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第32話 宣戦布告と、落とした電源

朝の教室で机に滑らされた一枚のメモと、放課後は逃がさないという三人がかりの念押し。

 その時間が、とうとうやってきた。


 放課後。

 屋上へ続く階段を上り、重い鉄の扉を押し開ける。

 夕暮れ時の風が、一気に吹き込んできた。


 フェンス越しに広がる空は、まだ青い部分を残しながら、端のほうからゆっくりとオレンジに染まりはじめている。

 その手前に、三つの影が並んでいた。


 一花さんが右。

 二葉さんが真ん中。

 三桜さんが左。


 風が、一花さんの茶色い髪をさらい、二葉さんの黒髪の毛先を揺らし、三桜さんの柔らかなボブを浮かせる。


「来たわね、マコト」


「逃げたらどうしようかと思ったけど、さすが誠だね」


「誠くん、来てくれてありがとう」


 振り返った三人は、昼休みの賑やかさが嘘のように、真剣な表情を浮かべていた。

 張り詰めたような空気が、屋上を支配している。


 三者三様。

 でも今だけは、三人の瞳に、同じ光が宿っていた。

 覚悟を決めた人間だけが持つ、静かでまっすぐな光が。


「呼び出しなんて、どうしたんだよ。三人揃って」


 俺が問いかけると、最初に動いたのは二葉さんだった。

 彼女は静かな足取りで俺に近づき、あと一歩踏み出せば体が触れ合う距離で立ち止まる。


「金曜の夜、言ったわよね。惑わされないでって」


 二葉さんはまっすぐに俺の目を見たまま、すっと手を伸ばし、俺のネクタイを軽く引いた。


「っ、二葉さん……」


 ぐっと顔が近づき、彼女のシャンプーの清涼感のある香りが俺を包み込む。


「私を、ゲームの延長で見るのはやめて。私は綾瀬二葉よ」


 彼女の言葉は、いつもの理屈っぽさが消え、むき出しの感情だけが乗っていた。


「マコトの隣にいたいの。あなたのそばで、ずっと。……ただ、それだけよ」


 静かな、けれど有無を言わせない声だった。

 ネクタイを掴んでいないほうの手が、一瞬だけスカートの裾を握りかけて――すぐに、力を込めて拳を作る。


「隣にいたいから、譲らない。たとえ、相手が一花や三桜でも」


 それだけ言って、二葉さんはネクタイから手を離し、半歩下がった。


「返事は、まだいらないわ。……ただ、覚えていて」


 胸の前で組み直した腕が、そのまま硬く固まっていた。


「……じゃ、次はあたしの番ね」


 一花さんが前に出た。

 いつもの軽い足取りじゃない。

 一歩一歩が、地面を踏みしめるみたいに重い。

 そのまま、息を呑む俺の右腕に、ぴたりと腕を絡めてきた。


「……ねえ誠。あたしのことも、ちゃんと見て」


 腕に押し付けられる、服越しでもわかる確かな柔らかさ。

 一花さんはいつも通りの小悪魔な笑顔を作ろうとしていたが、俺の腕を掴むその指先は、微かに震えていた。


「あたし、金曜の夜さ。半分冗談って言ったじゃん」


「ああ」


「あれ、嘘」


 一花さんが、まっすぐに俺を見た。

 小悪魔の余裕も、からかいの笑みも、全部剥がれ落ちた素の顔。


「全部、本気だった。二葉も、三桜も大好きだけど――誠のことだけは、どうしても、誰にも譲れないの」


 声が震えていた。

 それを隠そうともしない一花さんは、俺の知っている一花さんとは、少しだけ違って見えた。


「あたしって、軽いでしょ。いっつもふざけてて、からかってて。でもね、誠」


 一花さんの手が、自分の胸のあたりをぎゅっと握る。


「あたしの中身は、こんなに重いんだよ。……笑わないでよね」


「笑わないよ」


 気がつくと、声に出していた。


「一花さんの気持ちは、ちゃんと、届いてる」


 一花さんの目尻が、一瞬きらりと光った。

 けれど、涙は落ちなかった。

 ぐっとこらえるように、一度だけ大きく息を吸い込んで、震える笑みを浮かべる。


「……バカ。そういうこと、ちゃんとあたしにも言うんだね」


 言いながら、一花さんが俺の腕からするりと手を離す。


「ほら。次は、三桜の番だよ」


「私だって、負けないもん!」


 一花さんに背中を押された三桜さんが、そのままの勢いで俺の腰に抱きついてきた。

 華奢な腕が俺の背中に回り、顔が胸元に押し付けられる。

 服越しに伝わってくる彼女の体温は、火傷しそうなほど熱かった。


「わ、私……二葉ちゃんみたいにうまく言えないし、一花お姉ちゃんみたいにかっこよくもないけど……」


 ぱっと顔を上げた三桜さんの瞳が、夕日を受けて琥珀色に光る。


「誠くんの特別に、なります。ぜったいに、なってみせます!」


 涙を溜めた目で、それでも真っ直ぐに俺を見上げてくる。

 小さな体が震えているのに、声だけは、どこまでもまっすぐだった。


