第35話 廊下の子犬、駆け引きゼロの突撃
二葉さんの勉強計画が始動して、数日が経った。
その日の放課後、教室に残っているのは、俺と三桜さんの二人だけだった。
「誠くん、ここの公式って……こうじゃないの?」
三桜さんが鉛筆の先でノートを突いて、こてんと首を傾げる。
水色のノート――二葉さんが組んでくれた計画表の指示通り、今日は数学の基礎問題を反復していた。
「それ、代入する順番が逆だな。まずこっちの式を整理してから――」
「あっ、そっか! ここに当てはめるんだ!」
三桜さんはぱっと顔を輝かせて、鉛筆を走らせ始めた。
夕方の教室に差し込む西日が、彼女のボブカットの毛先をオレンジに染めている。
三桜さんは集中するたびに、俺のシャツの袖をきゅっと掴んでくる。
たぶん本人は、その癖にまるで気づいていない。
「よし、今日のノルマはこのへんにしとくか。暗くなる前に帰るぞ」
「うんっ。……えへへ、誠くんが先生だと、私、すっごく頑張れちゃうの」
鞄に教科書を詰めて、二人で並んで教室を出る。
西日の差す廊下は、遠くのグラウンドから部活の掛け声が聞こえてくるくらいで、しんと静まり返っていた。
このまま穏やかに帰れる。
そう思った、矢先だった。
「相沢センパーイっ!」
廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が駆けてくる。
声のした方を振り向くと、そこに小柄な女の子が立っていた。
ショートヘアで、少しボーイッシュな一年生。
大きな瞳をきらきらと弾ませて、今にもこちらへ駆け出してきそうな、そわそわとした気配を全身からにじませている。
俺は思わず目を見開いた。
あの子だ。
数日前、この廊下をそわそわと覗き込んでいた、あの一年生。
そして、記憶がもう一つ繋がった。
以前、校門の脇で、こちらを睨んでいた女の子。
――ぜんぶ、この子だったのか。
だが、気づきに浸っている余裕なんて、一秒もなかった。
「やっと、やっと見つけました! 会いたかったんですよぉ、センパイっ!」
「え、ちょっ……」
止める間もなかった。
その子は迷いなく俺の腕へ飛び込んでくる。
どんっ、という勢いと一緒に、細い両腕が右腕に絡みついた。
衝撃と、甘いシャンプーの匂い。
俺はバランスを崩しかけて、慌てて足を踏ん張った。
肩に押し付けられた小さな頭は、つむじがちょうど俺の胸元のあたりにくる。
頭ひとつぶん以上、低い。
そして――ボーイッシュな見た目からは想像もつかない柔らかな重みが、制服越しに腕へ押し付けられて、じわりと自己主張してくる。
俺は、思わず視線を逸らした。
……近い。
硬直する。
頭のどこかが、真っ白になっていく。
まるで、ようやく飼い主を見つけた子犬が、全身でじゃれついてくるみたいだった。
「あ、申し遅れました! わたし、一年の、篠崎心花って言いますっ。ほら、この前、センパイに、プリント拾うの手伝ってもらったじゃないですか。あの時の、後輩ですっ」
にぱっと見上げてくる篠崎の頬は、興奮で薔薇色に上気していた。
プリント。
確かに数日前、渡り廊下で風に飛ばされた一年生のプリントを、何も言わずしゃがんで、一緒に拾い集めてやったことがあった。
だが――あれは、ほんの数十秒の出来事だ。
「あの時、わたし、配られたプリントを、ぜんぶ風で飛ばされちゃって。半泣きで追いかけてたんです。そうしたらセンパイ、なんにも言わずに、さっとしゃがんで、一緒に拾い集めてくれて。……わたし、もう、その時からずっと。センパイって、なんて優しい人なんだろうって、ずーっと忘れられなくてっ」
腕に回された手が、ぎゅっと力を込めてくる。
そのたびに、腕に当たる柔らかい感触が自己主張してきて、俺は必死に別の方向を見た。
「あの時は、本当にありがとうございました! センパイ、私のヒーローですからねっ」
「……にしても近すぎだろ。お礼で腕にしがみつくやつがあるか」
「あります。私の感謝は体当たりですからね」
篠崎は、遠慮という言葉を知らない勢いで、俺の腕へぐりぐりと頬を擦り寄せてくる。
明るくて、屈託のない笑顔。
だが、その笑顔を見ているうちに、俺の記憶の隅で、別の光景がふっと浮かび上がった。
「……なあ、篠崎。ちょっと聞きたいんだけど」
「なんですか、センパイ?」
「入学してすぐの頃、朝の校門で、こっちのこと睨んでなかったか」
あれは、一花さんと腕を組んで登校した日のことだ。
昇降口へ続く通路の陰から、親の仇でも見るような目で、こちらをじっと睨みつけていたショートヘアの下級生がいた。
あの時の子と、目の前の篠崎の顔が、頭の中でゆっくり重なっていく。
俺の問いに、篠崎の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
