表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/32

第29話 星座を見上げるルナ、揺れる三つの影

家のドアを開けて、自分の部屋へ戻っても。

 耳の奥には、まださっきの三つの囁きが、こびりついたまま離れてくれなかった。


 本当はあたしが、一番好きでしょ、と笑った一花さん。

 流されないで、と袖を摘まんだ二葉さん。

 特別になりたい、と手を握ってきた三桜さん。

 どれも、声の調子も、ぬくもりも、まるで違って。

 それでいて、どれも、同じくらい、まっすぐだった。


 ベッドに倒れ込んで、目を閉じる。

 ……だめだ。

 とてもすぐには、眠れそうにない。

 胸の真ん中が、まだ、妙にざわついて、落ち着かなかった。


 気づけば、俺の手は、半ば習慣みたいに机の上のパソコンへと伸びていた。

 日課の『エデン・オンライン』。

 現実が、どれだけ騒がしくかき回されても。

 この世界だけは、ずっと、俺の変わらない居場所のはずだった。


 ……はずなのに。

 今夜に限って、ログインしようとする指先が、ほんの一瞬だけためらった。

 そのためらいの理由を、深く考えるのがなんだか怖くて。

 俺は、勢いをつけるみたいに、その先へと、踏み込んだ。


 モニターの青白い光が、暗い部屋にぽつりと灯る。

 見慣れた拠点の広場に、重騎士の【リオン】が静かに降り立った。

 フレンドリストを開く。

 【ルナ】。


 その名前は、今夜はまだ、灰色に沈んだままだった。

 ステータスは、『オフライン』。


 ……いない、のか。

 俺は、広場の隅に【リオン】を立たせたまま、なんとなく、その場で待ってみることにした。

 べつに、約束を交わしているわけでも、ないのに。

 どれくらい、そうしていただろうか。


 ふいに、フレンドリストの【ルナ】の名前が、灰色から、ぽっと色を変えた。

 『オンライン』。


 とくん、と心臓が小さく鳴る。

 ……今、この画面の向こうに来たのは、誰なんだろう。

 ほんの数日前の俺なら、迷わず探りを入れていたはずの、その問いを。

 なぜだか今夜は、口にする気になれなかった。


 俺は、いつものように、チャットを打ち込む。


『ルナ、こんばんは。今日も、お疲れ』


 送信すると、ほとんど間を置かずに、やわらかな返事が流れてきた。


『こんばんは、【リオン】。えへへ、今日も会えて、嬉しいな』


 ……今夜のルナは、やけに言葉が優しい。

 いつもの、軽口や、こちらをからかうような勢いは、すっかりなりを潜めて。

 一文字、一文字が、そっと包み込むみたいに、穏やかだった。


『【リオン】は、今日、なにか良いこと、あった?』


 その何気ない問いに。

 俺の指が、キーボードの上で、ぴたりと止まった。


 あった、と言えば、あった。

 いや、ありすぎた、というほうが正しい。

 現実で、三人の女の子に囲まれて。

 夜道で、それぞれの本音を囁かれて。

 胸の奥が、今もまだ、こんなにも、ざわついている。


 ……でも。

 それを、この画面の向こうのルナに、どう打ち明ければいいのか。

 俺には、まるで、見当もつかなかった。


 ゲームの中のルナ。

 現実のあの三人。

 そのふたつが、頭の中で、こんがらがって、ほどけない。


『……いや。いつも通りの、平凡な一日だったよ』


 結局、俺は、そんな小さな嘘をついてしまった。

 チャット越しのこの子になら、いつだって素直になれる――そう、思っていたのに。

 今夜は、初めて。

 言いたくても、言えないことができてしまっていた。


『そっか。……でも、お疲れさま。【リオン】、なんだか今日は、ちょっとだけ、疲れてるみたいだね』


 画面の向こうから、ふわりと気遣う言葉が届く。

 俺は、思わず苦笑してしまった。

 ……ばれてる。

 顔も見えない、声も聞こえない、ただの文字の連なりなのに。

