第33話 奪い合う朝、誰と並んで歩くか
昨日、パソコンの電源を落としてから、どうやってベッドに入ったのかあまり覚えていない。
ただ、胸の奥にあった変な熱だけは、朝になってもまだ少し残っていた。
洗面台で顔を洗い、制服に着替え、鞄を手にする。
鏡の前の自分は、いつも通りの平凡な高校生だ。
もう逃げない、と昨日の屋上で言い切った男には、どう見ても見えなかった。
玄関を開けると、六月の朝の空気はもう生ぬるくて、首元にまとわりついてきた。
駅へ続く道を歩き出す。
決意はした。
したけれど、それを抱えたまま、今日あの三人の前でどう振る舞えばいいのかは、何ひとつ決まっていない。
そんな朝の悩みは、駅の手前の曲がり角に差しかかった瞬間に、あっさりと吹き飛んだ。
「おはよっ、誠!」
ひらり、と。
曲がり角の影から飛び出してきたのは、半袖ブラウスの襟元を少しくつろげた、ラフな制服姿の綾瀬一花さんだった。
「うおっ!?」
「あはは、びっくりした? はい、捕獲〜」
言葉より先に、腕が絡みついてくる。
耳元で、機嫌のいい笑い声が弾ける。
それ以上に、腕に押し付けられる服越しでもはっきりとわかる、予想以上の柔らかさと重みに、思わず心臓が跳ねる。
「ちょ、一花さん、近い、近いって!」
「えー? 別にいいじゃん。減るもんじゃないっしょ」
「俺の寿命が減るんだよ!」
「あはは! 誠、顔真っ赤!」
笑いながら、一花さんはさらに腕を引き寄せてくる。
逃げ場はない。
朝の通学路だというのに、彼女は周囲の目なんて全く気にしていないらしかった。
「だいたい、なんでこんなところで待ち伏せなんか……ここ、うちの最寄りだぞ」
「んー? だって、どうせ誠のことだから、昨日の今日でウンウン悩んでるんだろうなって思って。ちゃんと来るかなーって、見張っとかないとさ」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「ほら、図星じゃん」
一花さんは少しだけ顔を近づけ、下から覗き込むように俺を見た。
「逃げないって、言ったよね?」
「……ああ。言った。もう逃げない」
「なら、これくらいは覚悟してもらわないとね。あたしは最初から、ずっと本気なんだから」
小悪魔みたいな笑顔。
けれど、その奥にあるものを、もう知らないふりはできない。
「じゃあ、ご褒美。今日の通学路はあたしが独占ね」
「ご褒美って、俺に何のいいこともないだろ」
「あるよ。こんな可愛い子と、腕組んで登校できるんだから」
断言されると返す言葉がない。
実際、否定はできなかった。
「ていうか、一花さんの家、学校から歩いてすぐだろ? わざわざ電車乗って来たのかよ」
「そうだよ? 早起きして、電車乗って迎えに来てあげたんだから。感謝してよね」
「早起きって……いつもは何時に起きてるんだよ」
「んー、ギリギリまで寝てる。でも、誠のためなら特別」
特別、なんて言葉をそんなに軽い声で言うのは、ずるいと思う。
腕に絡みついたまま、一花さんが得意げに顎を上げた。
「……朝から元気すぎるだろ」
「愛の力ってやつ? あはは! 朝のあたしだけの時間は、ここだけの秘密なんだから。さ、学校行くよ! 遅刻しちゃうっしょ」
「わかった、わかったから引っ張るなよ」
ぐいっと腕を引かれ、俺は慌てて足を踏み出す。
改札を抜け、電車に乗り、学校の最寄り駅から坂道を登る。
その間ずっと、一花さんは俺の腕に絡みついたまま、楽しそうに話し続けていた。
すれ違う生徒たちの視線が痛いが、振り払うのも躊躇われる絶妙な力加減だった。
「見られてるんだけど」
「見られてるくらいがちょうどいいの。誠があたしのだって、みんなに知ってもらわないと」
「いつ俺がお前のになったんだ」
「昨日。宣戦布告、受理されたじゃん?」
一花さんがけらけら笑う。
腕に絡む指先が、ほんの少しだけ震えていた。
けれど、校門が見えてきたところで、一花さんはふっと腕を離した。
「……ん?」
「じゃ、ここまで。二葉と三桜に見つかると面倒だし」
「今さらだろ」
「今さらじゃないんだってば」
人差し指を唇に当てて、片目を瞑る。
完璧な小悪魔のポーズ。
──けれど校門をくぐる直前、一花さんの足がふと止まった。
