第27話 ゲームより、今は君たちを
外の夜景を映すリビングの大きな窓に、肩を寄せ合って笑い合う四人の影が並んでいる。
三つの部屋を巡る答え合わせが終わっても、誰ひとり「じゃあ、そろそろ」とは言い出さなかった。
学校のくだらない噂話。
今日のピザの、どの味がいちばんだったか。
一花さんが二葉さんのリンスを間違えて使って、こっぴどく叱られた話。
そんな他愛のない話をするたび、俺の両隣に座る一花さんと二葉さんの体温や、正面のラグで笑う三桜さんの声が、すぐそばで重なる。
……ただ、それだけのことが。
なんでこんなにも、胸の奥のほうまで温かいんだろう。
「あ、そうだ。ねえ誠、聞いてよ。三桜ってばさー、こないだ、台所でお味噌汁を作ろうとして、危うく家を燃やしかけたんだから」
「ちょっ、お姉ちゃんっ!? それ、誠くんには言わないでって、言ったのにぃ……っ」
「鍋を火にかけたまま、すっかり忘れて、リビングでぐうぐう昼寝していたのよ。煙感知器が鳴り出して、三人で飛び起きたわ」
「うぅ……だ、だって、ちょっとだけ、休憩するつもりが……」
二葉さんに、淡々ととどめを刺され、三桜さんが、両手で顔を覆ってうずくまる。
その、耳まで真っ赤になった様子がおかしくて、俺はつい吹き出してしまった。
「わ、笑わないでよぉ、誠くんっ」
「悪い悪い。……でも、なんか、すごく三桜さんらしいな、それ」
「むぅ……。それ、ぜーんぜん、褒めてないよぉ」
頬をぱんぱんに膨らませる三桜さんを見て、とうとう一花さんも二葉さんも、たまらず噴き出した。
「誠くん、聞かなかったことにしてね? ね?」
「いや、ちょっと聞きたい。何の味噌汁だったんだ」
「そこ!?」
「豆腐よ。鍋底に焦げ付いて、一週間は台所が焦げた匂いだった」
「一花お姉ちゃんがね、換気扇をぶんぶん回してくれたの……えへへ」
「笑い事じゃないんだけどね、ほんとは」
一花さんが呆れた顔で言うけれど、声の端に柔らかさがある。
三桜さんの世話を焼くときの一花さんは、小悪魔の仮面がすとんと落ちる。
「それ以来、三桜が台所に立つ時は二葉が必ず見張っているの」
「見張ってるんじゃないわ。安全管理よ」
「同じだよぉ……」
もう、笑いを噛み殺すのは無理だった。
「ご、ごめん。でも、なんか――いいな、三人って」
「よくないよぉ! 恥ずかしいだけだもん! ……で、でも、今度こそ、ちゃんとしたお味噌汁作るもん。誠くんに食べてもらうんだから」
「三桜。その前に、火を止める練習からよ」
「二葉ちゃんまでいじわる言うぅ……」
三桜さんが顔を真っ赤にして抗議するのを、一花さんが背中をぽんぽんと叩いて宥めている。
二葉さんは黙って麦茶を啜っていたが、口元がわずかに緩んでいた。
四人で、ただ笑っているだけの時間。
それなのに、胸の内側に温かいものが広がっていくのを感じる。
◇
ふと、三人の顔を眺めているうちに、俺はひとつ、奇妙なことに気づいた。
ほんの数日前まで。
俺がこの三人を見るときの目は、もっと別のものだったはずだ。
この中の、誰が本物のルナなのか。
仕草の一つ、言葉の選び方の一つから、その手がかりを探そうと――いつだって、どこかで息をひそめて観察していた。
なのに、今は、どうだ。
余裕ぶって、すぐ照れる、強がりな一花さん。
無愛想を装って、不器用に世話を焼く、二葉さん。
嘘がひとつもつけなくて、まっすぐに気持ちをぶつけてくる、三桜さん。
ルナの影じゃない。
一花さんは一花さんで、二葉さんは二葉さんで、三桜さんは三桜さんだ。
いつの間にか俺は、この三人を――ルナの正体を突き止めるための手がかりとしてではなく、ただ一花さん、二葉さん、三桜さんとして見ている。
……あれ。
俺、そもそも何のために、この家に来たんだっけ。
忘れ物のノートを、届けに。
それだけだったはずなのに。
「誠、早く帰ってゲームしたいでしょ?」
一花さんが、こちらを覗き込んできた。
声はいつものからかいの色を乗せているが、そのすぐ底に、ほんの少しだけ探るような、硬い響きが混じっている気がした。
「マコトのことだから、そろそろそわそわし始める頃合いかしら」
「誠くん、今日はゲーム、おやすみするの……?」