「誠くんと一緒にいると、私、自分がすごく好きになれるの。だから……お願い。私のこと、ちゃんと見ていてね」


 ぽろっと一粒、涙がこぼれる。

 三桜さんが慌てて、手の甲でそれを拭った。


「あ、ごめんなさい、泣くつもりじゃなかったのに」


「三桜」


 一花さんが、そっと三桜さんの頭を撫でた。

 二葉さんが、無言でハンカチを差し出す。

 三桜さんがそれを受け取って、ぎゅっと握りしめた。


 三人の宣戦布告。

 二葉さんの静かな覚悟。

 一花さんの震える本気。

 三桜さんのまっすぐな涙。

 全部が違う色で、全部が同じくらい重くて、全部が本物だった。


 俺は三人の顔を、一人ずつ、順番に見た。


「……正直に言う。今の俺には、三人の中から誰か一人を選ぶことは、できない。ごめん」


 一花さんが唇を噛む。

 二葉さんの指先が、腕の上でぴくりと動く。

 三桜さんが、ハンカチをぎゅっと握り直す。


「でも」


 風が、四人の間を吹き抜けていった。


「俺は――三人のことが、大事だ。一花さんも、二葉さんも、三桜さんも。誰か一人を雑に扱って選ぶなんてこと、絶対にしたくない」


 自分でも、声が震えそうになる。


「もう、逃げない。三人の気持ちに、ちゃんと向き合う。……それが、今の俺に出せる、精一杯の返事だ」


「……誠」


「マコト」


「誠くん……」


 三つの声が、ほとんど同時に俺の名前を呼んだ。


 しん、と屋上が静まり返って。

 それから。


「……ふふっ。知ってる。誠がそういうお人好しだってことくらい」


 一花さんが、ふっと肩の力を抜いて笑った。

 いつもの軽さじゃない。

 でも、さっきの震えでもない。

 本気と軽さが、ちょうど半分ずつ混じった、見たことのない笑顔だった。


「だから、誠は無理に変わらなくていいよ。あたしたちが、絶対に振り向かせてみせるから」


「及第点にしてあげる。……二回目の、ね」


 二葉さんが、ふいっと顔を背けた。

 横顔の耳が、赤い。


「ぐすっ……えへへ。誠くんらしくて、安心した」


 三桜さんが、涙の残る顔で笑う。


「私が一番になるもん!」


「抜け駆けは禁止よ、三桜。……三人で決めたでしょう。正々堂々、この人を奪い合うって」


「そうそう、三人でヨーイドン、でしょ?」


 目と目を合わせた三人が、どちらともなく、くすりと穏やかに笑い合う。

 張りつめていた空気が、ふっと、風にほどけていく。


  ◇


 その夜。

 俺は自分の部屋で、机の前に座っていた。


 目の前には、スリープ状態になっているパソコンの黒い画面がある。

 マウスに触れると、画面が明るくなり、『エデン・オンライン』の起動アイコンが浮かび上がった。

 いつもなら、迷わずダブルクリックして、あの世界へと飛び込んでいる時間だ。

 【ルナ】がいる、あの世界へ。


『――私のこと、見つけてね』


 いつか彼女がチャットで送ってきた言葉が、脳裏をよぎる。

 俺はずっと、その約束を果たそうとしていた。

 本物の【ルナ】を探し出して、確かめようとしていた。


 でも、と、俺は目を閉じた。


 瞼の裏に、夕暮れの屋上が浮かぶ。

 ネクタイを引いた、指の冷たさ。

 腕に食い込んだ、手のひらの強さ。

 制服越しに伝わってきた、火傷しそうな体温。


 現実の彼女たちが放つ熱量は、画面のなかの思い出を軽く凌駕するほど、俺の心を大きく揺さぶっていた。


 三人それぞれが、本物の【ルナ】のように見えて。

 かと思えば、三人それぞれが、【ルナ】じゃない気もして。

 本物が誰かなんて、今の俺にはまだ、見当もつかない。


 でも、一つだけ、はっきりしていることがある。


 今日、あの屋上で俺の目を見て気持ちをぶつけてくれたのは、【ルナ】じゃない。

 綾瀬一花で、綾瀬二葉で、綾瀬三桜だ。


 画面の中の【ルナ】を追いかけるだけじゃ、もう足りない。

 目の前にいる、あの三人を、ちゃんと見なきゃいけない。


「……ちょっとだけ、待っててくれ。ルナ」


 俺は、モニターの向こう側にいるはずのネトゲの嫁に、小さく呟いた。

 今はまだ、あの世界へログインするべきじゃない。

 マウスから手を離し、そっとパソコンの電源ボタンへ指を伸ばす。


 かちり、と小さな音がして。

 画面が、暗くなっていく。


 部屋に、静寂が戻ってきた。

 窓の外で、虫の声がする。


 目を閉じると、三つの顔が浮かんだ。

 どれも同じ顔なのに、まったく違う色をしている。


 胸の奥に、変な余韻が残っていた。

 後悔でも、寂しさでもない何かが、そこにずっと居座っている。


 明日、どんな顔であの三人に会えばいいのか、まだわからない。


 でも、俺はもう、逃げないと決めた。


 恋の修羅場は――たぶん、ここからが本番だ。

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