振り返った横顔から、笑みがふっと消えていた。
探るような、どこか怯えるような、素の表情。
「……ねえ、誠。あたしのこと、ちゃんと見ててね」
「えっ……」
「なーんてね! じゃ、また後で!」
ひらひらと手を振って、一花さんは小走りで別の方向へ向かっていった。
残された俺は、しばらくその背中を見送る。
いつもの冗談のはずだった。
けれど最後の一言だけ、声が笑っていなかった気がする。
◇
気を取り直して、一人で校門をくぐり、昇降口へ向かう。
下駄箱で靴を履き替えようとした瞬間、背後から静かな声がした。
「おはよう、マコト」
「わっ!?」
振り向くと、そこにはきっちりと制服を着こなした綾瀬二葉さんが立っていた。
黒髪のストレートロングを一筋も乱さず、制服のボタンを一番上まで留めた、隙のない佇まい。
外はもう汗ばむような陽気なのに、彼女の周りだけ空気が涼しく張り詰めている気がした。
「二葉さん……おはよう。待ってたのか?」
「待っていたのではないわ。管理よ。マコトの登校時間を把握するのは、当然のことだから」
「把握って……」
「昨日の今日で遅刻でもされたら困るもの」
一花さんと同じことを、まったく違う温度で言われた。
二葉さんが一歩、距離を詰めてくる。
着痩せして見える彼女だが、至近距離に立つと、制服の生地が少し窮屈そうに張っているのがわかる。
本人はまるで気にしていない顔でこちらを見上げてくるから、余計に視線のやり場に困ってしまう。
「ネクタイが曲がっているわ」
「え、いいよ自分で──」
「動かないで」
短く、静かに。
二葉さんの細い指がネクタイの結び目に触れた。
首元にひんやりとした指先がかすかに当たって、冷たい体温がちくりと走る。
「……っ」
心臓が一拍跳ねる。
至近距離にある二葉さんの横顔は、いつものように平然としていた。
けれど耳の縁だけが、うっすらと赤い。
「これで良し。……あなた、息が上がっているわ」
「別に……息なんて上がってない」
「嘘をつくなら、もう少し呼吸を整えてからにしなさい」
その通りだった。
息が上がっているのも、心臓が暴れているのも、二葉さんのせいだ。
けれど、それを正直に口に出す度胸はなかった。
二葉さんがそっと身を引いた。
けれど視線は俺から外れない。
「今日から、朝の登校は私が確認するわ。遅刻の管理も、忘れ物の確認も」
「それ、ただの監視じゃないか?」
「人聞きが悪いわね。合理的に考えて、私の隣にいるのが一番安全でしょう」
「安全って……やっぱり管理ってレベルじゃないだろ」
「管理よ。マコトのことを整えるのは──」
言いかけて、二葉さんがほんの一瞬だけ唇を噛んだ。
「……私がそうしたいだけよ。理由は要らないでしょう」
最後の一言だけ、声がわずかに小さくなった。
スカートの裾をきゅっと握る指先に、隠しきれない力が入っている。
義務だ、管理だと言い張りながら、彼女の行動の根っこにあるのは、もっと別の、ずっと重たいものなのかもしれない。
それを指摘したら、この人はどうなってしまうのだろう。
「とにかく、勝手な行動は控えることね。さ、教室に行くわよ」
「……わかったよ」
ネクタイを直し終えた二葉さんの背中には、有無を言わせない気配があって、俺は慌ててその後を追いかけた。
◇
教室に入ると、いつもの騒がしい朝の風景が広がっていた。
自分の席に鞄を置き、ふうっと息を吐く。
まだ一時間目も始まっていないのに、すでに一日分のエネルギーを使い果たした気分だった。
「おはよう、相沢」
「……おう、おはよう」
「お前、なんか朝から疲れてないか?」
「……まぁ、色々あってな」
クラスメイトとそんな挨拶を交わしていると、ガラッと勢いよく教室の後ろのドアが開いた。
「はぁ、はぁっ……間に、合ったぁ……!」
肩で息をしながら飛び込んできたのは、三女の綾瀬三桜さんだった。
半袖ブラウスの肩の位置がわずかにずれていて、走ってきた勢いのままの、どこか隙のある着こなしになっている。
いつもより少し乱れたボブカットから、ベビーパウダーのような甘い匂いが漂ってきた。
「三桜さん、おはよう。走ってきたのか?」
俺が声をかけると、三桜さんはぱぁっと顔を輝かせ、とてとてと駆け寄ってきた。
