第34話 次女の計画表、隠せない優先順位
放課後を告げるチャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、俺は鞄に教科書を突っ込んだ。
朝のホームルームでの、三者三様の宣言。
期末テストの日程が発表された直後、彼女たちはそれぞれのやり方で俺への包囲網を敷くことを予告してきた。
『無理じゃない? あたしたち、めっちゃ本気だしね』
『そういうことよ、マコト。覚悟しなさい』
『わ、私も、いっぱいお手伝いするからねっ』
あの言葉通りなら、間違いなく今日この瞬間から、熾烈な囲い込みが始まるはずだ。
一花さんは前の席で友達と話しつつも、ちらちらとこちらへ視線を投げている。
油断すれば一瞬で距離を詰めてきて、有無を言わさず放課後の予定を強奪していくだろう。
三桜さんはなぜか鞄の留め具と格闘して手間取っていた。
あわあわと焦る姿は小動物のようで微笑ましいが、彼女のまっすぐな好意もまた、侮れない引力を持っている。
三人まとめて包囲される予感に、俺は小さく息を吐いて覚悟を決めた。
誰の誘いをどうやって躱すか、あるいはどう受けるか。
思考を巡らせていた、その時だった。
「マコト。少し、いいかしら」
「えっ」
不意に横合いから声が降ってきた。
見上げると、左隣の席からいつの間にか立ち上がった二葉さんが、俺の机を見下ろしていた。
背筋をピンと伸ばし、鞄を両手で提げた隙のない立ち姿。
すぐ隣の席だというのに、彼女がいつ帰り支度を終え、気配もなく立ち上がったのか、俺はまったく気がつかなかった。
「……二葉さん。どうしたの?」
「一花と三桜が来る前に、場所を変えるわよ」
「……なんか、嫌な予感が、するんだけど」
「失礼ね。いいから、ちょっと、こっちへ来なさい」
有無を言わせぬ響きだった。
朝の昇降口で見せた宣言。
その延長線上にいることは明らかだったが、声の温度が一段、静かに落ち着いている。
一花さんや三桜さんのように、周囲の目を惹くような派手なアピールはない。
ただ淡々と、しかし絶対に逃がさないという静かな圧がそこにあった。
「ちょっと、二葉! ずるくない!?」
背後で一花さんが声を上げた。
「先着よ、一花」
振り返りもしない。
「わ、わかったよ」
俺は促されるまま立ち上がり、二葉さんの後に続いた。
振り返ると、一花さんが唇を尖らせて頬杖をつき、三桜さんは相変わらず鞄の留め具と格闘していた。
教室を出て、階段へ向かう廊下を歩く。
放課後の解放感に包まれた校舎は、あちこちから部活動へ向かう生徒たちの足音や笑い声が響いていた。
「あ、二葉さん! この前の、化学のプリント、ほんとに助かりました。あの、よかったら、また今度、分からないところ、教えてもらっても……」
すれ違いざまに、同じクラスの女子が二葉さんを呼び止めた。
「ええ。構わないわ。明日の、昼休みにでも、いらっしゃい」
淡々と引き受け、二葉さんは歩みを止めない。
クールでとっつきにくい印象があるものの、教え方が的確な彼女は、すでに周囲から頼られ始めているらしかった。
「二葉さん、そういうの、いつも頼まれてるよな」
俺が背後から声をかけると、二葉さんは前を向いたまま答えた。
「頼まれたから、処理するだけよ」
「それだけ、って感じでもないだろ。人に教えるのって、自分の勉強の時間も削るわけだし」
「あの程度、大した手間ではないわ。それより、マコト」
「うん?」
「私を心配する暇があったら、自分自身の成績を心配しなさい」
言い切られて、俺は苦笑した。
その、話をすっと切り替える手つきの鮮やかさに、二葉さんらしいなと思う。
二葉さんは、頼まれれば断らない。
でもそれは、打算でも義理でもないんだろう。
ただ、手を掛けずにはいられないだけなんだと思う。
そんなことを考えているうちに、俺たちは階段を降りきっていた。
「……着いたわね」
「ここ、中庭?」
「ええ。ここなら誰も来ないでしょう」
「わざわざ場所を変えるなんて、よっぽど大事な話か?」
「テスト勉強の計画についてよ」
二葉さんが足を止めたのは、人気のない放課後の中庭だった。
生徒の大半は部活動や帰宅の途についており、四方を校舎に囲まれたこの場所には静寂が落ちている。
傾きかけた夕日が、校舎の影を長く伸ばし、手入れされた芝生をオレンジ色に染めていた。
「座りなさい」
促されて、木製のベンチに腰を下ろす。
二葉さんも、俺のすぐ右隣に座った。
「……近いな」
思わず本音が漏れる。
ベンチは他にもいくらでも空いているのに、二葉さんの膝が触れるか触れないかという距離だった。
「そう? 普通じゃないかしら」
「普通って……ここ、学校だぞ」
「誰も見ていないわ」
「見てなくても、近いものは近いだろ」
