第28話 夜の帰り道と、三つの囁き
綾瀬家のタワーマンションを出ると、賑やかだったリビングの空気が嘘のように、しんと静まり返っていた。
六月のひんやりとした夜の空気が、火照った頬を撫でていく。
住宅街へと続く歩道には、規則正しく並んだ街灯の明かりが、等間隔に落ちていた。
オレンジ色の光に照らされて、四人ぶんの影が長く伸びては、また足元へと縮んでいく。
靴音だけが、静かな空気にぽつぽつと落ちていった。
ふと、俺は三人の気配を窺った。
リビングではあれほど騒がしかったのに、今はただ黙って、俺の隣を歩いている。
……三人とも、不思議なくらい口数が少ない。
「……なんか、静かだな」
思わず漏らした声が、夜の中でやけに響いた。
「そりゃ、夜だもん。大きい声出すと、響くっしょ?」
一花さんが、ひそひそと囁くような、やわらかい声で返す。
いつもの小悪魔的なからかいの色は薄くて、どこか大人びた響きがあった。
「近所迷惑になるわ」
二葉さんのほうは、それだけ。
「でも、昼間より涼しくて気持ちいいな」
「だね。昼間はあんなに暑かったのに」
「それは、単に昼間の教室の人口密度が高かったからよ。特に、マコトの席の周りは異常だったわ」
二葉さんが左隣で、静かにそんな皮肉をこぼした。
気づけば、その歩幅はこちらにぴたりと揃っている。
いつの間にか肩がすぐ隣にあって、夜気の中で、そこだけがほんのりと温かい。
「それは……二葉さんも原因の一部だと思うんだけど」
「私は合理的に行動しただけよ。自分の指定席を確保しただけ」
「あはっ。堂々と席まで買収しといて、よく言うっての」
「事実を述べたまでよ。何か問題でも?」
「ないですー」
後ろのほうで、ぽてぽてと小走りの足音がする。
「ま、待ってよぉ……」
三桜さんが少し遅れて、駆け寄ってきた。
追いついた拍子に俺の腕へぽすっと額をぶつけて、そのまま袖口をきゅっと掴む。
「三桜さん、転ぶぞ」
「大丈夫……誠くんが、ゆっくり歩いてくれれば」
くすぐったそうに笑う三桜さんの顔が、街灯の光に照らされた。
「私、夜のお散歩ってあんまりしたことないかも」
「そっか。三人だけで住んでるなら、夜はあんまり出歩かないか」
「うん。でも、今日は誠くんが一緒だから、ぜんぜん怖くないよ」
後ろから、一花さんがひょいと顔を突き出した。
「へぇ? あたしがいるから、じゃないんだ?」
「一花お姉ちゃんもいるよ? でも、誠くんは特別だもん」
「うぐっ……ま、まあ、そういうことなら、許してあげる」
浮かれている姉妹二人へ、二葉さんが冷ややかな目を向けた。
「……三桜、マコトの防犯能力を過大評価しすぎよ。いざという時は、私が持っている防犯ブザーの方が確実ね」
「二葉ちゃん、そんなの持ってたの?」
「常に最悪の事態を想定しておくのが、私のポリシーだから」
「ちょっと二葉、それだと誠が頼りないみたいじゃん。誠だって、いざって時は身体張って守ってくれるっしょ? ねえ?」
一花さんが、ふざけたように俺の肩を小突く。
「いざって時が来ないのが一番だけどな。でも、まぁ……男だし、盾くらいにはなるよ」
「ふふっ。なんだか、頼もしいね」
三桜さんが、掴んでいた袖からそっと手を離して、くすくすと笑った。
気まずいわけじゃない。
けれど、賑やかさが引いたぶん、四人のあいだの距離が、いつもよりずっと近く感じられた。
「今日、来てくれて……ほんとに、嬉しかったんだ。私たちのお部屋まで、ちゃんと、見てくれて」
三桜さんが、ふわりとした声で言った。
夜の空気に弾むような、でもどこか甘えた響き。
「三桜。それは私たち全員の総意よ」
「二葉ちゃんもそう思う?」
「……また来ればいいわ。あの家は、いつでもあなたを歓迎する」
二葉さんが、ぽつりと呟いた。
歩幅はそのままこちらに合わせたまま、前だけを見ている。
街灯に照らされた横顔は、耳の先がうっすらと赤い。
昼間の二葉さんなら、こんな言い方は絶対にしない。
夜の静けさには、人を、ほんの少しだけ正直にさせる力があるのかもしれない。
