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第30話 ドアが閉まった後の、三姉妹

角を曲がって、リオンの視界から外れた瞬間。

 三人の足が、示し合わせたみたいに止まった。


 振り返っても、あるのは曲がり角の壁だけ。

 さっきまで聞こえていた足音も、もう夜に溶けて届かない。

 街灯のオレンジ色の光が、空っぽの歩道を照らしているだけだった。


 しばらく、誰も動かなかった。


 やがて一花がふっと息を吐いて、歩き出す。

 二葉が無言で続いた。

 三桜が小走りで二人の背中を追う。

 行きはあんなに賑やかだった夜道が、帰りは嘘みたいに静かで、靴音だけが三つ、等間隔に落ちていった。


 三人とも、ひとことも口をきかなかった。


  ◇


 見上げるほど高いタワーマンションが、夜空を背にして聳えている。

 最上階の角部屋。

 三人だけの、広すぎる家。


 三桜が鍵を開けて、二葉がドアを引き、一花が最後に入った。

 その玄関の扉が、ことん、と静かに閉じられる。


 小さな音を合図に、さっきまで賑やかだった家の空気が、すうっと冷えていった。


 誰からともなく、三人はリビングへ足を向ける。

 ついさっきまで四人で囲んでいたテーブルが、一人分だけ空いて、やけにがらんとしていた。


 ソファに腰を下ろした三桜は、さっき放り出したままのクッションを引き寄せて抱え込み、その上に顎を乗せてうつむいた。

 その隣に腰を落とした一花の口元からは、いつもの余裕のある笑みが完全に抜け落ちている。

 二葉は、硬い表情のまま、組んだ腕をほどこうともせず、ただ閉じられた玄関の扉の方角をじっと見据えていた。


 最初に口を開いたのは、二葉だった。


「一花も、三桜も」


 静かな、けれど有無を言わせない響きが、夜のリビングに落ちる。


「リオンを送るどさくさに紛れて、こっそり、何か囁いたでしょう」


「……二葉こそ、人のこと言える立場?」


 一花が、ソファの背もたれに寄りかかりながら、ふん、と鼻を鳴らした。

 前髪をかき上げる指先が、どこかいら立っている。


「リオンの袖、ちゃっかり摘まんでたくせに。なに、『惑わされないで』とか言っちゃった感じ? あたし、見逃さなかったからね」


「っ……それは……」


 図星を突かれたのか、二葉の白い頬が、ほんのわずかに赤く染まる。

 それでも、腕を組んだままの姿勢は崩さず、言い返す言葉を探すようにわずかに唇を噛んだ。


「ただのスキンシップよ。何の問題もないわ」


「思いっきり問題あるっしょ。だいたい、二葉ってばさ、いつもいつも理屈で武装してリオンにべったりじゃん。あれ、バレバレなんですけど?」


「……うるさいわね。近くにいたかっただけよ」


「あーっ、いま素直になったでしょ。あたしたちの前だから、ぽろっと出ちゃうんだよね」


「一花には関係ないでしょう。……だいたい、あなただって」


 二葉の視線が、まっすぐに一花を捉えた。


「別れ際、リオンの耳元に顔を寄せていたわよね。何を囁いたの」


「……あー。まあ、ちょっとね」


「答えなさい」


「やだ。……ないしょ」


 一花が指先で毛先をくるくると巻きながら、そっぽを向いた。


「二人とも、やっぱりずるいよ」


 ぽつり、と。

 クッションに顔を埋めたままの三桜が、くぐもった声を上げた。


「私は正面から、リオンの目を見て言ったもん。……こっそり、なんてしなかったよ」


「「…………」」


 一花と二葉が、同時に言葉を詰まらせる。

 三桜のこういう打算ゼロのまっすぐすぎる言葉は、ときどき、二人のどんな屁理屈よりも鋭く胸に刺さる。


「一花お姉ちゃんも、二葉ちゃんも……いっつもそうやって、余裕ぶって」


「余裕なんて、ないわ」


 二葉の低い声が、三桜の言葉を遮った。

 組んだ腕の、その指先が、自分の二の腕にきつく食い込んでいる。


 ぴりぴりとした沈黙が、広いリビングに落ちた。


 こんなことは、今まで一度だってなかった。


 仕事で世界中を飛び回る両親。

 頼れるのは、いつだってたった一つきり――すぐ隣にいる、自分とよく似た顔の姉妹だけだった。


 だから、なんでも分け合ってきた。

 おやつの最後の一個も、可愛い服も、馬鹿みたいな冗談で笑い転げた夜も、布団をかぶって泣いた夜も。

 胸の奥にそっとしまっておいた、ちいさな夢だって。

 一人で抱えきれないものは、三人で支え合って。

 そうやって、ずっと三人だけで生きてきた。


 同じ顔に生まれて、同じように悩んで、同じように傷ついて。

 だからこそ、誰かが欠けたら成り立たないくらい、強く結びついていた。

 これからも、その絆だけは絶対に変わらないと、疑いもしなかった。


 ――でも。

 なんだって分け合ってきた三人が、たった一つだけ、どうしても分け合えないもの。

 あんなに不器用で、お人好しで、放っておけないあの人の存在だけは。


「……今まではさ」


 沈黙を破ったのは、一花だった。

 背もたれに体重を預けたまま、足を組み替えて、天井を仰ぐ。


「あたしたち、リオンのこと、こんなふうに取り合ったりしなかったじゃん。みんなでわいわい楽しくやって、それでよかったのに」


「ええ。でも、もう、それじゃ足りなくなった。……みんな、気づいてしまったから」


 二葉が、腕を組んだまま静かに答えた。