「……そう。結構よ」
結構、と言いつつ、二葉さんは距離を離す気配がまるでない。
膝の位置も、肩の高さも、そのままだった。
きっちりと着込まれた制服越しに、彼女の少し高めの体温が伝わってくるような気がした。
彼女が少し身動きするたびに、その整った輪郭が夕日に照らされ、ひやりとした美しさに体温が宿るのを感じた。
「マコト。これを見なさい」
距離へのツッコミにはそれ以上答えず、二葉さんは鞄から一冊の水色のノートを取り出し、俺の膝の上に広げた。
「これは……?」
「期末テストまでの、学習計画表よ。あなたと一花、それから三桜の分ね」
開かれたページには、三人の苦手科目と得意科目が細かく分析されていた。
今日からテスト当日までのスケジュールが、色分けされてびっしりと書き込まれている。
ただの予定表じゃない。
参考書のどのページをいつやるべきか、どの時間帯に暗記科目を詰め込むべきかまで、完璧に網羅されていた。
「……これ、いつ作ったんだ?」
「今日の授業中よ。朝のホームルームで、日程が発表されたでしょう」
俺は絶句した。
「今日の授業中って……たった数時間で、これを三人分?」
「ええ。三時間目の数学の演習中に骨子を作って、五時間目の古典で仕上げたの。授業は聞きながらで問題ないもの」
「聞きながらで問題ないって……」
「それぞれの手持ちの課題を勘案して、一番確実に点数を底上げできるルートを構築したわ。手書きで申し訳ないけれど、後で清書するつもりよ」
二葉さんは平然と言ってのけた。
まるで当然のタスクをこなしただけだと言わんばかりの涼しい顔だった。
「ちなみに、一花さんには?」
「『誠、あたしにも教えてよね』なんて騒いでいたわね。相変わらず計画性が皆無だけれど、基礎問題だけを叩き込む時間を組み込んであるわ。あの子は集中力が続かないから、一回十五分のサイクルを繰り返すように設定してあるの」
「なるほど、一花さんの性格を完全に読んでるな。三桜さんは?」
「『いっぱいお手伝いする』って張り切っていたわね。気持ちは認めるけれど、それより自分の勉強に集中しなさい、という話よ。三桜には、暗記ものを中心に反復させるスケジュールを組んだわ。あの子は真面目だから、やればやっただけ伸びるもの」
「すごいな。姉妹のこと、本当によく分かってる」
「当然よ。ずっと一緒に生きてきたんだから。二人の性格も、弱点も、私が一番把握しているわ」
二葉さんが軽く息をついて、俺の顔を見た。
「……頭上がらないな、これ」
「そうよ。だから、私の指示に従いなさい。月曜と水曜は数学の演習、火曜は英語の長文、木曜は古典と社会を交互に、金曜は総復習。放課後は毎日、私が進捗を確認するわ」
「……毎日?」
「毎日よ」
「……マジか」
「『マジか』ではないわ、マコト。計画は遵守するものよ」
ぴしゃりと言い切られて、俺は思わず天を仰いだ。
「……つまり俺は、向こう二週間、二葉さんに逆らえないってことか」
「ようやく理解したようね。賢明だわ」
ぐうの音も出ない。
「二葉さんは、自分の勉強は大丈夫なのか?」
「愚問ね」
二葉さんは軽く鼻を鳴らした。
「学年トップクラスを維持するのに、二週間前から慌てる必要はないわ。あなたの勉強を見る時間は、ちゃんと確保済みよ」
「……余裕あるな」
「余裕ではないわ。ただ、優先順位を、間違えていないだけ」
その、優先順位、という一言が、やけに引っかかった。
自分の勉強より、俺の勉強計画。
この人は、それをさらりと当たり前のように言ってのけた。
ノートを覗き込もうと、俺が少し身を乗り出した瞬間。
さらり、と。
二葉さんのストレートの黒髪が、俺の肩に触れた。
そのまま、彼女の肩が腕に当たる。
制服越しなのに、やけに柔らかい感触がした。
「っ……」
「ここがマコトの弱点ね。基礎はできているけれど、応用問題の反復が足りていない」
「そ、そうなのか」
「ええ。特に数学よ。先週の小テスト、最後の応用問題で手が止まっていたでしょう。あれは基礎の公式を組み合わせるだけで解ける問題だったわ」
「見てたのかよ」
「隣の席だもの。嫌でも目に入るわ。それに……マコトがどこで躓いているかくらい、見ていればわかるもの」
俺の胸のあたりが、変にざわついた。
「……そこまでしなくていいのに」
「しなくていい、で済ませないのが私よ」
きっぱりと、二葉さんは言い切った。
「マコトは、放っておくと中の上で止まるでしょう。それは、もったいないわ」
「もったいないって、別に上を目指してるわけじゃ——」
「目指しなさい。私が、付き合ってあげるから」
断定だった。
反論の余地もない。
そして、その言い方には、責めるような響きが一つもなかった。
むしろ、静かで、まっすぐで――どこか、譲れないものがある声だった。