「……二葉ってば、夜になるとすーぐ素直になるんだから」
一花さんが、口元に笑みを浮かべた。
「何か言った? 一花」
「いーえ、なーんにも」
その瞬間、三桜さんがぷっと吹き出した。
「一花お姉ちゃんだって、さっきから声がいつもよりちっちゃいよ?」
「は? あたしは別に普通だし」
「いや、いつもと違うだろ、ふたりとも」
俺がつい口を挟んでしまう。
「誠まで! もう、夜道に響くってば!」
一花さんが慌てて声を抑える。
くすくす笑いが四人のあいだにこぼれて、すぐに夜の静けさに溶けていった。
賑やかなのもいいけれど、こんなふうに静かに言葉を交わしながら歩く時間も、悪くない。
そう思ってしまう自分がいた。
◇
やがて、住宅街を抜けた先に、大通りの明かりが、ぼんやりと滲んで見えてきた。
学校の最寄り駅へ続く道だ。
ここから先は、駅へ向かう俺と、家へ戻る三姉妹。
別れ道は、もうすぐそこだった。
「もう、ここでいいよ。駅まですぐそこだし」
立ち止まって振り返ると、三人も揃って足を止めた。
「これ以上行ったら、三人の帰りが遠くなる。送ってくれて、ありがとう」
俺がそう告げると、三人は無言で顔を見合わせた。
それから、まるで示し合わせたかのように、一人ずつ順番に、俺のそばへと近づいてくる。
最初に動いたのは、一花さんだった。
するりと前に出て、俺の胸元にそっと手をつき、つま先立ちになる。
甘い柑橘系の香水がふっと濃くなって、温かい吐息と唇が、耳のすぐ傍にまで寄せられた。
「ねえ、誠」
吐息が耳を撫でて、心臓が一気に跳ね上がる。
「……ほんとはさ。三人の中で、あたしのことが、いちばん好きなんでしょ?」
挑発するような、自信に満ちた囁き。
でも、俺の胸についた指先が、かすかに震えている。
「昼間、あたしの部屋にいた時……誠、すっごく安心した顔してたの、あたし気づいてたよ」
「それは……」
「だからね、嘘つかなくていいんだよ。誠は、あたしを選べばいいの」
「……なんてね。半分は、冗談」
ふっと身を引いた一花さんは、いつものように笑っていた。
けれど、顔を離した一瞬、その目の奥が揺れるのを、俺は見てしまった。
不安、というには淡すぎて、冗談、というには深すぎる何か。
「残り半分は?」
「……バーカ。それは、自分で考えなさいよ」
一花さんが指で俺の額を軽く弾いて、一歩退いた。
入れ替わるように、二葉さんが俺の正面に立った。
何も言わず、俺の制服の袖を、指先で摘まむ。
ひんやりとした指が、夜気のぶんだけ冷たい。
でも、摘まんだ袖を離す気配がない。
「……惑わされないで」
低く、静かな声だった。
「他の二人の勢いに、流されないで。ちゃんと自分の目で、見極めて。誰が……本当に、あなたのことを想っているのか」
有無を言わせない響きだった。
「マコトを想う気持ちだけは、私、誰にも負けない。だから……」
まっすぐに俺を射抜く瞳の奥に、隠しきれない何かの重さが滲んでいる。
その重さは、袖を摘まんだ指先からも、じわりと伝わってきた。
「私だけを、見ていなさい」
絡め取るような、静かな宣言。
その冷たくて強い指を、俺はもう、嫌だとは思わなかった。
「二葉さん」
「……何」
「俺は、流されてるつもりはないよ」
「……そう」
二葉さんの指が、すこしだけ強く、袖を握り直した。
まるで、離すのが惜しいみたいに。
それから、ふい、と顔を背けて手を放す。
口元がほんのわずかに上がっているのが、街灯の光でちらりと見えた。
最後に、三桜さんがぱたぱたと小走りで、俺の正面へ回り込んできた。
何も言わずに、俺の片手を、そっと両手で包む。
小さな手のひらだけが、ひんやりした夜気の中で、驚くほど温かい。
ベビーパウダーの甘い匂いが、ふわりと夜風に乗って届いた。
「私、やっぱり誠くんの特別になりたい」
真っ直ぐに見上げてくる目に、嘘も駆け引きも、一片もない。
「ぜったい、なってみせるんだから」
声は少し震えていた。
それなのに、握りしめた指先だけは妙に温かくて、離れない。
