは、一切の感情が、消え失せていた。
まるで精巧に作られた人形みたいに、瞬きひとつしない。
「……マコト」
声の温度が、さっきまでとは別人みたいに落ちている。
図書室の空調が、急に効きすぎたのかと錯覚するほどの冷気だ。
「えっと、これは、その……後輩がですね、何か勘違いをしているというか」
しどろもどろになる俺の弁解を、二葉さんは、静かに遮った。
「へえ。……お弁当、作ってもらうのね」
「違う違う! これは向こうが勝手に送ってきただけで――」
「明日のお昼、楽しみね」
能面みたいに、美しい無表情。
図書室の空気が、一気に凍りついて、俺は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
二葉さんは何も言わずに鞄を肩にかけて、静かに立ち上がる。
「明日の予定は、また連絡するわ。……失礼するわ、マコト」
「あ、ああ。……また明日」
二葉さんは振り返らずに、図書室を出ていった。
長い黒髪が、夕日の中で揺れて、するりと消える。
俺は、手元のスマホの画面を、そっと見下ろした。
篠崎の弾けるような文面と、二葉さんの、あの消えた表情が、どうしても頭の中で結びつかない。
傾いた西日の中に、俺だけが、ぽつんと取り残されていた。