二葉さんの白く細い指先が、ノートの行を几帳面になぞる。
すぐ横顔がそこにあった。
切れ長で知的な瞳が、真剣な光を帯びてノートを見つめている。
流れるような髪の感触と、あまりに近い距離に、心臓がうるさく鳴り始めた。
指先がなぞる箇所を追うふりをして、俺はなんとか動揺を隠すように口を開く。
「……すごいな。でも、二葉さん、色々と抱え込みすぎじゃないか?」
「抱え込む?」
ノートから顔を上げ、二葉さんが不思議そうに小首を傾げた。
「さっきみたいに人に勉強を教えるのだってそうだし……俺たちの計画までこんなに細かく立てて。自分の勉強もあるだろ。疲れないか?」
俺がそう言うと、ノートの上を動いていた指先が、ぴたりと止まった。
「……私の成績は、心配には及ばないわ」
「そうじゃなくてさ。無理してるんじゃないかって」
彼女はいつも、完璧に見える。
だからこそ、こうやって見えないところで全部を背負い込んでいるんじゃないかと、少しだけ心配になった。
「……無理なんて、していないわ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわよ」
静かな中庭に、少しだけ沈黙が落ちた。
夕日の差すベンチの上で、二葉さんはふいっと顔を背けた。
流れた髪の隙間から、彼女の横顔が見える。
「……マコトのことになると、不思議と苦にならないのよ」
ぽつりとこぼれた声は、いつもの理詰めのトーンとは違っていた。
微かな、けれど確かな熱を帯びた響き。
横顔の、夕日の光に透ける耳の縁が、微かに、けれどはっきりと赤く染まっている。
二葉さんは、スカートの裾をきゅっと強く握りしめた。
「一花は自分も教えてもらうとか言っていたし、三桜はいっぱいお手伝いするとか言っていたけれど……。そんな不確かなものより、私のほうが確実で、合理的よ」
早口で、自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。
それは明らかに照れ隠しの建前だった。
その、何かをうまく言葉にできなくて、代わりに完璧な計画表という形にして押し付けてくる。
そんな彼女の不器用さが、たまらなく愛おしく思えた。
俺は、押し付けられたノートの重みと、隣から伝わってくる熱を感じながら、小さく笑った。
「……お手柔らかにお願いするよ、二葉さん」
「ええ。覚悟しておきなさい。私の指導は厳しいわよ」
「望むところだ。その代わり、しっかりついていくから」
こちらを見ないまま、二葉さんは小さく頷いた。
そして、すっと立ち上がり、スカートの裾を整えた。
「今日のところは、計画表を渡すだけ。実行に移すのは、明日の放課後からよ」
「了解……」
「復習。月曜は数学の演習、火曜は英語の長文。忘れないように」
「はいはい」
「はいは一回でいいわ、マコト。では、また明日」
「はい」
まっすぐに歩く背中と、歩調に合わせて揺れるスカートの裾を、つい目で追っていた。
残されたノートをめくる。
最後のページには、小さな字で書き添えられていた。
——マコトへ。
わからないところは、何度でも聞きなさい。
几帳面な字のくせに、その一行だけ少しだけ筆圧が強かった。
きっと、何度も書き直そうとして、結局そのまま残したのだろう。
俺はノートを閉じ、その表紙をそっと撫でた。
◇
ようやくノートから顔を上げ、俺も立ち上がった。
中庭を抜けて、渡り廊下を通って二年の校舎へと戻る。
教室に置いたままの鞄を取りに、一度戻らなくてはいけない。
二年の教室が並ぶ廊下に差しかかったとき、ふと気配を感じた。
顔を上げると、廊下の向こうに、見慣れない小柄な後ろ姿があった。
ショートヘアの、どこかボーイッシュな雰囲気。
制服をラフに着崩している。
上履きの色からして、一年生だ。
こんな時間に二年の校舎を、一人でうろついている一年生は珍しい。
その子は、二年B組の中を、何か探しでもするみたいに、そわそわと覗き込んでいる。
ふと、その子が振り返った。
一瞬だけ、目が合った。
大きな目に、まっすぐな光。
次の瞬間、その一年生ははっと肩を跳ねさせて、くるりと身を翻し、廊下の角の向こうへと消えてしまった。
「……なんだ、今の」
立ち止まって、首を傾げる。
追いかけるほどのことでもない。
ただ、なぜか引っかかった。
あの目、どこかで――。
いや、気のせいだろう。
うちのクラスに、一年の知り合いがいるやつなんて、いただろうか。
そもそも、俺自身に、後輩の知り合いなんていた覚えがない。
首を振って、教室へ戻った。
机の上に置きっぱなしの鞄を取り上げる。
腕の中の水色のノートだけが、静まり返った教室の中で、やけにはっきりと存在を主張していた。