「に、睨んで……?」
「ああ。あれ、篠崎だろ」
篠崎の大きな目が、すっと泳いだ。
視線が俺の顔から外れて、天井の蛍光灯、窓の外と、ありとあらゆる方向へ逃げ回る。
「え、えーっと……あはは、そんなこと、ありましたっけ? わ、私、方向音痴なので、たまたま迷子だったのかもですねぇ」
声が、一段だけ明るくなった。
嘘だな、と直感した。
だが、あの日は遠くからで、相手の顔をはっきり見たわけじゃない。
追及する根拠もなかった。
「……まあ、気のせいならいいけどな」
「気のせいですよぉ、きっと!」
満面の笑みで、強引に切り替えてくる。
あの鋭い視線と、目の前の人懐っこさが、どうにも頭の中で結びつかない。
プリントを拾っただけの、たった数十秒の接点。
それなのに、この子はまるで昔から俺を知っているみたいに、距離が近い。
――ただの後輩の懐きにしては、妙に親しすぎないか。
「……ちょ、ちょっと、待って」
遅れて、三桜さんが固まっていた。
まんまるに見開いた目が、俺の腕に抱きつく篠崎と、俺の顔を何度も行き来する。
口をまるく開けたまま、ぱくぱくと声にならない声をこぼしている。
ようやく、再起動したらしい。
「誠くん、この人……だれ?」
「えっと――数日前、プリントを拾ってやった後輩で――」
「篠崎心花ですっ! 一年ですっ! センパイには、いっつもお世話になってますっ」
「いっつもって、先週一回、会っただけだろ」
「一回でも、一生分の恩ですよぉ」
「……重いな」
三桜さんの視線が、俺の腕に絡みつく篠崎へ、まっすぐ向けられた。
その目が、みるみるうちに潤んでいく。
「……離れて、ください」
三桜さんが、ぎゅっと唇を噛んで立ち上がった。
小さな両手で、俺の腕にくっついた篠崎を、えいえい、と引き剥がそうとする。
だが、まるで力が入っていない。
もともと、三人の中でいちばん小さくて細い三桜さんだ。
子猫が前足で猫じゃらしをちょいちょい押さえるみたいな、およそ引き剥がしとは呼べないやわらかさだった。
ただでさえ三桜さんがここまで必死な顔を見せるのは珍しいのに、この威力ではなんとも締まらない。
必死の形相のわりに、その手つきはどこまでも優しくて、見ているこっちが、なんだか申し訳なくなる。
そんな、いかにも三桜さんらしい可愛い抗議にも。
篠崎は、まるで怯まなかった。
それどころか、三桜さんの顔を見て、ぱっと目を輝かせる。
「わあ、もしかして、綾瀬先輩ですかっ?」
「え……なんで、私の名前……」
「センパイの隣に、すっごく可愛い先輩がいるって、噂で聞いてましたっ!」
「ふぇっ? か、かわいい……?」
矛先を向けられた三桜さんが、きょとんと目を丸くする。
その隙に、篠崎は引き剥がされかけた腕を、ますますしっかり抱き直した。
「あ、そうだ。私、決めましたっ」
篠崎は俺の腕を抱えたまま、まっすぐに俺を見上げて、堂々と言い放った。
「私にも、勉強教えてくださいっ!」
「……は?」
「センパイ、テスト対策すっごく頭いいって聞きましたっ。後輩にも、どうか愛の手をっ!」
「愛の手って……そもそも、誰から聞いたんだよ、そんな話」
「だって私、センパイのこと、いっつも見てますからっ」
あまりに屈託なく言い切られて、突っ込むタイミングを見失う。
その明るすぎる声の奥に、一瞬だけ、逃げ場をなくされるような重さがちらついた気がした。
「……俺だって、人に教えられるほど成績よくないぞ」
「謙遜ですっ! 放課後、邪魔にならないようにしますからっ。ね? ね?」
「だ、だめっ! 誠くんは、これから私たちと勉強するのっ!」
三桜さんが、半分泣きそうな顔で食い下がる。
「えー、どうしてですかぁ? 私、おとなしくしてますよ?」
「おとなしくしてないよぉ! いきなり抱きついてきたじゃんっ!」
「これは、センパイへのリスペクトですっ。ね、センパイ、いいですよねっ?」
「お前、さっきから全然、三桜さんの話を聞いてないだろ」
「聞いてますよぉ。でも、センパイが『うん』って言ってくれれば、ぜんぶ丸く収まるじゃないですかっ」
「ちっとも収まってないから、言ってるんだよ」
後輩の特権、とでも言いたげな図々しさだった。
むげに断れない後輩という、これ以上ない立ち位置。
その絶妙なポジションを、この子はたぶん、本能で分かっている。
「いや、俺自身もいっぱいいっぱいで……それに、三桜さんもこう言ってるしな」
やんわり断ろうとした、その時だった。
「……駄目、ですか?」
篠崎が、ふっと声を落とした。
大きな目の端に、うっすらと水気が浮かぶ。
上目遣いで見上げてくるその距離は、腕一本ぶんもない。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、しおらしく肩を落としている。