「誠くん! おはよう!」
そして、そのままの勢いで俺の腕にぎゅっとしがみついてくる。
「うおっ!?」
「えへへ、誠くんの匂いだぁ……」
「ちょ、三桜さん、教室! みんな見てるから!」
「んー? だって私、本当に急いで来たんだもん」
小動物のような華奢な体だが、押し付けられた胸元は驚くほど柔らかい。
一花さんのように計算された密着ではなく、本当に無自覚に甘えてきているのがわかるからこそ、タチが悪い。
「目覚まし、三回止めちゃって……」
三桜さんがしょんぼりと俺の前に立つ。
「一花お姉ちゃんも二葉ちゃんも、朝から誠くんと一緒だったんでしょ?」
声が、ほんの少し拗ねている。
「なんで起こしてくれなかったの、ってメッセージしたのに二人とも既読スルーだったもん」
「あはは、ごめんごめん」
少し前の席から、一花さんが手をひらひら振った。
二葉さんは何も言わず、ノートの上でペンを走らせたまま、口元だけかすかに引き結んだ。
「もう……私だけ出遅れちゃった」
三桜さんが唇を尖らせる。
その顔がおかしくて、つい笑ってしまった。
「何笑ってるの、誠くんのばかぁ」
「ごめん。でも、ちゃんと間に合ってるだろ」
「間に合ったかどうかじゃなくて……」
三桜さんが口ごもる。
ぼそりと、小さな声が落ちた。
「……朝、誠くんの隣を歩きたかっただけなのに」
ぽろりとこぼれ落ちた、嘘のない本音。
三桜さんはハッとして、自分の口を両手で塞いだ。
「あっ、ちが、違うの! 今のは……そのっ」
顔を真っ赤にして慌てふためく姿が、たまらなく可愛かった。
けれど、聞こえていたのは俺だけじゃない。
前の席で一花さんの肩がぴくりと跳ねて、隣で走り続けていたペンの音が、ふつりと途切れた。
「三桜、朝くらい一人で起きなさいよ」
一花さんが呆れたように振り返る。
その言葉に、三桜さんがぷくっと頬を膨らませて反撃した。
「一花お姉ちゃんだって、私と二葉ちゃんに黙って先に出たくせに!」
「げっ。……あ、あたしはさ、戦略的行動ってやつだし?」
「戦略って……ずるいよぉ」
三桜さんの頬が、さらにぷくっと膨らむ。
そのやり取りを聞いていた二葉さんが、ノートから目を上げずに、静かに一言だけ落とした。
「次からは三人同時に出発する取り決めにしましょう。公平性の確保よ」
「それ結局、みんなで誠の家の方まで来るやつじゃん!」
一花さんがすかさずツッコみを入れて、教室の空気がどっと明るくなった。
◇
やがてチャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってくる。
出席を取った後、教卓に手を突き、クラス全体を見渡した。
「えー、お前ら。そろそろ浮かれた気分も抜けてきた頃だと思うが」
嫌な予感がする、教師特有の前置きだ。
「二週間後から、期末テストが始まる。スケジュール表は後で配るから、しっかり計画を立てて勉強しておくように」
「えーっ!」
「マジかよ……」
教室中から悲鳴のような呻き声が上がる。
俺も思わず、机に突っ伏したくなった。
ふと視線を上げると、三姉妹の様子が目に入った。
一花さんは「うえー」と小さく呻いて頬杖をつきながらも、どこか俺の方をチラチラと見ている。
二葉さんは、一瞬だけ目を細めた後、ノートの新しいページを静かに開いた。
さっきまでとは顔色がまるで違う。
三桜さんはぱちぱちと瞬きをして、それから、まっすぐこちらに目を向けた。
「誠くん、テスト勉強、教えてくれる……?」
「ちょっと三桜、抜け駆けはなしってさっき言ったばっかじゃん! ……誠、あたしにも教えてよね?」
「勉強のことなら私に任せなさい。私が全員の面倒を見てあげるわ。もちろん、マコトもね」
三人の熱を帯びた視線が、一斉に俺に向かってくる。
「えっと……お手柔らかにお願いします」
「無理じゃない? あたしたち、めっちゃ本気だしね」
「そういうことよ、マコト。覚悟しなさい」
「わ、私も、いっぱいお手伝いするからねっ」
三者三様の宣言が、一斉に俺に降り注いだ。
朝から、これだ。
逃げないとは決めた。
決めたけど。
恋の修羅場に、テストという火種が、今まさに投下されようとしていた。