「学校で、あの人の隣の席に座れるのは一人だけ。手を繋いで帰れるのも、一人」


 二葉の声には、いつもの淡々とした冷静さがなかった。

 代わりに、押し殺した熱が低く滲んでいる。


「……いつか、あの人が誰かに『好きだ』と告げる日が来るのなら。その相手だって、たった一人だけよ」


 誰も言い返せなかった。

 それは、三人がずっと、必死に見ないふりをしてきた、たった一つの残酷な現実だった。


 その沈黙を最初に破ったのも、やっぱり一花だった。


「……あたしは、譲らないよ」


 顔を上げた一花の目には、もう、さっきまでの迷いはなかった。


「リオンと、いちばんたくさん、くだらないこと言い合って、笑い合ってきたのは、あたしだもん。あの空気だけは、誰にも渡さない」


 軽い言葉に聞こえて、その声は、かすかに震えていた。


 一緒に並んで歩いた帰り道。

 自分の本当の心を見透かしてくれそうな、あの心地よい距離感。

 それだけは、絶対に手放したくない。


「……奇遇ね」


 二葉が、組んでいた腕をゆっくりとほどいた。


「私だって、同じよ。あの人のことだけは、誰にも譲れないの。一ミリだって。……だから、私も、引くつもりはないわ」


 まっすぐに前を見据えた横顔は、普段の冷静な二葉とは別人のようだった。

 静かで、それでいて底なしに重い声。


「――一度こうと決めたら、私、諦め方を知らないの。……知っているでしょう」


「私だって!」


 声がひとつ、裏返った。

 三桜が、抱きしめていたクッションをぎゅっと抱え直し、立ち上がる。

 その目には、うっすらと涙が滲んでいた。


「リオンは、私と一緒にいるとき……すごく、ほっとした顔で、笑ってくれるんだもん」


 涙声なのに、その目はまっすぐだった。


「……あの顔は、私だけのものにしたいの。だから、私も、ぜったいに負けないもん」


 三者三様の、まっすぐな宣言。

 誰も引こうとしない、本気のぶつかり合い。

 静まり返ったリビングに、三人の荒い息づかいだけが響く。


 ――けれど不思議と、そこにいやな空気はなかった。


 やがて。


「……あーあ」


 一花が、ふっと力の抜けたような声を出し、ソファに深く沈み込んだ。

 天井を見つめながら、くすくすと笑い声を漏らす。


「まさか、あたしたちが本気で、リオンのこと取り合う日が来るなんてね。ちょっと前まで、考えられなかったでしょ」


「……そうね。計算外もいいところよ」


 二葉も、小さくため息をつきながら、どこかおかしそうに口元を綻ばせた。

 いつの間にか三桜の隣に立ち、その柔らかい髪をそっと撫でている。


「でも。だからこそ、こそこそ抜け駆けし合うのは、もうなし。そうでしょう? ……そんなの、私たちらしくないもの」


「うん。……私も、そう思う」


 三桜が目尻に滲んだ涙をぐいっと手の甲で拭った。

 一花お姉ちゃんも、二葉ちゃんも、大好きだから。

 だからこそ、この気持ちだけは、絶対に誤魔化してはいけない。


 一花が、二葉と三桜の顔をぐるりと見回した。

 そして、にっ、と笑う。

 それは手強いライバルに向ける不敵な笑みでもあり、大好きな妹たちに向ける、いつもどおりの笑みでもあった。


「月曜日」


 勢いよくソファから立ち上がる。


「月曜日。三人そろって、リオンに、ちゃんと宣戦布告する。こそこそなしの、正々堂々。一人ずつ、自分の気持ちを、まっすぐぶつけるの。……それで、いいわね?」


「望むところよ。私たちなら、正々堂々戦ったところで、絆が壊れたりしないもの」


 二葉が、静かに、けれど力強く頷く。


「うんっ。私も、絶対に引かないからね!」


 三桜も、クッションを抱えた腕に力を込めて、こくこくと頷いた。


 三人の決意が、ピタリと一つに重なる。

 仲良し三姉妹の、生まれて初めての本気の戦い。

 その火蓋が、三人きりの夜のリビングで、静かに切って落とされた。


「……それにしても」


 ふと、一花が悪戯っぽく笑い出した。


「月曜日いきなり、あたしたち三人から同時に宣戦布告されるなんて、リオンも思ってないよね」


「ええ。きっと今頃、のんきに自分のベッドで寝息を立てている頃よ」


 二葉も、あきれたように言いながら、その目は優しく細められている。


「えへへ。リオン、どんな顔するかなぁ。『お前ら、どうかしたのか?』って、目を丸くして驚くかも」


「ふふっ、目に浮かぶわね。少しは私たちの本気に、焦ってほしいものだけれど」


「あたしたち三人にいっぺんに迫られたら、さすがのリオンもパニックになるっしょ」


 一花がぷっとふき出す。

 その笑い声につられるように、二葉までもがこらえきれずに口元に手を当てた。


「……まったく。あの人は、昔からそうなのよ」


「でも、リオンのそういうところが――」


 三桜が言いかけて、ぱっと口を塞いだ。


「あー、今のなし!」


「ずるいよ、三桜」


「ずるいわよ、三桜」


 一花と二葉の声が重なった。

 三人は思わず顔を見合わせて、今度こそ声を揃えて、くすくすと吹き出す。


 夜は、まだ静かに更けていく。

 長い一日の終わりに三姉妹が決めたのは、月曜日の宣戦布告だった。

 綾瀬家の三姉妹をめぐる本当の物語は――いよいよここから、幕を開ける。

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