……ずるいだろ、その顔。
「……邪魔は、しないんだな?」
「しませんっ! おとなしく、隅っこで勉強しますからっ」
「隅っこで勉強するだけなら、俺の許可なんかいらないだろ」
「センパイの許可がないと、私、何もできないんですよぉ」
「依存度が高すぎるだろ……」
俺が半分折れかけると、篠崎は一瞬で、元の満面の笑みに戻った。
「お、相沢。なんだなんだ、今度は一年生と修羅場かよ」
不意に、横から声が飛んできた。
部活帰りらしい、同じクラスの男子だ。
スポーツバッグを肩にかけて、面白がるようにこちらを見ている。
「二年の三つ子だけじゃ足りないって、すげーな」
「茶化すなよ。そういうのじゃないから」
ため息まじりに言い返すと、腕にかかっていた重みが、わずかに動いた。
篠崎が半歩、俺の背中側へ体をずらす。
「そうですよー! 相沢センパイは私が予約済みなので、邪魔しないでくださいねっ」
声はいつも通り明るかった。
ただ、その明るさが飛んでいく先は、相手の顔ではなく、俺の肩越しの少し上だった。
そいつは「はいはい、お邪魔しましたよー」と笑って手を振り、廊下の先へ去っていく。
その背中が見えなくなったころ、俺の腕を抱える指の力が、少しだけ緩んだ。
「あ、そうだ。センパイ、連絡先教えてくださいっ」
「話、聞けって……」
「ほんの一瞬で終わりますからっ」
篠崎は、ようやく俺の腕を離したかと思うと、どこからかスマホを取り出して、ぐいと画面を突きつけてきた。
これも後輩の特権、とでも言いたげな満面の笑顔だ。
その勢いに気圧されて、俺は半ば反射的に連絡先を交換させられてしまう。
「えへへ、ゲットですっ。宝物が、増えましたっ」
「連絡先ごときで、大袈裟だろ」
「センパイには、ごときでも。私には、一生ものですからねっ」
からっと笑っている。
嫌味も、計算もない。
だからこそ、その言葉が、ふっと底を見せる一瞬がある。
「じゃあ私、今日はこれでっ! また明日、絶対来ますからねっ。覚悟しておいてくださいよぉ」
さんざん場を引っ掻き回した挙句、篠崎は軽やかに身をひるがえして、駆け出しかけた。
だが、ふと思い出したように立ち止まり、くるりと三桜さんへ振り返る。
「あ。綾瀬先輩は、センパイのお友達ですよねっ? 私、これからいっぱいお邪魔しちゃうので……仲良くしてくださいねっ。よろしくお願いしますっ!」
「お友達っていうか、その、ただの友達じゃなくて……」
「すっごく優しそうな先輩ですっ。センパイの近くにいる人って、みんな素敵なんですねっ!」
心から嬉しそうに、にぱっと笑って、ぺこりと深々と頭を下げる。
敵意を向けようとしていた相手から、正面からまっすぐ褒められて。
さっきまで臨戦態勢だった三桜さんが、ぽかんと毒気を抜かれてしまった。
「え、あ、う、うん……よろしく……?」
つられて、こくんと頷いてしまっている。
篠崎は満足げに手を振ると、軽い足音を響かせて、廊下の角の向こうへと消えていった。
しばらくの、沈黙。
「……って、ちがうっ! よろしくしないもんっ!」
数秒遅れて我に返った三桜さんが、廊下で一人、ジタバタと地団駄を踏む。
「もうっ! なんなのあの子ぉ! 一生分の恩って、何!?」
「あー……まあ、プリントを拾うのを、手伝っただけなんだけどな」
「プリント拾っただけで一生分!? じゃあ私なんて、毎日一緒にいるのにっ!」
三桜さんが胸の前でぐっと拳を握って震わせる。
「はいはい。落ち着けって」
「落ち着けないよぉ! あの子、絶対、誠くんのこと狙ってるもんっ!」
「考えすぎだろ。ただの、元気な後輩だって」
「誠くんは鈍感すぎるのっ! あんなの、どう見ても本気だもんっ!」
三桜さんは、ぐすっと鼻を鳴らした。
それから、ふっと顔を上げる。
「……私も、負けないんだから」
「え?」
「なんでもないっ。……ほら、帰ろ、誠くん」
ぷいっとそっぽを向いて、それでも俺のシャツの袖は、しっかり掴んだままだった。
俺は、頬を膨らませた三桜さんをなだめながら、去っていった小柄な後ろ姿を思い返して、そっとため息をついた。
一花さんの計算高いアピールとも、二葉さんの理詰めの包囲網とも、三桜さんの無自覚な甘えとも違う。
駆け引きゼロで、ただ真っ直ぐにぶつかってくる、底の知れないエネルギー。
鞄を担ぎ直したところで、ポケットのスマホが、小さく震えた。
さっき交換したばかりの連絡先から、一件の通知。
『センパイ! 心花ですっ! 明日も、よろしくお願いしますっ』
――明日も、か。
俺は小さく苦笑して、スマホをポケットに戻した。
ただでさえ賑やかだった毎日が、もう一段、騒がしくなりそうだった。