 俺が、ちょっとばかり参っていることまで、ちゃんと読み取ってくる。


『無理は、しちゃだめだよ。【リオン】は、いつだって、頑張りすぎなんだから』


 ぽん、とそんな言葉が、画面に灯った。

 俺の代わりに前へ出ることも、傷を癒やすこともできない、ただの文字の羅列なのに。

 どうしてだろう。

 そのたった一行だけで、強張っていた肩から、すっと力が抜けていく気がした。


 三年だ。

 三年も、こうして、言葉だけを交わしてきた。

 文字の打ち方、間の置き方、選ぶ言葉のひとつひとつから、滲んでくるこの温度。

 俺が、ルナの顔のかわりに、ずっと覚えてきたもの。

 それだけは、今夜もまぎれもなく――俺の知っている、ルナのものだった。


 ……おかしな話だ。

 俺は、この画面の向こうの女の子のことだけを、思っていればよかった。

 顔も名前も知らない、たった一人のルナ。

 それで、じゅうぶん、満たされていたはずなのに。


 なのに、今は、どうだ。

 画面の向こうの、ルナの温度と。

 さっき、現実で俺に触れた、三つの手のぬくもりとが。

 胸の中で、まったく同じ重さで、並んで揺れている。


 ルナを、見つけたい。

 その気持ちは、嘘じゃない。

 けれど、それとちょうど同じくらい。


 現実のあの三人と、ちゃんと向き合いたいとも思ってしまっている。

 ……どちらか一方を、選べと言われたって。

 今の俺には、とても、できそうになかった。


 ふと、突拍子もない思いつきが、頭の隅をかすめる。

 一台の画面を、何人かで囲んで。

 誰かがマウスを握り、別の誰かが、後ろから言葉を継ぎ足している――そんな絵。


 ……いや。

 今夜は、もう、よそう。

 その答えを、無理やり暴こうとすればするほど。

 きっと、いちばん大事な何かから、目を逸らすことになる気がした。


 俺は、浮かびかけたその考えを、そっと畳んで、頭の隅にしまい込んだ。


 それから、しばらく。

 俺とルナは、他愛のない言葉をぽつ、ぽつ、と交わした。

 今夜は、狩りにも、ダンジョンにも行かなかった。

 ただ、拠点の広場の隅に、二つのアバターを並べて、ゲームの中の星空を見上げているだけ。


『ねえ、【リオン】。あの星座、覚えてる? ずっと前に、二人で勝手に、名前つけたやつ』


『ああ。……お前が、無理やり「【リオン】の盾座」とか言い張ってた、あれだろ』


『えへへ、よく覚えてるね。あれ、私の、いちばんのお気に入りなんだ』


 くだらない、昔の思い出話。

 なんてことのない、やり取り。

 それなのに、一文字ずつ画面に灯っていく、その言葉のひとつひとつが、今夜はやけにあたたかかった。

 ……それだけで、不思議と、ささくれだっていた心が、少しずつ、凪いでいった。


『そろそろ、寝るよ。……おやすみ、ルナ』


『うん。おやすみなさい、【リオン】。……ちゃんと、あったかくして、寝るんだよ』


 最後の最後まで、優しい声だった。

 俺は、小さく笑って、ログアウトのボタンを押す。

 目の前の星空も、隣に並んだルナのアバターも、すうっと光に溶けて、画面から消えていった。


 暗くなったモニターに、ぼんやりと、俺自身の間の抜けた顔が映る。

 答えは、結局、何ひとつ、出ていない。

 ルナの正体も。

 あの三人への気持ちも。

 ……それでも、不思議と、嫌な気分ではなかった。


 俺は、画面を閉じて、ベッドにもぐり込む。

 今夜は、いつもより、ずっと早く眠りに落ちられそうな気がしていた。


 ――けれど。

 この同じ夜に、もう一つの物語があったことを。

 その時の俺は、まだ、何も知らずにいた。


 同じ月が、静かに照らしている。

 俺を見送った、三つの影のほうへ――。

 夜は、ほんの少しだけ、時を遡る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