第26話 三つの部屋と、順位のつけられない答え
広いリビングに戻ると、先ほどまでの一瞬の沈黙は嘘のように消え去っていた。
三姉妹は、この広すぎる空間の静けさを塗り潰すように、賑やかに俺を取り囲んでくる。
「はい、誠くん。冷たい麦茶だよ!」
キッチンから麦茶のグラスを持って駆け寄ってきた三桜さんが、俺の正面、ラグの上にコロンと座り込んだ。
ローテーブル越しに見上げるように身を乗り出してくるせいで、襟元の隙間から白い肌が覗きそうになり、俺は慌てて視線をグラスの結露へ逃がす。
指先がひんやりして、少しだけ胸の内側も冷える。
三つの部屋。
三つの色。
そして、あの廊下での、一瞬の沈黙。
――この家、こんなに広いのに、三人のものしか、ないんだな。
言わなければよかった、と思う。
でも、口から出てしまった言葉は、もう戻せない。
それが、まだ胸のどこかに引っかかっていた。
その直後、右側のソファが静かに沈み込む。
「ちゃんと冷たいうちに飲みなさい」
二葉さんが真顔のまま、俺の右隣にすとんと腰を下ろした。
その際、身を乗り出すようにしてコースターを置いてくれたため、肩越しに清涼感のあるシャンプーの匂いがふわりと漂い、背中に二葉さんの柔らかな重みが一瞬だけ押し付けられる。
着痩せしている服の下の、予想以上の感触に心臓が跳ねた。
「あ、ありがとう」
「ちょっと二葉、抜け駆けはずるいでしょ。あたしもすーわろうっと」
すかさず、一花さんが俺の左腕に自分の腕を絡ませながら、ぴたりと密着してくる。
薄着の部屋着越しに、温かい体温が直接伝わってきた。
「で? 誠」
一花さんが、絡めた腕をぎゅっと押し付けながら、顔を覗き込んでくる。
声は明るいけれど、少しだけ探るような響きがある。
「ねね、それでさ。正直に答えてよ、誠。三つのお部屋の中で――どこが、いちばん良かった?」
「え……」
「一花。その質問は、少し酷ではないかしら」
反対側の隣から、二葉さんの声がした。
助かった、と一瞬だけ思う。
けれど二葉さんは、麦茶のグラスを傾けるふりをしながら、据わった目でこちらを見ていた。
「順位をつけるのは構わないわ。ただし――正直に。お世辞は不要よ、マコト」
全然、助け船じゃなかった。
「わ、私も知りたい! 誠くん、私のお部屋、どうだった?」
三方向からの、逃げ場のない圧。
冗談めかしているようでいて、三人の目にははっきりと期待の色が滲んでいる。
……これは、いちばん答えづらいやつだ。
誰か一人の名前を出した瞬間、残りの二人の機嫌が、音を立てて崩れ落ちる。
というより、答えを間違えたら、たぶん俺は、この家から出してもらえない。
それに、嘘ではなく、本当に順位などつけられなかった。
どの部屋も、ドアを開けた瞬間に誰の部屋か分かったのだから。
「……一番なんて、決められないよ」
「はぁ? 何それ、ずるーい。逃げのテンプレ回答じゃん」
一花さんが不満げに唇を尖らせる。
「逃げじゃない。本当に、三人それぞれらしかったから」
俺は一つ息を吐いて、思ったままの感想を口にする。
「一花さんの部屋は、可愛いものやきらきらしたものが隙間なくいっぱい詰まってて……その中に、見たこともないキャラの小さいぬいぐるみがちょこんと紛れてるのが、なんかいいなと思った。一花さんの明るさがそのまま形になったみたいで、良い部屋だと思う」
「な、何それ。べた褒めじゃん……。ま、まぁ、あたしのお部屋がいちばん『あたしらしい』のは、当然っちゃ当然だけどぉ?」
一花さんの腕の力が、ふっと緩んだ。
強がっているが、悪戯っぽい笑みが消え、耳まで真っ赤に染まっている。
「でも、一花さん自身がそうさせるのかもな。気負わずに話せるから」
「ばっ……誠! そういうこと、サラッと言うの禁止っしょ!」
語尾が完全に上ずっていた。
いつもは余裕たっぷりに人をからかう側の人が、自分の番になると、こんなにあっさり崩れるのか。
「二葉さんの部屋は、驚くくらい整頓されてて……本棚の参考書まで、背の高さ順にきっちり揃ってたし。あれが二葉さんにとっての『安心の形』なんだなって分かった。そのうえ一年ぶんの勉強計画まで作ってくれてて……管理されすぎだと思うけど、嬉しかった」
「……観察力だけは、悪くないみたいね。マコトは」
二葉さんはそっぽを向いて麦茶を口に運んだが、グラスを持つ指先がかすかに震え、横顔の耳の先が赤く染まっていた。
「言っておくけれど、あれは過干渉ではないわ。合理的な投資よ。マコトの成績を管理して、ずっと私の隣に置いておくのが、一番確実なのだから」
「でも、俺のためにあそこまで準備してくれてたのは、素直に助かるよ」
「……っ。なら、次回のテストは期待しているわ。及第点以下なら、毎日私の部屋で強制補習よ」
「それはそれで……いや、頑張るよ」
「三桜さんの部屋は、柔らかくてあたたかいものばかりで……すごく肩の力が抜ける、居心地の良い部屋だった。棚に並んでたフェルトのマスコット、あれ、もしかして手作りか?」
「あっ、気づいてくれたの!? そう、あれ全部、私が作ったの! ……えっ。誠くん、私のお部屋のこと、ちゃーんと見ててくれたんだ!」
三桜さんが、両手をぱっと広げて身を乗り出した。
「一緒に並んでルーくんを抱っこできたのも……なんだか、すごく癒やされたよ」
「えへへ……誠くんのお隣、ルーくんみたいにあったかくて、私もすごく落ち着いたよ。また一緒に、ぎゅーってしてもいい?」
三桜さんは両手で顔を覆いながら、指の隙間からこちらを見てへにゃりと笑う。
全力で喜ぶ気持ちを隠すつもりが、そもそもないらしい。
「いや、それはさすがに心臓に悪いから勘弁して」
「えー、ケチー。あ、じゃあ次は誠くんの部屋でぎゅーってする!」
「ちょっと三桜、抜け駆け禁止!」
「そうよ。マコトのプライベート空間を不当に侵食することは許されないわ」
「二葉ちゃんも一花お姉ちゃんも、ずるいよぅ。私が先に言ったのに!」
膨れっ面で言い返した三桜さんが、そこでぴたりと動きを止めて、二葉さんをびしっと指差した。
「……あっ。二葉ちゃんだって顔赤いじゃん!」
「……気のせいよ」
「気のせいじゃないでしょ、二葉」
一花さんがにやにやしながら突っ込んだが、自分の頬も赤いことには気づいていないらしい。
三者三様の照れた顔。
まったく同じ一言を受け取っただけで、三人ともこんなにも違う照れ方をする。
強がって照れる一花さんも、平気なふりで耳だけ赤くなる二葉さんも、まっすぐに好意をぶつけてくる三桜さんも、みんな可愛い。
……もっとも、口には出さない。
命に関わる。
グラスの氷は、いつの間にかすっかり溶けていた。
それでも誰ひとり、帰る話をしようとはしなかった。




