第31話 三者三様の弁当箱と、賑やかな昼休み
朝の教室に入った瞬間、空気が違った。
何が、とはうまく言えない。
窓から差し込む朝日は先週と同じだし、黒板に書かれた日直の名前もいつも通りだ。
なのに、自分の席へ向かう途中で背中を刺す視線が、金曜までとは明らかに温度が違う。
三つ。
金曜日の帰り道のことが、まだ頭の隅に引っかかっていた。
別れ際、三人が見せた翳りのある表情。
いつも賑やかな彼女たちが、ふっと笑顔を消したあの瞬間が、俺の胸に奇妙な余韻を残している。
隣の席には、すでに二葉さんが座って文庫本を開いていた。
目線だけがこちらを捉えて、すぐに紙面へ戻る。
「おはよう、マコト」
「あ、おはよう、二葉さん。今日も早いな」
「あなたの平均登校時間より二分十四秒遅いわよ。……待ちくたびれたわ」
最後の言葉だけを小さく呟きながら、二葉さんがすっと一枚の折りたたまれたメモを俺の机に滑らせてきた。
その指先が、わざとのように俺の手の甲に触れる。
ひんやりとした見た目に反して、彼女の体温は驚くほど温かかった。
「なに、これ」
「放課後、屋上に来なさい。三人で、話があるの。……逃げるのは、許可しないわ」
淡々とした声。
けれど、机に伏せられた文庫本のページは、さっきから一度もめくられていなかった。
「逃げるって……」
「おはよー、誠!」
背後から、不意に視界が塞がれた。
背中に柔らかな重みが押し付けられ、目隠しした手のひらの体温が頬に伝わる。
「うおっ、一花さん、ち、近いって」
「あはは、何それ、心臓どきどき鳴ってんじゃん。誠ってば純情すぎ」
俺の肩越しに顔を覗き込んできた一花さんは、からかうように笑う。
だが、そのまま耳元に唇を寄せてきて、内緒話をするように囁いた。
「今日、放課後は逃がさないからね。ぜーったい、だよ」
「逃がさないって……一体何を企んでるんだよ」
「ふふん、それは来てからのお楽しみ!」
吐息が耳にかかり、背筋にぞくっとしたものが走る。
冗談めかした口調の奥に、金曜の帰り際に見せたような、有無を言わせない本気の熱が混じっていた。
「あっ! 一花お姉ちゃん、二葉ちゃん、抜け駆けはずるいよ!」
慌てたような声とともに、三桜さんが駆け寄ってくる。
勢い余ってつんのめりそうになった彼女を、俺は思わず両腕で受け止めた。
「っと、危ない」
「わっ……ごめんね、誠くん。ありがとう」
腕の中にすっぽりと収まる、小さな体。
ベビーパウダーのような甘く優しい匂いが、ふわりと漂う。
三桜さんは俺の制服の裾をぎゅっと掴むと、上目遣いで見上げてきた。
「私も、待ってるからね。誠くんのこと」
「……三人とも、一体どうしたんだよ」
「「「秘密」」」
三人の声が、ぴたりと重なる。
予鈴のチャイムが鳴り、三人がそれぞれ自分の定位置へと戻っていく。
その背中を見送りながら、俺は大きく息を吐き出した。
単なるからかいじゃない。
何か決定的なことが起きようとしている。
そんな予感が、静かに、けれど確実に俺のなかで膨らんでいた。
◇
昼休み。
俺が購買で買ったパンの袋を開けようとした瞬間、机の周りに三つの椅子が引き寄せられた。
「誠、またパンだけ? それじゃ元気出ないっしょ。ほら、あたしのチキン分けてあげる!」
「コンビニの揚げ物は栄養バランスが最悪よ。マコト、この野菜の煮浸しを食べなさい。ビタミンを計算してあるわ」
「誠くん、私、お弁当作ってきたよ! 誠くんが甘くない卵焼きが好きって言ってたから、特にお出汁をたっぷりきかせてきたの!」
三者三様の弁当箱とコンビニ袋が、俺の机を占拠する。
「いや、俺は自分のパンがあるから……」
「遠慮は非合理的よ。さあ、口を開けなさい」
「ちょ、二葉ちゃん、無理やり詰め込んじゃダメだよ!」
わいわいと騒ぐ三桜さんに、二葉さんが淡々と指摘する。
「三桜。あなた、今朝は出汁の割合に悩みすぎて、卵焼きを巻くのに三十分もかけていたわよね。お弁当箱の彩りも、何度も詰め直していたし」
三桜さんの顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。
「ふ、二葉ちゃん! それは内緒って約束したのに!」
「あははっ! 三桜、朝から張り切りすぎだし! あたしみたいに、このプレミアムなチキンを自らの手で用意するくらいの器量がないとね!」
勝ち誇る一花さんに、今度は二葉さんが冷ややかな視線を向けた。
「その用意が、寝坊してパニックになりながら、ホームルームの五分前に校門前のコンビニへ駆け込んだことを指すのなら、そうね。レジ袋を下げて廊下を走る姿、ばっちり見えていたわ」
「ぐっ……! な、なんであたしのことまでバラすのさ! 気持ちの問題だよ、気持ち!」
「不器用でも一生懸命に早起きして作ってくれた三桜さんと、完璧に計算された二葉さん……って、一花さんはコンビニなのか」
俺が呆れ半分、感心半分でこぼすと、二葉さんはわずかに胸を張り、誇らしげな表情を浮かべた。
「当然よ。私のタイムマネジメントは完璧だもの」
すると、一花さんが目を細めて反撃に出る。
「へえ? じゃあなんで、二葉の弁当箱には誠の好きなおかずばっかり詰まってるわけ? 自分の分より、誠の分の方に時間かけてたじゃん」
ぴたり、と。
二葉さんの動きが止まり、その白い耳が瞬く間に真っ赤に染まった。
「そ、それは単なる……余剰食材の統計的な確率の問題であって……」
「顔、真っ赤っしょ!」
「二葉ちゃん、照れてる!」
「二葉さん、耳まで赤いぞ」
「マ、マコトまで……っ! これは血行が良いだけよ! あなたたちは黙ってなさい!」
狭い机の周りで、三人がああでもないこうでもないと小競り合いを続けている。
けれど、その空気はどこまでも温かかった。
俺は、三桜さんの卵焼きを一口もらった。
出汁の塩気がきいていて、とても美味しい。
「すごく美味いよ、三桜さん。ありがとう」
「ほんと!? えへへ、やったぁ!」
三桜さんが花が咲いたような笑顔を見せる。
すると一花さんが、机の上の俺の右腕に胸を押し付けるように身を乗り出してきた。
「ねえ、あたしのは? はい、あーんして」
「教室で破廉恥な行為は慎みなさい。マコト、口を開けなさい。私が野菜を補給してあげる」
「なんで二葉が食べさせるのさ!」
賑やかな昼休みが過ぎていく。
この楽しくて騒がしい日常が、ずっと続けばいいのに。
俺は心の底から、そう思っていた。
――放課後に待っているものから、できるだけ目を逸らしたまま。