「私はただ、誠くんの隣にいたいだけなの。ずっと、ずっと」
――近い。
三桜さんの体温と、甘い匂いと、真っ直ぐすぎる言葉が、全部同時に押し寄せてくる。
「三桜さん……」
「えへへ。言っちゃった」
三桜さんが照れたように笑って、俺の手を最後にきゅっと握り直してから、そっと離した。
三つの、まったく違う色の囁きを、続けざまに受けて。
俺は、すぐには何も言えなかった。
強がりの一花さん。
静かに射抜く二葉さん。
真っ直ぐにぶつけてくる三桜さん。
向いている方向は、てんでばらばらなのに。
どれも、同じくらい本気で、同じくらい重たくて。
……正直、この中の誰か一人を選ぶなんてことは。
今の俺には、とてもできそうになかった。
三人とも、本気だ。
その場の勢いでも、ただのからかいでもなく。
ひとりの相手に向けて、まっすぐに差し出された、三つの本物の想い。
それを、こんなにも近くで浴びておいて、平気な顔をしていられるほど。
俺は、鈍くも薄情でも、なかった。
でも。
ここで、適当に笑ってはぐらかすことだけは。
それだけは、この三人に対して、いちばんしてはいけない気がした。
「……ごめん。今すぐ、答えは出せない」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「でも、逃げない。三人の気持ちから、目は逸らさない」
一花さんの、揺れた目を。
二葉さんの、離さなかった指先を。
三桜さんの、震えていた声を。
「ちゃんと、向き合う。それだけは、約束する」
我ながら、不器用で、格好のつかない返事だった。
それでも、今の俺に出せる、精一杯の誠意だった。
きょとんとしていた三人が、やがて、ふっと肩の力を抜いた。
「うん。それで、いいよ」
一花さんが、小さく頷く。
いつもの軽さじゃない、静かな声だった。
「及第点を、あげる」
二葉さんが、ふいと目を逸らしながら、口の端をわずかに上げた。
「えへへ。誠くんらしいや」
三桜さんが、嬉しそうに胸の前で両手を組む。
じゃあね、という空気が、四人のあいだにゆるく広がった。
「じゃあね、誠。また学校で」
一花さんが、ひらひらと手を振る。
「遅れないことね、マコト」
「月曜日も一緒にお昼、食べようね、誠くん!」
「……おう。また、来週」
「あ、そうだ。誠くん」
歩きかけた三桜さんが、くるっと振り返る。
「月曜日のお昼、私、お弁当作ってくるね。誠くんの好きなもの、いっぱい詰めてくる」
「お、おう。ありがとな」
その様子を見ていた一花さんが、腰に手を当てた。
「ずるいよ、三桜。じゃああたしは、朝、駅まで迎えに行ってあげよっかなー」
「一花、それはただの抜け駆けでしょう。却下よ」
「えー。二葉こそ、どうせ朝からべったりする気のくせに」
「私は、正当な管理をするだけ」
「それを世間では、べったりって言うの!」
結局、三人はいつもの調子で言い合いながら、来た道――綾瀬家のほうへと歩き出した。
その賑やかな背中を見送って、俺も踵を返す。
大通りの明かりに向かって、一人で歩き出す。
数歩、歩いて。
なんとなく後ろが気になって、俺は一度だけ振り返った。
街灯に照らされた三つの背中は、もう随分と小さくなっていた。
寄り添うように歩き出したその横顔から、ふっと、笑みが抜け落ちたように見えたのは――気のせいだったのだろうか。
もう一度目を凝らそうとした瞬間、三人は角を曲がって、夜の向こうへ消えてしまう。
「……気のせい、だよな」
独り言は、静かな夜の空気に吸い込まれていった。
夜の暗さと、距離のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、小さく頭を振る。
冷たい夜風が、ひとつ頬を撫でていく。
今夜は、やけに月が明るい。
耳を撫でた、温かい吐息。
袖を摘まんだ、冷たい指先。
両手で包まれた、手のひらの熱。
どれ一つ振り払えないまま、俺は一人きりの夜道を、駅へと歩いていった。