三人の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
いつもの俺なら、たぶん心のどこかで、早く帰ってログインしたいと、とっくにそわそわしていたはずだ。
けれど。
「……いや。今夜は、もう少し、いいや」
その言葉は、自分でも意外なくらい、すんなりと口から出てきた。
「ゲームより……今は、こうやって、三人と話してるほうが。なんだか、いい気分なんだ」
言ってしまってから、自分の台詞に、いちばん驚いていたのは、たぶん俺自身だった。
静かなリビングに、俺の言葉が落ちる。
三人の動きが、ぴたりと止まった。
「……っ、誠、あんたそれ……どういう意味かわかって言ってんの!?」
一花さんが目を丸くして、顔を真っ赤にして口元を覆う。
「マコト、その発言は……私たちへの、明確な……いえ、何でもないわ」
二葉さんはグラスをコースターに戻す際、かちゃりと大きな音を立ててしまい、動揺を隠すように俯いた。
三桜さんに至っては、分かりやすく目を潤ませている。
「ま、誠くんっ……! ほんとに、もう少し一緒にいてくれるの……?」
三桜さんがテーブル越しに身を乗り出して、俺の手をぎゅっと握りしめてきた。
柔らかくて、熱い手のひら。
その熱に釣られたみたいに、左腕を抱く一花さんの力も、ふっと強くなる。
「へぇー? たまには良いこと言うじゃん、誠」
一花さんがにやりと笑ったが、声がいつもよりほんの少しだけ柔らかい。
「……悪くないわ」
二葉さんが顔を背けたまま、短く呟く。
「私、誠くんのそういうところ、好きだなぁ」
「……お前ら、毎回毎回、それ言うの反則だぞ」
「あたしは何も言ってないけどー?」
「私も、事実を述べただけよ」
「私は本気だもん!」
三人ぶんの、まるで噛み合っていない返事が返ってきて、俺はもう、降参するしかなかった。
三人に囲まれて、こんなふうに笑い合う時間が、もう少しだけ続けばいい。
――柄にもなく、そんなふうに思ってしまう自分がいた。
◇
気がつけば、壁の時計はとっくに夜の九時を回っていた。
四人で笑って、話して、からかい合って。
麦茶のおかわりは三桜さんが何度も淹れてくれて、その度に俺のグラスの隣に、そっとコースターを置いていく。
一花さんはソファの上であぐらをかいて、俺の肩にもたれかかっては「あったかーい」と笑う。
部屋着越しに、体温と柔らかな重みが伝わってきた。
二葉さんは反対側で文庫本を開いていたが、ページは最初からずっとめくれていない。
「……そろそろ、本当に帰らないと」
名残惜しかったが、さすがにこれ以上は甘えすぎだ。
そう思って腰を浮かせた瞬間、三桜さんの手が飛んできて、俺の手首をつかんだ。
「えぇ……もう?」
三桜さんが眉を少し下げて、もう片方の手で俺の袖をつまむ。
それに釣られるように、一花さんが左腕を抱き締め直し、二葉さんが右の袖口をそっと摘まんだ。
三方向からのホールド。
立ち上がれない。
「もう、ってお前ら――九時過ぎだぞ」
「えー、まだ全然、話し足りないんだけど」
一花さんが頬杖をついて、不満そうに唇を尖らせる。
「じゃ、送ってく」
と、次の瞬間、一花さんがひょいとソファから立ち上がった。
当たり前みたいに玄関のほうへ歩き出す。
「一花だけだなんて、許さない。私も行くわ」
二葉さんが文庫本をぱたんと閉じて、すっと立ち上がる。
「私も、私も行くもん!」
三桜さんが膝のクッションを放り出して、ぱたぱたと二人を追いかけた。
「いや、三人で送ってくるって、大袈裟すぎないか……」
「大袈裟じゃないし。夜道は危ないっしょ」
「マコトは方向音痴ではないけれど、安全管理は必要よ」
「あたしたちが一緒なら、きっと誠くんも寂しくないよね!」
聞いちゃいない。
三人とも、もう玄関で靴を履いている。
俺は苦笑しながらソファを立ち、三人のあとを追った。
◇
綾瀬家のドアが開く。
静かだった夜のタワーマンションの内廊下に、賑やかな四人ぶんの足音が響いた。
エレベーターに乗り込んでも、三人はまだ何かを言い合っては笑っている。
……この調子だと、駅までの道のりも、静かにはなりそうにない。




